バレンタイン・パニック!
2月14日。
それは愛を囁く日。
愛を囁き、伝え、伝え合う日。
2月14日。
それは、愛を成就する事を冀う日。
それは性愛であれ、友愛であれ。
がしかし。愛を囁く日であっても、それがそのまま誰かに愛を伝えられるか、又は愛を伝える勇気が出るかになるか、というのは別の話。
故にこの日は性別に関係なく、妙に闘志に満ち満ちた人間が散見される。英雄とならんとする兵士が如く。革命を起こす女傑が如く。
そして中には、そういった気負いが全く無い者も居る。渡し、渡すとは無関係と初めっから諦めきっている者だ。
そして、彼もそれである。気楽にあくびをしながら登校の準備を整えていく青年がいる。
名前は古賀集。
恐怖を与えるような上背、傷痕。友愛や義理では貰えようとも、その他は無いと。なんならいっそ作る方に回ろうかとも思っていたが、渡された相手が困るだろうと考えやめた。
さて。そんな風にゆるりと鞄を持ち家を出ようとする。そんな彼を見て、ある一人の少女がぴたりと横に着く。既に準備を整え終え待機していた少女は、そのまま歩きにくいのではないかと思うほどの距離をキープする。
彼女は、彼の妹である。
古賀鈴という。
「おはようございます。今日は登校も下校も一緒に行きますよ兄さん。片時も離れないように。ほんの少しもです。何か困ってる人を助けても私に一声掛けてからお願いします」
その日の起き抜けの一言だった。寝ぼけ眼にそう言われてしまえば、青年はただ頷くしかなかった。
「では行きましょう。繰り返すようですが私の目の届かない場所に行かないように」
「……俺今日死ぬの?」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか」
「いやすまん。
ただ、この厳重さはなんなのかと思って」
「兄さんは気にしなくていいんです。
…いやちょっとは気にして貰った方がいい気もしますが…ひとまずはいいんです」
尚更何のことだかわからないと首を捻るそのままに二人は歩いて行く。
いつもよりも距離が近いそれはしかし、甘い雰囲気というよりはどこか剣呑というか張り詰めた雰囲気であるようだった。
「…目つき悪すぎやしないか鈴。寝不足か?」
「警戒してるんです」
「だから何を!?」
…
……
「ふー…」
当然というべきか、何も起こることは無く登校は終わる。
鈴は校門のぎりぎりまで離れることは無かったが、しかし学棟の違いだけはどうしようもない。名残惜しそうに、去って行く。
そうして、下駄箱に立った途端の事だった。
「すいません、古賀先輩。
ちょっといいですか?」
「ん?えーと、二年の…何かな?」
「──」
「……え?」
…
……
「おはようございます、シュ……」
「おはようアオ。……ん?」
名前を呼ぼうとし、途中で止まる彼女を見て怪訝そうに眺める古賀。次第に彼はその少女の青い目が彼というよりは、彼自身の手にある封筒に向いている事に気付く。
それに対して、それをさっと隠すように後ろ手に持った。
ただ当然ながら目の前で隠した、アオの前にはそれが何かというのは見えている。
「それは…むう、なんですか」
「ん、ああ、なんでもないんだ。
気にしないでくれ」
「……」
いまいち不明瞭に、バツが悪そうに言い濁る彼を、むっと睨むように見つめる。軽く隠されたそのピンク色の便箋を見て、彼女は目の周りをぴくりと動かすように身じろぎをした。
「……フン。仕方がないことです。むしろ私誇らしいですよ。シュウがいろんな人に愛してもらっているみたいで。私の審美眼は正しかったのです。ふん」
「アオ…なんか拗ねてる?
