終点の先があるとするなら
…それは、少し前の事。
その日は初詣の日だった。
彼女はゆっくりと呟いた。
「貴方は、そう。
誰にだって優しいんです」
それは相手に向かって言ったようでもあり。また、自分自身に聞かせるようでもあった。
…
……
僕と貴方以外には誰も乗っていない車両の中。
そんな閑散とした風景だった。
がたんごとんと動くそれは電車であり、僕たちはそれに乗ったのだろう。
外は一面の青景色。海と空のそれぞれの青さが目に映るそんな景色を前に、貴方は。
背丈の大きな貴方は、あれは綺麗だ、これはどうだと僕に話しかけてくれる。いつしかその話題は僕らの他愛のない話になり、馬鹿馬鹿しい話にもゆっくりと笑い合うのだ。
その笑顔は僕を向いて、僕にだからこそということだけを話し、笑いかけてくれる。
僕だけを見ていてくれる小さな、確かな幸せ。そんな光景。
僕を。村時雨ひさめを。
ああ、わかる。
これは夢だ。
いつもこの酷い悪夢に辟易し目を覚ますんだ。
手を繋ぎ、互いの体温に落ち着きながらそしてまたぽつりぽつりと話す。沈黙が空間を占めることがあっても、それが気まずかったりすることは何一つ無い。じんわりと暖まるような、そんな想いをする。
本当に、酷い悪夢だ。
いつしか電車は終点に辿り着いて、そして貴方は席を立つ。僕を残してこの電車を降りて行く。僕はその去っていく背中を、座って見つめているだけだ。
扉が閉じる。
貴方に手を伸ばす。
そして、目を覚ます。
ああ、そうだ。あの美しく素晴らしい光景から覚めてしまうこと。あれは夢だと知らしめられる。それはつまり、そうではない全てが、現実だとわかるという事。
それは、悪夢であることこの上ない。
「……」
カーテンを開ける。
外には綺麗な日差しを差している。
年が明けてはじめての日差しはいつもと変わらなく、そしてなお一層明るかった。
年が明けた。新たな一年だ。春休みが終わったら、新たな学年に僕は上がることになる。
…そして、後一年で、古賀さんは卒業してしまう。もう会えなくなるかもしれない。
年なんて、越さなければいいのにな。なんてそんな意味のない愚痴とやるせなさが口から軽く溢れる。
そんな意味のない嘆きはきっと、あんな夢でナーバスになってしまっているからだ。そう自分に言い聞かせる。
こんな風に勝手に鬱ぎ込むくらいならば、いっそどこかに外に出た方がいいかもしれない。
そうして、衝動的に外に出た。
季節柄すっかりと空気は冷え込んでいるのは当然だが、それでも天気のおかげかある程度の暖かさは担保されていた。
寒がりの僕にはとてもありがたかったり。
そうだ。本当に突発的に家を出たけれど、このまま初詣に行ってしまってもいいかもしれない。少しバスに揺れたところに、小さな神社があった筈だ。
少しだけ億劫がる自分に敢えて鞭を打って、僕はそっちにいくことにしたのだった。
…
……
いつも閑散とした様子であった筈の神社は、人混みに溢れている。
賽銭箱やおみくじはどこだろうときょろきょろと眺めていくうちに、ギョッとする。
「……え…っ…!」
それは、その理由は見つけたものに由来する。
まず最初に思ったのは驚き。
次に、喜びと恐怖。
こんな事があるのか。いいや、こんな事はもう幾度めかだ。だから、だからこそこんなに幸運であって許されるのか。
最後に、自惚れ。
これは運命ではないのかなんて、卑しい、いやらしい考え。手前勝手な、そんな妄想。
人混みに、一層際立って目立つ人間がいる。
それを誰が見間違えようか。
夢にまで見るような、僕の好きな人。人違いなんかではないことは僕の全てが教えてくれる。五感が、心が、全部が。
たたっ、と駆け出そうとして。
転びそうになって一度冷静になる。
携帯電話のインカメラを手鏡にして髪型を整える。こんな事ならもっとちゃんとした格好をしてくればよかった。寝癖が残っているような気がする。自意識過剰だろうか。
最後に深呼吸をしてから。
そこで、初めて気付いたみたいなフリをして彼の方に歩いて向かっていく。
「あのっ…」
ちゃんと、あけましておめでとうございます!と爽やかに言うつもりだった。脳内では簡単に出来た事だったんだ。
なのに、本番になるとすぐに言葉が詰まる。
高鳴る胸が思考の邪魔をする。
「ん?…おお、ひさめ!
