夏霞、或いはリフレインの輪廻
その日は休日で、俺はある用事から少し外に出ていた。天気はそこそこ良く、ゆっくりと散歩をしていってもいいかもしれないと思うくらいだった。
そしていると、ふと。
見覚えのある女の人の影が見えた。
その彼女はその俺の視線に気付いたようで、はっと気付けをしたように目を見開いてから、少しだけ早足でこっちに近付いてきてくれた。
「えっと…奇遇ね。なんだか、こんな事が多くてびっくりしちゃう」
「ええ、どうも。…ほんとっすね。最初の再会の時も『まさか』でしたし」
本当に、奇遇だとか偶然だとかこ言葉で片付けられないほどだ。約束もなく3度も合う人間は敵にしない方がいい、なんて昔なんかの本で誰かが言っていたような気がする。
その人物とは運命で繋がってるのだから、敵対するだけ損しかないのだと。
「集くんは、今日はどうしたのかしら。
なんて聞いたら失礼かしら?」
はっと、そう聞かれてぼーっとしていた事に気付き、気を取り直す。何を小っ恥ずかしい事を考えてるんだろうか。
「え、ああ。俺は…
ちょっとした用事で」
なんだか少しだけ照れ臭くなって、手に持った袋をすっと身体の陰に隠してしまう。
それを見て、浮葉先生は珍しく、ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「もしかして、あまり見られたくないもの?
なら尚更聞くのは失礼だったかな。
見なかった事にしましょうか」
「いやいや!そんなんじゃないんですって!」
なんだかあらぬ勘違いをされてしまいそうな気がして、躍起に否定する。…でも、これ尚更勘違いを助長する気がするな。
「あら、ほんと?」
ああ、やっぱり!
「本当ですって。ほら、中身はこれです」
「これは…映画?」
「はい。友人に一人ちょっと映画好きが居て、それに触発されて、つい。
あと今日はそいつと会う予定もあってですね」
「ああ、なるほど…
…それならわざわざ隠さなくっても良かったんじゃない?」
「…まあ…そうですね…
ただなんかちょっと照れ臭くて…」
「私は立派な趣味だと思うけどなあ」
互いに、なんだか間の抜けた会話だと思い、くすくすと笑う。少し隈が残った笑顔は、しかし出会った頃に比べれば大分顔色が良くなったような気がする。
「先生は…買い出しですかね」
「あ…そ、そうね。
ごめんね、こんな油断した格好で」
そう言うとサッと、居心地が悪いように恥ずかしいように、身体を細めるような動作をする。
ただ俺にはこっちこそ、到底恥ずかしがるようなものには見えなかった。
少し厚めの首まで覆うセーターにジーパン。いつもは流している髪を横に纏めた少し活動的なその格好は、雰囲気をかなり違ったものに感じさせる。
いや、服装と髪もだが、一番は…
「先生、休日は眼鏡なんすね」
「え?ええ、そうね。
基本はコンタクトだけれど、休みの時は。
似合ってないかしら」
「あ、いやいや!
感じが違って、美人さんだなって!」
「あら上手。
…ふふ、ありがとう。とっても嬉しい」
少し顔を赤らめ、目をすぼめて笑う。
それだけの動作になんだか、ちょっとどきりとしてしまう。微笑む事はさっきもやっていたはずなのに、急に色が付いたようにも見えた。
「あー…お世辞ではなかったんですが」
「…ううん。さっきから思っていたんだけどプライベートな時くらい、敬語じゃなくていいわよ」
「え?」
だし抜けに浮葉先生がそう言う。言った後に、ちょっとだけ、『やってしまったかも』という顔をしたが、すぐに取り直して続けた。
「え、えっと…
勿論無理強いするわけでもないの。ないんだけれど…あまり、畏まっていてもと思って」
「うーん…いやそう言うわけにも」
「そう?…それじゃ私も敬語にしていい?