というかなんか勘違いしてないか?」
「してませんし拗ねてません。
しかし心配してくれるのは嬉しいです」
明らかに気分を害した様子で顔を逸らしていた彼女は、そう言うと気を取り直したように彼に向き直る。
「何にせよそれは早くバッグの中にでも隠した方がいいです。というか出来るだけ皆に見せないようにしましょう。ハリー」
「え?ああ…確かに見せびらかすみたいにこう持ってるのはよくないか。失くしそうだし」
「ハイ、そうでもあります。
……まだ生徒会長が教室に来ていなくて助かりました」
「ああ、確かにあいつがいたらなんか理由つけられて取られちゃったりしたかもな」
「そういう意味ではなく…」
そうぽつりと呟き、そしてまたふと思い出したようにアオはまた自身のリュックサックの中身を漁り始める。
そして一つ、白色の紙袋を取り出した。
「今日は、バレンタインデイですね。
なので私からシュウにプレゼントです」
「!もしかしてチョコか?
うわ、すげえ嬉しいよ!」
「喜んでいただければ幸いです」
そう言いながら無表情のままむふー、と誇らしげに胸を張る彼女の様子は微笑ましく、そしてこれがまた手作りであろう事も彼に教えた。
『結構、味見をしたので味は確かですよ?』
『だからたくさん味わってください。少なくとも、その時は私の事だけを考えるくらい』
渡した際に、その掌にそっと何かを書く様になぞり動かす。それは、ちょっとしたまじないの様でもあった。
「ああ!よーく味合わせてもらうよ。
お返しも楽しみにしててな」
そう、わしわしと頭を撫でられると、ぐいとその手を自身の頬の方に持っていくアオ。流石にそれはまずいと古賀が手を引くと、名残惜しそうにその手を眺めていた。
「ええ、楽しみにしています。
……ただ代わりに。明日からは少し…カロリーを控えた食事にせねばなりませんが」
「いや、そんなことしなくてもいいんじゃないか?俺から見ればまだ細すぎるくらいだよ」
「ムウ…その言葉に甘えてしまいたい気持ちも山々なのですが。少し服のサイズが合わなくなってしまったりしたので、いよいよ考えものであるとも思ってしまって」
「服が?」
「ハイ…どうにも、シャツのボタンが妙にきついというか。セーター等の丈もいまいち足りなくなってしまっていて。ダイエットとまでは行かなくとも現状維持をと」
「…………」
それを聞いて、それはひょっとして別の所が大きくなっただけなのではないか?と思った。
ただ一言言おうとして青年はやめた。
それは邪推であるかもしれないし、何しろそれが合っていようと無かろうと、完璧にセクシャル・ハラスメントであるからだ。
だからただ代わりに一言。
「…………そうだな!」
悶々と考えるのをやめて、そう返した。
…
……
「おやいいとこに来たね勇者よ。
君に今日手伝って欲しい仕事は…
もうわかったかな?」
「……まあ、そんなこったろうとは思ってた」
少しだけ早く切り上げられた授業のそのままいつものごとく生徒会室に向かった古賀青年が見た物。それはチョコだらけ、チョコまみれの机。木の面が見えないほどに。
「うん。そういうことで助けて」
珍しく直球に助けを求めるのは、赤い色の眼をしている少女。九条史桐…シドだ。
「……俺が喰ったら、めちゃくちゃに失礼というかさ。意味ないんじゃねえのか?」
「んー…そうかも。ただこの量のチョコレートなんてボクが食べ切れる筈も無し、そうなると確実に廃棄されるよ。廃棄されるよりは食べた方が、まだ彼らの想いに応える事になるんじゃないかな?」
「…まあ、勿体ないのは確かにそうだな。
なら申し訳ないけど食わせて貰おう。
なんかどれか一つ取ってくれ」
「オーケー。
………はい、どうぞ」
ひょいと山の中にあるものから無造作に渡されるは、暗めの赤色の包装を施されたものだった。その包装を丁寧に開けると、中からはまた丁寧に容器に入った小粒のチョコが幾つも入っている。
「うお、すごい凝った物だな。
しかもだいぶ高級っぽく見えるが」
「そうかもね」
手を合わせてからさっそく食べる。一つ一つがそれぞれ別の味であり、そしてどれもまた相当に美味しいものだった。
「うーん、すげえ美味かった…ハハ、これを作った人もシドじゃあなくて俺に食われちゃって可哀想だな」
シドは満足そうに舌を唸らせた彼を興味深そうに、そして何やら満足そうに眺めると、こう言葉を返す。
「フフ、いいや。
そのチョコは本懐を果たしているともさ。
渡したい相手に渡されてるんだもの」
「…?」
「さあさあ、止まってる場合じゃない、他の物も食べていこうじゃないか。
あ、ついでに普通に書類仕事も頼んでいい?」
「相変わらず厚かましいな!