明けましておめでとう!」
こっちを見た彼はいつものように人の良い笑みを、少し意外そうな顔をしながらも向けてくる。
「はい、あけまして…
えと、初詣ですよね?古賀さんも」
「ああ、まあ、そうだな」
「ぼ、く…!」
「…今日、一人で初詣に来たんです。
その、だから、なんていうか…」
血液が逆流するような、沸騰するようだった。
どうにかなりそうな声が喉から出る。
どうしていつも、こうなる。どうしていつまで経っても慣れないのだろう。
それくらい、いつもいつも、緊張して、顔が燃えるように熱くなる。
「だからせっかくなら、一緒に…」
「あー…ごめん」
…申し訳なさそうに顔を伏せる様子。それに僕は、間抜けにも、え、と返してしまう。
「あ、いたいたにーちゃん。
…その人、だれ?」
ふと、少し遠くから声が聞こえる。
それはまだ小さな女の子だ。
「ん、俺の…学校の後輩。
今偶然出会ってさ」
「ふーん…」
値踏みするようにじっとりと僕を眺めてくるその子は、しばらくそうした後に僕からすすっと離れていった。
「…ユキちゃんって言って、俺がよくバイトしにいく孤児院の子なんだけどさ。初詣にこの子を連れて行ってやってほしいって言われて」
そこまで言うと古賀さんはちょっとだけ小声になって、申し訳なさそうに僕に囁いてくる。
「……この子、人見知りで。
一緒に回るのは少し、難しい」
それを聴こえていたのか、聴こえていないのか。それはわからないけど、その女の子がフンと腕を組んで言う。
「私、デート中なの。
あっちに行っててくれる?」
そう言われてしまう。
瞬間に、ぴたりと息が止まった。
何とか言葉を返す。
「え、ああ…
うん、ごめんね?」
「…古賀さんも、その、無理言ってすみません。それでは、また学校で!」
なんとかそう言い繕って。
僕はそのまま、その場から去った。
(……一瞬、動きが止まったのは…)
あの瞬間、ほんの少しだけ動きが止まってしまったのは何故だろう。
それは、わかる。ショックを受けたから。
たじろいで、ショックを受けたのはあの小さな可愛い子の、ユキちゃんの発言にではない。
あの可愛い子どもの、他愛なさにすら。こうして、ずるりと渦巻くこの感情。
そんな自分の狭量への恐ろしさ。それに対するものだった。
断られた。
正当な理由があったのはわかってる。仕方のない事だし、悪気があったわけではないのも。
でもそれなのに、どうしてそれだけで僕はこんなにも傷ついているのだ。
それなのに、どうしてこんなにも羨ましいなんて気持ちが消えてしまわないんだろう。
あんな小さな子にまで。誰だっていいのか?こんな調子じゃ、ペットの犬にまで嫉妬してしまいそうじゃないか。そう、自分を笑い飛ばしてみても全く心は晴れない。
余りにも醜い自分にびっくりする。
こんなにも僕は、汚らしかったのか?
いつのまに僕はこんなに、薄汚い存在になってしまっていたんだろう?
…
……
「それじゃね、にーちゃん!
今日はありがと!」
「うん、またなユキちゃん。
今度また一緒に遊ぼうな」
孤児院に、彼女を見送る。
名残惜しそうに走っていく背中を見てから、少し早歩きで帰路に着く。
いや、帰路に着く前にちょっとだけ。
寄りたい所があった。
急いで、そこに向かう。
バス停の近くに今から行けば間に合うか。
間に合わなかったなら仕方ないが…
「…あ、居た!間に合った!」
遠目からでも分かる。彼女は遠くからでも、きらきらと光るように目立つ存在だ。彼女自身はそんなことはあり得ないと思っているが。
ひさめが、半ばぼーっとしたようにバス停に並んでいる。それに声をかける。
「…あ、あれ…どうしたんですか?」
「どうしても今日に渡したいものがあって。ご機嫌取りって訳じゃないんだけど」
あの時、断った時に彼女はとても残念そうな、傷ついたような顔をしていた。
きっとそれを言えば優しい彼女は、俺に気を遣わせてしまったことをまた気に病んでしまうだろうから、言いはしないが。それでも、代わりにこれくらいは。
「わ、なんですかこれ…?」
「うん、お守りだ!…今日の代わりでは無いけどさ。受け取ってくれないかな」
小さな封筒を開封して、手に取ったのは、小さな手編みのお守りだ。
それを見て一瞬唖然としたような顔をして。
…そしてすぐに微笑んでくれた。
ああ、よかった。埋め合わせになった、とは到底思えないが、それでもひさめが喜んでくれるならこれ以上嬉しい事はない。
ひさめの笑顔を見て、自然と俺の顔も綻ぶ。
つい微笑んだ俺の顔を見て、また一瞬、ひさめの目に少し暗いものが走った。
ぼそりと、口からまろび出たように。
彼女はゆっくりと呟いた。
「貴方は、そう。
誰にだって優しいんです」
それは相手に向かって言ったようでもあり。また、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
はっ。
さっと青褪めて口を抑えるひさめ。ぶるぶると震えて、自分を締め殺さんばかりに首を押さえ、目尻は今にも泣き出しそうになっている。
「…違…ッ!違うんです!
