ワンノブ・ゼムの愚者
「あ、えっと…」
教室から出てきた人物が彼だとすぐにわかった。
ああ、僕が心を奪われている先輩。
取れかけている包帯と、その大きな上背。
何よりも僕の五感が、嬉しい気配がすると理屈でなく感じ取る。ああ、きっと彼がいるぞと。僕はそれにもっと明るく声を掛けたいのに、いつもこうして吃ってしまうんだ。
「ああ、ひさめ。どうした?なんか用か」
「あ、用というよりは…その…放課後の事で。
その、お手伝いに来るのかな、と」
「ああ!今日こそ行くよ。
これまで行けなくてごめんな」
「い、いやいや違います!催促とかじゃなくって、まだ無理はしないで欲しいって事です!無理して来る必要はないってことで…」
「ん、そういうことか。
でもそろそろ大丈夫だよ、力仕事とかは無理でも書類整理くらいはできると思うし」
「はあ…さいですか…
本当に無理はしないでくださいね…?」
「大丈夫だって、皆大袈裟なんだから…」
そう言いながら彼は困ったように微笑みながら頭を掻く。それが、大袈裟ではないということは彼以外の全てが分かっている。まだ療養すべき状態であるのに。
「…そう、ですか。でもそれなら、今日、楽しみにしていますね?」
「応。…ちょっと寂しかったりしたか?」
「あはは、そんなこと…
ちょっとあったかもしれません」
「はは」
冗談に、冗談で返す。
そんな光景に彼には見えているだろう。
僕は、本気の答えのつもりだけれど…
「……その、聞きにくいんだけどさ。
シドの奴、俺の事についてなんか言ってた?」
「え?」
「いや、特に言ってなかったならいいんだけどさ。それならそれで」
そういうと視線を外しながら、少しバツが悪そうな表情をする。その顔を見て僕は、少しむっとしたような、悲しいような気持ちになる。
また隠してしまうのだろうか、と。
「…良く、ありません。僕、あの日に言ったことは気の迷いでもなんでもないですからね!」
尻込みすればその気持ちも掻き消えて言えなくなってしまう。だから、そう勢いのままに言う。頭の中で言葉も反芻せずに。
「?あの日…」
「僕も!古賀さんが背負っているような事を少しでも背負いたいんです。
……そのう、勿論嫌ならいいんですが……」
揚々と言ったは良いが、途中から自信がなくなってきてしまう。ひょっとして、相当出しゃばりな事を言ってしまってるのではないだろうか。古賀さんも呆れてるんじゃなかろうか…
そんな、ネガティブな思いがどんどんと出てきてしまう。
チラリと顔を伺い見る。
するとポカンと口を開けていたかと思うと、ニカリと大きく笑った。そしてその後、痛そうに眉を軽く顰める。きっと顎の傷だろう。
「痛て…
いや、ごめんな。ほんとにそこまで大した事じゃないんだよ。ただなんか俺についての事言ってたかどうか気になったってだけで」
「…何かがあった、訳じゃないんです…?」
「ああ、そういう訳じゃない。ほら、奴さん俺が居ないと俺について散々な事言ってそうだしさ…」
「あとそれと、クラスは同じだけど生徒会室にでも行かないとあいつとマトモに話す機会も少ないし、実際話さなかったんだ」
「……」
「元々人手が足りないから俺が手伝ってたってのもあるし、逆に俺のありがたみの事について言ってくれてねえかなって少し思ってさ」
「だからそこらを軽く聞きたかっただけなんだけど…ひさめ?どうしたひさめ。大丈夫か?」
「………大丈夫じゃなさそうです……」
人目も憚らず、顔を抑えてうずくまってしまう。目を合わせるどころかぷるぷると震えてしまうようだ。
早合点して、格好つけて啖呵を切った挙句見当違いな事だったなんて…恥ずかしすぎる!