実は、そっちの方が落ち着くの」
「……いや、それなら互いに敬語はやめようか。それされたら俺も落ち着かないし」
「……」
「…何、その顔」
「え!?い、いえ。なんだかとっても新鮮というか、びっくりしちゃって。
ちょっとぼーっとしてしまったわ…」
「……やっぱやめます!」
「ああ、残念…」
そうしてまた、二人でくすくすと笑う。
なんだか少し頭が上がらないというか、この人には妙に翻弄されてしまうような気がする。
押しや我が強いだとか、そういうわけでも無いし、むしろ控えめな人ではあるのに。
やはり先生というのは凄い…んだろうか。
それとも彼女特有の物なのか。
そんな事を考えているとなんだか照れ臭くなってしまって、誤魔化すように頬をかく。
「本当はもし良かったらお茶でも、思うんだけれど…この後、お友達と会うって言ってたよね?」
「あ、ハイ。
借りてた物の受け渡しってくらいですけど」
「それならここでお別れね。
それじゃ…」
「…?」
別れの挨拶の中途で、言葉がピタリと止まる。どうしたのだろうか、と疑問に思うと、浮葉先生はすっとこちらに近付いてきた。
出し抜けなそれに驚き、そしてまたちょっとだけ真剣な顔付きに、何事かとどきりとする。
「あの、えっと…?」
「…少し、屈んで」
そう言いながら、そっと、手を伸ばされる。
言われるがままに屈むと、更に距離は近付く。思わず眼を閉じてしまいそうな程の距離は、随分と刺激的だ。
襟の辺りがとん、とんと正される音。
そしてついでに少しだけ頭を撫でるように、髪の毛を撫で付けてくれる。
その感覚に、なんだかこそばゆいようななんとも言えない気持ちになる。
「…と、ごめんなさいね。少しだけ気になっちゃって。それじゃあ、今度こそ。良い休日を」
「は、はい」
控えめに、肘から先をゆるゆると振るいながらこっちを見送ってる彼女の姿を、最初に少しだけ眺めてから、歩き出す。
顔が赤くなってしまわないか、不安だった。少し見えない程度まで離れてから、携帯のインカメラで見るが、そこまで顔には出ていなかった…と思う。まだよかった。
「……?
何か困り事でも思い出したのかしら?
今ちょっと、様子が変だったな…」
…
……
少し時間に遅れてしまったが、大丈夫だろうか。いや、大丈夫じゃないかもしれない。
何しろあいつは、自他共に時間に厳しい。
人に言うだけ会って、遅れたことが無い。
だから、待ち合わせ場所にはやはり既に…
と、そこには居なかった。ただちょうど、そこに歩いて来ている所だった。
花を摘みにでも行ってたのか、もしくは俺を探していたのだろうか。
もし後者だとしたら、恥ずかしいな。
『さっきの先生との会話ややりとりが、全部見られてた』かもしれない。
そんな事を思いながら、俺はそいつに声をかける。
「悪い、シド。
ちょっと知り合いと話し込んじゃって!」
そう話しかけるが、返事はない。代わりに帰ってくるのは気まずく、重い雰囲気だけだ。
ピリと肌がひりつくような気すらした。
「……ああ、そうだろうね」
そのたった一言の返事に身震いしながら、ただ頷くしかなかった。
…
……
……まずい。
何がまずいって、明らかに機嫌が悪い。
どれくらいかと言うと、まだ仲良くなかった頃に一度地雷を踏んでしまった時同じくらいに、明らかに機嫌が悪い。
そして彼女が取り繕わず、機嫌が悪い事をすら隠さないというのは、相当にまずい事なのだ。
「……いや、本当にごめん。
遅れるつもりは無かったんだけど」
「……」
「……何言っても言い訳だよな。すまん…」
「…遅れた、なんて。
そんな事で怒ってる訳じゃないよ」
「!」
初めての返事だ。
ようやく一歩は前進出来たかもしれない。
「……この怒りは、そうだな。
どちらかというとキミそのものというよりは、彼女と…ボク自身の不甲斐なさや手落ちにおける失敗、その自己嫌悪ってのに近い」
「…す、すまん。
何言ってんのかわかんねえ」
「わかるように言ってないからね。
…キミもまあ、悪くないわけではないから少しは反省してほしいが」
「はあ…」
いまいち…いや、正直殆ど何を言っているのかわからないが、どうも俺も悪いらしい。それは自覚している事なので、まあ反省をしておけばいいらしい。
…遅れた事に怒ってるわけじゃないなら、何を反省すればいいんだろう。デリカシーの無さとかかな。
「…あ、そうだ。
渡しそびれてたけどこれ返すよ。映画」
「ん?ああ、それね。
…フム。往来で渡すのも無粋だろう」
「ボクの家、来るかい?」
そう、シドが提案する。事もなげに言ったそれに、俺はどうにも頭を悩ませる事になる。
普通なら悩ませる必要もないんだが、しかし。
「うん?うーん…どうしようかな。いや、急に行ったら申し訳ないっていうのと…」
「と?」
「……正直、色々と豪勢すぎてちょっと怖いんだよな」
そう。彼女の家はデカい。
びっくりするほど大きく、そしてそんな人の一人娘の友人として呼ばれたものだから、使用人(使用人なんて見たの初めてだった!)の方などの歓迎がとても来るのだ。
それは嬉しい反面、その…
…正直、申し訳ない気持ちになる。そんな歓迎してもらうような人間じゃないよ俺は!