今のは違くて、その…!」
過呼吸気味にも見えるほど、否定しようとする彼女の手を、そっと握る。手袋を付けているはずのその手は、冷たく感じた。
「…そうだな。そうかもしれない」
「…言い訳だけど。でも俺は、誰にだって同じように接しているつもりはない。俺にだって嫌いな人くらいいるし」
「…何より、俺は君だけにしか見せないような態度だって、いっぱい取ってしまってると思うよ。他の人には恥ずかしくて見せられないような」
「だから、そうだな。俺は多分、ひさめの言う通りに誰にだって優しいかもしれない。それが気持ち悪いかもしれないな」
自分でも何を言いたいのか、わからなくなってきた。自分の後ろ暗いところを言語化しようとするには俺の経験はまだあまりにも未熟すぎるのかもしれない。
「それでも俺は、君と関わっていたいよ」
だから、ただ本音を言った。
これは、何にも包み隠す必要もない本音。
どう思われても言わなきゃいけない。
その言葉を聞いたひさめは、はっとこちらを向いた。俺の目を見た。数秒、互いに目を見つめあって、そして彼女はぼろぼろと泣き出してしまう。
「……ごめんなさい、ごめんなさい。そんな事を言わせるつもりじゃなかったんです。僕、あんな事言うつもりじゃなかったんです」
「…そんな悲しい顔、させるつもりじゃなかったんです…僕も一緒に居させてほしいです。ごめんなさい…僕のせいで、僕が…」
…
……
性懲りも無く、悪夢が続く。
新しい学期になって、また少し変わった日常になっても、また同じように。
がたんごとんと揺れる車両。
ただ少し変わった事は、電車の中に他の列客が乗っているようになった事。彼は時たま、そういった人たちを助けて他の人に目を向ける。
どくん、どくんと心臓が早鐘をうつ。
あの時言っていた言葉。
僕にしか見せない、彼の姿があるという言葉。
それはまた、僕以外にも。その他の人にしか見せないような特別な姿があるのだろうと言うこと。僕には見れない姿があるのだとも分かる。
それをすら見られない事を嘆くのは贅沢であるのはわかっている。わかっているのに。
ああ。欲望に底なんてないのに、自由は有限だなんて。なんてひどい皮肉だ。
電車の外の景色を見る。あんなにも綺麗だった青色はもうどこにもない。曇り空と、汚染されきった海が作り出す灰色だけが映る。
ただ、そうであっても良かった。
貴方が横に居れば幸せだった。ただあなたが横に手を握って、僕にしか見れないそれを見せてくれるならば、どんな景色だって。
扉の開閉音。
貴方が立ち上がる。
繋がれていた手がするりと離れる。
貴方が去っていく。
貴方が居なくなれば、残るのはただ汚くなり尽くしたこの景色しか無いというのに。もう貴方に去られる事など耐えきれないというのに。
(ああ、わかった…)
この悪夢の終点の先があるとするのならば。
きっとこうすべきなのだろう。
僕は共に席を立ち、貴方と共に電車を降りる。
その腕に、背中にしがみついて。
そうして目が覚める。
ああ、なんと都合のいい夢だろう。こんな勝手なものをみて、自己憐憫と自己反省に浸って気持ちよくなるつもりなのか、僕は。
救いようが無い。
陰鬱とした気持ちで、壁に飾ってあるお守りを見た。
少し可愛らしい意匠のついた、お守り。学業成就!と書いてあるそれは、くすりと微笑ませてくれる不思議な力がある気がする。それを見るだけで少しだけ心が晴れる。
そんな自分自身に、反吐が出そうだった。