しかも更に、彼らを疑うような内容で…
『馬鹿の考え休むに似たり』なんてことわざが脳裏に浮かんでくるようだった。顔から火が今にも出そうなくらい真っ赤っかな自信がある。
「はは、気にしなくていいって。俺の事を心配してくれたのは嬉しいし…それに、あの時言われた事も俺、本当に嬉しかったんだからさ」
「……で、でも僕なんか…」
「『なんか』なんて付けないでくれ。
……俺、割と初めてだったんだよ」
「初めて?」
「ああ、その…
俺のやってることを否定されるんじゃなくて、肯定もされるんじゃなくて。ただ一緒のとこに立ってくれようとしたの。それが嬉しかった」
立ち上がるように促しながら、彼はどこか遠くを見るようにぼーっと、そう言った。僕を見ているようで、更にその後ろを見ているように。
「……」
「悪い、急にそんなこと言われても困るよなあ」
「い、いえ!そういうのを待っていたんです僕!もっと言ってくれてもいいですよ!」
「お、おお…元気が戻ったみたいで何より」
ワンテンポ遅れてちょっとテンションが上がる。きっと今までの古賀さんなら、こういった自分を曝け出すようなことは言わなかった、言ってくれなかったのではと思うのはうぬぼれかな。
「…は、すみません、お時間を取ってしまって。そろそろ僕戻ります」
「おお、じゃあまた後でな」
「…はい!お待ちしてます!」
そう、自分でもわかるくらいに元気満々に答えてから後ろを向く。放課後がすっかりと楽しみになってしまった。
あ、別にシドさんと二人きりが楽しくないだとか、そういうわけじゃないんだけど。ほんとに!
…
……
「と、いう事で。
今日は古賀さんが来るみたいです!」
「…!」
無邪気なひさめちゃんの声に、ぴくりと筆を動かす手が一瞬だけ止まる。
彼が来る。それだけに、動揺を隠せず。
「へえ、そうなんだ」
「…?はい」
「ここに来れるくらいは快復したんだね。それは本当に喜ばしい事だ」
「まあ、また少しは無理してるんじゃないでしょうか…無理はさせないようにしましょうね」
「そうだね。その点については全く異論を挟む余地もつもりもないよ」
互いにあの死にたがりの面を思い浮かべて、ふと笑う。それはあいつは仕方がないな、という呆れの笑みであり、そしてまた、ここに彼が来るという事に対しての喜びでもあった。
ただ少し、そこにボクが濁りがある。
素直に喜ぶことが出来ない、少しの濁り。
恐怖に近しいかもしれない。
こんこんこん。
扉がノックされる音が丁寧に3回。
「…いい加減、キミも顔パスみたいなものだろう。無言で入ってきていいよ」
ノック音にそう答えると扉が開いた。
そのまま入ってくるのは、その大きな上背に、包帯を巻いた怪物のような見た目の青年。
「いや、そういうわけにもいかないだろ。
何か取り込んでたりする事もあるだろうし、その…以前みたいに…」
「ああ、着替えてた時?
律儀に気にしなくっていいのにねえ」
「お前がよくても俺が気にすんだって…」
軽口を叩く。その横で、ひさめちゃんの驚いた顔が目に入る。え、そんなことがあったんですか!と今にでも言わんばかりの顔だった。
「……もう、来ないかもなんて思ってたよ。意外だな」
「正直…ちょっと気まずいけど。
ただそれで手伝わないのも、また話が別だろ」
「フム…確かに、そうかもね。でもそれは、普通なら一緒にされるものだよ?」
「なら、俺はそうじゃないだけだな」
きっぱりと、言い切られる。眼は、こっちを向いていた。何も迷いがない。
ああ、偏執的で、妄執的だ。
何かを助ける、なんてそんな美しい行為にこんな眼を向けれるだろうか?
そんなもの、『普通』ではない。
きっと彼は頭がおかしいのだ。
何にも染まらない。
いっそ高潔に見える程に、頑固。
ボクの色にすら全く染まらない。そういった所にこそ、ボクは惹かれているのだ。
クク。含み笑いを一つ、する。そしてそれらは口に出さず、ただ一言だけ本音を言う事にした。
「ま、なんにせよボクは嬉しいよ。
ありがとうね、来てくれて」
「……ん、ああ」
だのに、いや、だからこそ。キミはボクのやった行動を認められないんだろう。あの時の私刑が、どうにも引っかかっているのだろう?