「…まあ、無理強いをするつもりはないよ。
ただ残念だなあとは思うけど」
は。しまった。選択を間違えた。
ず、と雰囲気が暗くなるように感じる。
空気が冷え込むような感じがする。
こいつは何か能力でも使ってるのか。
「…いや、わかった。行く。
違うな、行かせてほしいな」
「それを聞きたかった!」
その瞬間、パっと笑顔になり、さっきまでの圧迫感のある雰囲気は一転して明るく変わる。
…まさか、今のは呼ぶのを確定させるために機嫌が悪いフリをしたんだろうか。
いや、まさかな。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「お、じゃまします…」
「ハハ、まるで泥棒みたいだよキミ」
「こんな図体のデカい泥棒がいるかよ…」
こっそりと、シドの部屋に忍び込むように入っていく俺の姿は、きっと何も知らない人間に見られれば即捕縛、通報モノだろう。
だがこれが最終的な折衷案なのだ。あまり相手方に手間をかけさせたくたい俺と、それでも招くシドとの。
テーブルの前に座って、ようやく一息。
「ふー、無駄に疲れた。
…んじゃこれ。二作目が特に面白かったよ」
「おや、そうかい?それは良かった」
…彼女に勧められた物であるのに、そう言うとどうにも他人事のように喜ぶシド。
なんだか、単純に疑問を覚えた。この作品好きだからこそ俺に勧めたんではないのか?
そのまま聞くと、なんだか彼女は見たことのない表情をした。しかめ面のような、笑ってるような、ちょっと困ったような。
「う…ーん。
これ、言うかどうか迷うんだけど」
「なんだ?」
「……正直ね。
何を見てもあまり面白いと思わないんだ。
最近とかじゃなく、ずっと昔からね」
「作品をどう思ったか、作品にどういう意図が込められてたか。わかった上で、どうにも心が揺れないというか。難儀なものだよ」
…ゆっくりと語ったそれは、中々に衝撃的な事だった。
どれも面白く感じない?こんなに詳しく、知識としてあるのは趣味だからじゃないのか?映画好きだからこそという訳ではないのか?