というか書類汚れちまうだろ!」
一瞬にして通常営業に戻ってしまった彼女を前に、青年はずっこけ気味になる。ふと、刹那にみた様な慈しむような顔は幻覚か何かだったのだろう。そう思う事にした。
そのまま仕事に移…
……ろうとして。
「あ、そうだ。
シドに渡すものがあったんだ」
古賀がふと、話題を転換する。
「ん?何。まさかラブレターかい?」
「ああ、そうそう」
「へえ。そうかい。
……え?」
サラリと言葉を流しかけて、そして驚愕して顔を凄い勢いで上げて古賀の顔を見るシド。滅多に見ることがないようなそんな顔を見て古賀青年も一瞬驚き止まり。
そして鞄から一枚の封筒を取り出した。
ピンク色の便箋である。
「はいよ、これ」
渡されたそれを、シドが呆気に取られたような顔で受け取る。鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。
「…いやいや、ハハ、まさか。まさかねえ。
まさかそんな…ねえ?」
へらりと笑い、手紙をひらひらと透かすように下から眺めて。ふと目を閉じて。
瞬間。獲物を捕らえるように。
急激に手紙をバッと開いた。
そこには、愛を綴る言葉が記されている。
「……………」
「……ラブレターじゃないかッ!!??」
「だからそう言ったろ!?」
「えっ、いやだってそんな…
こんな急かい、普通!?」
口が甘ったるくなるほどの愛の言葉の羅列。一字一句、愛を囁く、まごう事なく恋文。
『急にこのような手紙を出してしまって、すみません。それでも、この想いだけはと思い筆を取らせて貰いました』
そのようないじらしさが垣間見える文を見た時には脳内麻薬などエトセトラが出てしまうようほどだった。
幸福は、恐ろしいほどに盛り上がった。
『───○○○○より。』
…最後の行。
その、書いた差出人が見えるまでは。
「………」
「………??」
「………これ、誰が?」
「ん、ああ。さっき『シドセンパイに渡してほしいんです!』って二年の子に渡されたんだよ。名前は…聞く前に行っちゃったんだよな。
そこに書いてある?」
「……ああ、書いてあるよ、ちゃあんと。
………なる、ほどねえ」
「そっか!ああよかった。中身を勝手に見るわけにもいかないし後でちゃんと渡せたって伝えてやんないと─」
ふ、う。
シドが大きなため息を吐く。
それはまるで葉巻を吸うかの如く、大きく吸い、大きく吐く。そんなため息だった。
それにびくりと跳ねるように言葉が止まる。
「なるほどなるほど、なるほどねえ。
うん。よおくわかった。ほんとなるほど。
うんうん。なるほど?なるほど」
「フーッ……」
「…とりあえずキミは今日帰ってくれ色々とシラフで居られる自信がないんだ頼む」
「何の何の何!?」
…
………
「あ、遅れてしまってすみま…
あれ?生徒会の方はどうしたんですか?」
「いやなんか…
帰って欲しいって言われて…」
「え、ええ…?どうしたんでしょうか…」
「俺もいまいちわかんない…」
生徒会室を追い出された彼がばったりと鉢合わせたのは、彼の後輩である少女である。
村時雨ひさめだ。
「まあ、なんにせよひさめも生徒会室に行ってみたらどうだ?いくつかチョコを食べさせて貰えると思うぜ」
「あはは、またシドさんったらチョコの山に悩まされてるんですか。去年もあれが一番辛そうな顔してたらしいですね」
「そうそう、いつも笑顔のあいつがあの時だけゲンナリしててな」
くすくすと談笑をしていると、ふと、ひさめがはっと、聞きにくそうに声を上げる。
そのう…と、控えめに質問をする。
「…その!その…そういえば、なんですけど!