禍々しいまでに、自分を曲げない。
それでこそ、ボクが愛した男だ。
まあ、なんにせよこの場ではその話はやめだ。
さっきからひさめちゃんがなんのこっちゃと、おろおろしながらボクらを見ているし。
古賀クンもまたそれに気づいたのだろう、ふうと脱力するように笑ってから席に着く。
そしていつものように書類を取ろうとして…
それを、ボクが止めた。
「………え?」
困惑するその顔は、見ていてぞくぞくするほど面白い。でも違う、今回はそれを目的にしたわけじゃない。今回ばかりは。
「…来てくれて、本当に嬉しいよ。それはホントだし、包み隠さない気持ちさ」
「だけど今日はお仕事は禁止。今日中はボクと、ひさめちゃんのお話相手になってておくれよ」
「…何!?」
抗議をせんとばかりに身を乗り出してくる彼。なんだ、思ったよりも全然元気そうじゃない。
「ほら、クラスでもたまーにまだ腕痛そうにしてたし。かといって利き腕じゃない方で書類なんて書けないだろ。キミ小器用だけど流石にそれは難しいはずだ」
「いや、普通にもう腕も治ったから利き腕で書くって」
「前半部が聴こえてなかったのか。痛そうなのを無茶して使わせて、悪化とかされたら本当に困るんだよ」
「いや、本当に治っ…」
「ボクは薄情で、人を人とも思わないような人間に見えるかもしれないね」
食い気味に彼の言葉を消し去る。
また出そうとする言葉を、近付き、唇に指を当てて止めてしまう。
ああ、困ったようなその顔がたまらない。
「…それは否定しないし、まあ、大体あってると思うよ」
「……だからと言って、心配しないわけじゃあないんだよ?」
そう言った途端に、彼からふと力が抜ける。
何か言う気が失せたらしい。
「……わかった。ごめんな、シドにまでそんな顔させるつもりは無かったんだ」
『そんな顔?』
はて、そんなヘンテコな顔をしてたかな。
ボクはいつも通りのつもりだったんだけど。
哀しむような顔でも、してしまったのだろうか。そうだったら、我ながららしくない。
「そ、そうですよ!
僕だって心配してるんですよー!」
ふと、静まりかえっていた空間にガヤのようにそういった声が入ってくる。
ボクら二人がきょとんとその声の方向を見ると、ひさめちゃんは恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてしまった。
それを見て、同時にくくっと笑う。
全くもって可愛い子だなあ!
「んじゃ、何か話でもするか。
なんかリクエストでもあるか?」
「お、いつになく乗り気じゃないか。いいねえ。喜ばしい限りだよ。
…それじゃあキミの好みのタイプでも語ってもらっていい?」
そう言うと、二方向から吹き出すような驚く音が聞こえてくる。全く純情だなこの子らは。
「なっ!?
きゃ、却下!流石に嫌だ!」
「えー、けちんぼ」
「けちもクソもあるか!もっとなんかこう…当たり障りのないのにしてくれ!」
「嫌だい嫌だい。
それだとつまんないじゃなーい」
「人の異性の好みをゴシップネタにして楽しもうとするんじゃねえ!」
「だってひさめちゃんも気になるよねえ。
どうよ、彼のそういう赤裸々な事情」
そう、固まっている彼女に話を振るといやいや、僕は!と猛烈に首を横に振ってしまう。
嘘つけ。さっきからじっと耳を傾けていたのは見えていたぞ。
そうしている内に。
あっという間に時間が過ぎていく。おかしいな、こんなに放課後が過ぎ去る速度は早かったかな?名残惜しいなんて、久しぶりに感じた。
「…っと、そろそろ帰るか。
じゃあひさめは先に…」
「い、いえ。今日くらいは僕が残ります。
古賀さんは早く帰って、鈴ちゃんを安心させてあげてください」
「……わかった。そうするよ」
おお、スムーズ。彼はボクよりひさめちゃんが言ったことの方が素直に従うような気がするなあ。少しムカつく。
そのムカつきや、心にある寂しさだとか、名残惜しさ。そういうもののまま彼に近付いていく。帰る準備の為にしゃがんでいる彼の肩をトントンと叩いた。
「ん、なん……」
「今日は、ありがとね」
そのまま、振り向く頬に口付けをした。