急に、以前のことを思い出した。
彼女が聞いていた曲の事に尋ねた時の事だ。
凛玲なクラシックの作曲者、歴史はつらつらと解説をしてくれたのに、『お前はどれが一番好きなんだ?』と聞いたら、少し答えが止まり、不思議そうな顔をしていた時のことを。
なんだか、少し背筋が伸びるようだった。それがどういう感情から来た物かは、自分でもわからない。
「…それなら、俺、もしかして無理矢理シドに付き合わせちゃったんじゃ…」
「いやいや、そんな事ないよ。
キミは心配性だね」
バッと顔を上げた俺の頭を、いつのまに俺の前に立っていたのか、そっと撫で込めるシド。
そっと触れるその手は、黒い羽毛のように柔らかなように感じた。
「だいじょうぶだよ。
ボクだって楽しかったし、今も楽しいもの」
「でも、今面白いと思わないって…」
「そうだね。それは、確かだ」
「でもそれでも、これらを見たキミを見ているのはすごく楽しいよ」
「楽しそうにキャラクターを語るキミ。
つまらなーいものを見て渋面をするキミ。
ボクに語ってくれる姿。
それらは、ボクにとって楽しいものだから」
さら、さら。
ずっと俺の頭を撫でながら、彼女はそう語る。
その言っていることは、とても喜ばしい事ではある。それは、当然だ。
こうまで言われて嬉しくない訳がないだろう。
だが一方で、危うさを感じた。
何か、踏み外しかねないような危うさ。シドの言葉とその目に、それを感じてしまったんだ。
もうとっくに、踏み外していた事には。
俺は気づいていなかったんだ。
…
……
「こんにちは、先生」
教員に話しかける、女生徒の姿。
それは学校内外問わずによく見る姿である。
微笑ましく、誰も目に留めない光景だ。
ただそれは、びくりと、背を震わす教員の姿から眼を逸らせばだが。そして、それを目ざとく見ていた通行人は居ない。
「あ…ど、どうも、九条さん。
何が用事かな?」
浮葉三夏は、少しだけ冷や汗を浮かべつつ、生徒に応対する。
その、赤い眼の生徒に。
あのパーティ会場で見て以来、ぞっと背を向けていた人物だ。
「用事って程ではないんですけど。
少しだけ釘を刺そうかと思いまして」
単刀直入に。そう、彼女は切り出した。
耳近くまで近付いて、ひっそりと囁く。
「…貴女はつまらない。貴女が関わった彼はどんどんとつまらなくなる。だから出来れば、もう関わらないで欲しい。彼に、古賀集に」
直入に、簡潔で、そして鮮烈だった。
そのまま歩き去って行く。
もう、用事は済んだと言わんばかりに。
今までの浮葉三夏なら、そう言われ、すごすごと引いていたであろう。
だが、古賀集の名前と、ある一言が彼女をそうさせなかった。
『つまらなくなる』という、その単語が。
「……いいえ、いえ。違う」
青褪め、声は震える。
しかし、発言自体は安定していた。
それを意外に思い、シドが振り返る。
「彼は、彼自身の為に。彼の思うままに育つべき。彼が望むようにするべき、です。それは貴女の娯楽の為じゃなくて、ね」
娯楽の為に。そう言われ、ぴくりと眼輪筋が動くシド。だがそれ以上の感情は出さず、笑顔のままに、また話す。
「それは、先生が彼と関わる為の詭弁ではないのですか?個人の感情から来る、正当化ではないのですか」
「……それがある事は、否定しない。
私、嫌になるほど、彼にダメになってるから」
「それでも、彼が自主的に私に関わる事をやめたのならそれでいい。それを私は、できるだけ尊重するつもりよ」
すう、と、息を吸う。
三夏の発言は、一人の女性として。
そして、教師として。
彼女に言わねばならないと思っていた。
だからこそ、言うことができた。
「でもね。私、私には…
…貴女のその、彼に『面白くあってほしい』なんて欲求は。貴女のただのエゴのようにも見えてしまうわ」
(『ねじくれた自己愛にしか見えません』)
(…………ッ!)
一度、聞いたような発言。
一度、耳にしてずっと消えない発言。
それが、リフレインする。
目の前の教師。
あの日の後逹。
それらが脳裏で重なるように聞こえた。
「……ア、ハハ。
先生まで、そんな事を言うんですか。
これは、ショックだなあ」
「でも九条さん。私は貴女の想いは…」
「…!ま、待って!
まだ話は終わってな──」
「九条さん──なた──
──つもり─」
音がノイズ混じりに聞こえるようだった。
三夏が話す言葉も、何と言われたか不明瞭。
脳に、膜を貼られたように。
笑う、笑う。シドは笑顔を浮かべる。だがその笑顔は、さっきまでの愛想笑いではまるでなかった。
禍々しく、邪悪で。ギシリと音が鳴るような、そのような笑みだった。
「エゴ。自己愛。
ボクは何かを愛する事すら出来ないのか」
「……ならばもう、それでもいい。
それが、ボクの愛であるなら。
出来損ないの愛であっても」
「それでも、キミに」