勿論答えたくなかったらいいんですが…」
「……その、古賀さんがラブレターを渡されている所を見たって…言う人が…
…それ、本当ですか?」
「ああ!渡されたよ、確かに。
だけどあれは…」
そう答えた瞬間に、え、と小さい声を出す。
そうして、沈痛そうな顔をしていた。まるで親しい人が事故死でもしたかのような、絶望感が色濃く出た顔。
「はは、違う違う!あれは代理でシドに渡してくれって言われた物だったんだって。
俺に渡されたもんじゃないよ」
それに気付いてか気付かずにか、彼はそう言葉を続ける。そしてそこまで聞くと、ひさめは露骨にホッとしたような顔をする。顔色まで良くなったかのようだ。
「そ、そうですか!良かった。これも無駄になっちゃうかな、なんて思ってしまって」
「『これ』?」
「はい!受け取ってくだしゃ…さい!」
一大決心のような気合い(噛んでしまっていたが)と共に差し出されたのは、赤い包装。
真っ赤な包装は、確かめずとも中に何が入っているかという事がすぐにわかるような物だ。
「お、チョコか!
ありがとう。大事に食わせてもらうな」
「はい!その…手作りではないのですが…
そっちの方が美味しいかもと思って…」
「すごく考えてくれたんだな。
その事実が一番嬉しいよ」
申し訳なさげに縮こまる彼女の頭を、大きな手がゆっくりと撫で込める。くすぐったそうに身体をよじりながら、その手に抵抗はしなかった。
「…よかったです。僕、受け取ってもらえないんじゃないか、喜んで貰えないんじゃないかってすごく不安で」
「でも不安になってるままじゃずっと変わらないから、勇気を出してみたんです」
「そっか。勇気を出した甲斐はあったか?」
「はい。出して、良かったと思いました」
「ならよかった」
そう、静かに撫で続けられる時間が続く。廊下の往来ではあったが、幸いにして放課後の閑散とした時間帯。人が通りかかることは無かった。
そうした最中に、古賀青年の視線がひさめの鞄の方へと行く。お守りは付いてはいない。
あれは付けてもらえてないか。
ふと、そう思ってしまった。そんな風に思ってしまう、女々しい自分に喝を入れるようにもう片方の手で頬を軽く叩く。
すると、それに気づいたのか。
ひさめははっと慌てたように彼に話す。
「あ、もしかしてあのお守りですか?あれはその、今はここにはないというか…だから違うんです。気に食わなかったとかそういうわけじゃ」
「いや、気にすることはないんだ!
こっちこそごめん、急に押しつけた上にこんな恩着せがましいような視線向けて」
「だから違うんです!だから…!」
「その!大事に部屋に飾ってあるんです!
汚れちゃったら嫌だから!