うーん、惜しい。
もう少しタイミングをずらせば口だったのに。
おや、二人とも動きが止まってるったら。
…
……
帰り道。
すっかり日は落ちて、周りは暗い。そんな帰り道を、今日は横に一人いる状態で歩いていた。
「…さあて、何か聞きたいことが?」
無言のままで歩く僕に、その人…赤い眼を爛々と光らせて、問うてくる。
敵意や害意なんてものはまるでない。それでも僕は少し、身を縮こませてしまった。
「シド、さん…」
それは、これから聞く内容のせいでもあった。だが聞かねばならない。これだけは、絶対。
「シドさんは、古賀さんを嫌いになったんですか?」
「ボクが?彼を?まさか。嫌いな相手に口付けなんてしないだろ。むしろ、どうしてそう思ったんだい?」
それも、問いただすだとかではなく、本当に疑問に思っただけのようだった。
ああ、そうだ。彼女は根本的に、僕を敵として視野に入れてすら居ないのだ。それは、彼女の友人としては喜ばしい事だけれど。
「いや、なにか、というわけじゃないんです。
けれど…その…」
「……恐らく、古賀さんが嫌がるような事を何かやっていますよね?今日のお仕事を止めたことじゃなく、それ以外に何かを……」
思い切って、そう言う。
それは、彼を見た時からの直感だった。
そして、二人の会話で確信に変わった。流石に僕が頭が悪いと言ってもわかるというものだ。
へえ、と感心する声が聞こえる。
その直後に、シドさんはニタリと笑う。
彼女は、僕に教えてくれた。
彼を(間接的に)傷つけた用務員の事。そしてそれを調べ上げた、彼女の所業。それら全てを、包み隠さず。ひさめちゃんが知りたいなら、と易々と。
それを聞いて、頭が沸騰するようだった。
怒りも、あった。恐怖も。
ただそれ以上に頭を占めていた感情は、言葉では表しようのないものだった。
強いて言うなら、嫌悪に近かったかもしれない。
「……それは、ずるいですよ。
ええ、ずるい」
「ずるい?何がだい」
「それは勝手で…ただの独りよがりじゃないですか。彼が止めた事を行うことが、ずるい自己満足じゃなくてなんですか」
「違うね。彼が止めようと、ボクは彼の幸せの為に行動しなければならないし、する。
それだけだよ」
「…彼の幸せは彼が決めるものです」
「それも違うよ。幸せとは管理と強制から生まれるものだ。嫌がる子供に泣いているからと特効薬を打ち込むのをやめてしまったらその子は病気で死ぬだけだろう?」
「…その管理は、シドさんにとってだけの幸せかもしれないと考えたことは?」
「いいや。これは絶対に『彼の幸せ』さ」
ぞっとするような、確信を持った発言。それは僕には無い、絶対的な自信がもたらす言葉と思考だった。
「それに、もしボクだけの幸せだとしても…
それが彼にとっての幸福になるようになればいいだけだ。それにボクは、全てを尽くせる」
そう、恍惚として語る彼女の姿は。
どこか酷く哀しく見えた。
僕よりよほど賢く、顔も、体格も、全てを持っている彼女の筈なのに。手に入らなかった葡萄を酸っぱいものだと思い込もうとしているような、そんな痛々しいものに見えた。全然、見当外れなのに。
何かを管理し、指導する者としてでなく。等身大な、ワンノブ・ゼムの少女にしか見えなかった。
「…少なくとも僕には…貴女のそれは、彼への愛ではないように見えます。ただの、ねじくれた自己愛にしか見えません」
「……なんだと?」
「…すみません。言い過ぎました。
…それでは。僕、家の方向がこちらなので」
ただ一言、そう言ってシドさんに背を向けた。
言ってしまった事に後悔はあった。
恐怖もあった。
だから、その場から逃げるように早歩く。
「……だろう……」
「そんな事…あるはずがないだろう。
そんな事が……!」
(………っ!)
地の底から響くような食屍鬼じみた声が、真後ろで聴こえたような気がした。毒矢でも飛んでくるようなまでの恐ろしさ。まるで真後ろに立たれているかの如くハッキリと、それは聞こえた。
それからは確かに、『敵意』を感じた。
崩壊の序曲は、それは綺麗なプレリュードだった。