「……あ。」
墓穴を、鑿岩機のような勢いで掘った彼女はそのままフリーズ。そして、渡したチョコのラッピングよりも赤くなってそのまま動かなくなってしまった。
「失礼しますぅ…」
真っ赤な顔のまま、そのまま生徒会室へとからからと入っていく。その姿を見て、悪いことしたかもなと青年は頭を掻いた。
…
……
「あら、どうも集くん。
そろそろお帰り?」
仕方がないからと帰宅しようと準備をし、妹を待とうとしていた彼に声をかけたのは、またまた女性の声。ただそれは、学生の声ではない。
妙齢の、教師の声だ。
「あ、ども浮葉先生。
そうっすね、帰るとこです」
新任の女教師、浮葉三夏に、古賀は少しフランクに言葉を返す。
「ふふ、君は意味もなく教室に残っていたりはしなくていいの?私のクラスではそんな男の子がいっぱい居たけれど」
「ハハ、やめておきます」
くすくすと二人で笑いながら、ゆっくりと並んで歩き始める。昇降口の方に向かいながらのそろ歩きはゆっくりと、そして半歩ほどいつもより歩幅が小さい。
「なら…少しだけ、時間を貰っていいかしら」
「ん、用事ですか」
「いえ。用事って程では、ないのだけれど。
一瞬だけ職員室に寄って貰えると」
そうして、少しだけ寄り道をして職員室に着く。浮葉が軽く自分のデスクを漁ったと思うと、何かを持って古賀の方に戻ってきた。
そして彼女はまた、少し言いづらそうに、やりづらそうにそのウェーブかかった前髪をくるりと弄ってから、その包みを差し出した。
「その…
これ、受け取って貰えないかしら」
隈がかかった顔に、桜色が少し混じる。贈り物をする気恥ずかしさが彼女の中にあるむず痒さとを刺激してしまっている。
「その…結局あの後も、時たまお弁当を作ってもらっちゃってるし。なにより他にも散々教えて貰っちゃってるから、そのお礼も兼ねて私からも一つ、渡したいの」
何かに言い訳をするように捲し立てる浮葉を見ながら、古賀青年がにっこりと包みを受け取る。中身はなんだろうと眺める。
「ああ、チョコレートではないわよ。
そこに書いてあると思うわ」
「…っと、コーヒーですか?」
「ええ、コーヒー。
呑めるって言ってたよね?」
「…チョコはきっと私が渡さなくてもいっぱい貰うかなと思って。
うふふ、よかったじゃない」
「あー…からかわないでくださいって」
「あら、照れなくてもいいのよ。
例え友情でも義理でも、貴方が貰うほど感謝されてるのは確かなんだもの」
そう言われると何も言葉を返せなくなってしまう。それは痛いところを突かれた、などということではなく、言っていることが正しい、一理あると思ってしまうからだ。
いつもは、いつか倒れてしまいそうとすら見えるほどだ。支えたく思ってしまうほど。
であるのに、こうしたように教師として生徒を導いている姿を見ると。彼女の中にある経験だとか、知識だとか、『先生』であるのだなということを、古賀は実感する。
「まあ、だから。迷惑になっちゃわないように私からはチョコレートは贈らないけど…それが今回の代わりかな。
少しでも喜んで貰えたら嬉しいわ」
浮葉はそう言って、照れ臭そうに微笑む。少し疲れの残った笑顔は、しかし子どものように純粋なものであるようにも見えた。
「…は、はい。
こちらこそありがとうございます」
「うん、ちゃんと感謝が言えてよろしい。
…ごめんね、時間を取らせて。私はもう少し仕事があるから集くんは帰りなさい?」
「はい、そうします。
……そういえばさっき『お礼も兼ねて』って言ってましたけど、何を兼ねたんですか?」
「えっ!」
ふと疑問に思い、古賀が質問をする。何気ないその質問に、彼女はどきりとその肩を揺らした。
「それは、ですね…」
沈黙。
静寂。
音のない時間が経つ。
「……ごめん、先生の秘密ってコトで良いかな?」
「え、ええ?まあいいですけど…」
長考の末に出た答えはそんなもの。
結局、青年は疑問符を浮かべたまま、そのまま昇降口に再び向かっていく。その背を見送ったまま、浮葉は命拾いしたと言わんばかりにどっと脱力をした。
あの贈り物に込めた意味。
それは感謝は当然として、その次に。チョコではないとはいえ、『バレンタインデーの贈り物である』という事。それを鑑みれば、込められた意思は明白であるとも言える。
ただそれでも一応、それは隠そうと思った。
大っぴらには、絶対してはいけないと。
あくまで『友チョコ』などの体を取ろうと。
ただ、しかし。
「…うっかり口が滑っちゃった…
我ながら危なっかしいぞ、三夏…」
自らに戒めるように。
誰もいない廊下で彼女は呟いた。
…
……
昇降口には、一人中等部の制服を纏う少女が立っている。古賀集は、ずいぶん待たせてしまったかと、少し駆け足気味に彼女の元に行った。
「悪い、鈴。
だいぶ待たせちまったか?」
「あ、兄さん。
…いいえ、そこまで待っては」
古賀鈴は、朝にした約束のそのままに、兄と下校をすべく彼のことを待っていてくれたのだ。
「ねえ」
よし、それでは帰ろうと靴を出した時。
瞬間に、鈴は声をかけて来た。
有無を言わさぬ速攻だった。
「…ねえ。兄さんがラブレターを渡されたって聞いたんだけど…誰?」
その声は冷徹なようで、そして更に内側に熱を帯びているような、溶岩じみた雰囲気を感じた。少なくとも、彼はそう思った。
「ああいや、違うんだそれ。
それはだな……」
「言い訳の前に、まず誰?」
…有無を言わさぬ速攻だった。このままでは埒があかないと思った古賀青年は、さっき、シドにちゃんと渡せたぞと報告をするにあたって再び会ったあの女生徒の名前を教える。
そうしてからようやく、どういう顛末だったかを教えることが出来た。
「…成る程。
はー、心配して損しました…」
「…全く誤算ですよ、ほんと一瞬すぐ目を離したらこうなるんですから…」
「お、なんだ。ヤキモチ妬いちまったか」
「してません」
「はは、照れなくていいだろ?
大丈夫だって」
「してないったら、もう!」
下校路を行きながら、じゃれあいつつ歩いていく。二人の背姿を夕陽が写し出し、影法師が伸びる。夕暮れ時の空を見上げ、目を細めながらその橙色に心を奪われていた、そんな中。
「…嘘です」
「ん?」
古賀青年はぎゅっと、その指を絡めて手を結ぶ感覚を、手に感じた。小さく、細い指だ。
言うまでもない、鈴の手。
彼女の感触だ。
「嘘です。確かに妬いてました。
それに、さっきまで。私が待ってるのに、兄さんは来ないんじゃないかと思ってました」
「さすがに約束は破んないよ」
「そうですよね。
そう、わかっているんですが」
握った、結んだ指がきゅっとその力を少しだけ増す。その手に込められた力はそのまま、寂しさと、心の中にある想いの大きさのようだ。
「ねえ」
「うん?」
「小さいチョコケーキを作ってるんです。
帰ったら、二人で食べましょ?」
「ああ。母さんと父さんにも取っといてな」
「うん。でもまずは、二人で食べるの。
それでいい?」
「ああ。
鈴の作るケーキは美味いからなあ。
実はずっと楽しみにしてたんだ」
「兄さんたら、あれ好きですよね」
「ああ。ガキの頃からずっと好きだな。
だから毎年楽しみにしてるんだ」
「ええ。知ってます。
だから私も、ずっと楽しみにしてました。
今日、ずっと」
…
……
……2月15日。
戦の、決算日。
昨日の今朝方、その憤懣たるやる気を出していたその兵士達は、その背に纏うものを哀しみに変えてしまっている。
結局母ちゃんのしか貰えなかったーとげんなりしながら宣う友人の話を、古賀青年はうんうんと聞いていた。
「…はーあ、お前は良いよなあ。
なんてったってチョコは貰えるわ、しかもみーんな美女揃いだし」
「そういう言い方は相手にも悪いだろ。
それに、俺に渡されたものがそういうものな訳じゃない」
そう言った瞬間、ふと雰囲気が変わった。
「……お前、それ本気で言ってるのか?」
「その、つもりだけど」
「…俺がとやかく言うべきでもない気もするけどさー…それ絶対間違ってる。普通にめっちゃ失礼だと思うぞ」
「…え」
「……んでさー、昨日呼び止められたからまさか俺宛て!?と思ったら……」
…一瞬に話題が変わったように、一瞬に話題が戻り、そのまま話が進む。だがさっきまでと異なり古賀青年の頭には、ただ、さっきの発言が渦巻き、何も聞こえていなかった。脳に膜がかかったように、ぼんやりと。
(……俺に………?)
彼は人知れず、ほぞを噛んだ。
そんな事は。
だが、しかし。
まさか。




