雪兎に君が笑う
その日はそこまで劇的に寒いというほどではなかった。
ただしかし、天気も悪く、底冷えするような寒さであることも間違いはなかった。
「にーちゃん、次はこれやろ!」
「はいはい、ちょっと待ってな…
…ん?」
だから、その日に、はらはらと雪が降り始めた瞬間には、驚きだったりと言うよりはなるほどな、という一種の納得があった。
「おお…もうそんな季節かあ」
「そういえば寒かったもんねー」
「『そういえば』で流せるような寒さだったかな…ってか、もう1年か」
ちょうど、孤児院の手伝いに来ている時に雪が降って来た。いつものように面倒を見たり、掃除や備品整理を終え、懐いてくれている子と遊んでいた。
彼女の名前はユキ。まだほんの小さな子だ。
ユキと、雪。名前の偶然ではあるが、少しだけ考えてしまう。
「…ちょうど降って来たって感じだな」
ふとそう呟く。
それが聞こえてしまったのか、ユキがこちらを覗き込んできた。バツが悪くなる。
「いや、ごめん。そういうこと言われるの、嫌いなんだったっけ」
「ううん。今はへいき」
「…そっか」
達観したように、空を眺めながらそう言う彼女にふと気を取られる。
「兄さーん!降って来てしまったことですし、そろそろ帰りましょう!」
呆けた俺を正気に戻したのは、そんな、聴き慣れた声だった。
「ああ、わかった!
…それじゃな。また」
「うん。またね」
いつもの元気な姿と少し違う、疲れたようなぼーっとしたような様子を少し心配になりながら、荷物を取りに戻る。
実際、そろそろ帰るべき時間である事は確かなのだ。これ以上は相手方にも迷惑がかかる。
「風邪、ひかないようにな」
「うん!」
そう最後に言うと、嬉しそうにぱあっと笑ってくれた。それがあっただけ、まだ良いだろう。
…
……
「ずいぶんとまた、降って来ましたね…」
辟易したように、鈴が言う。彼女は念のためにと折り畳み傘を持って来ていたが、当然二人が入り切るようなサイズではない。
兄さんが使ってください、いや鈴が使えという押し問答の果て、鈴が少し申し訳なさそうな顔で傘を使う事となった。
「な、すっげえ雪だ。こんな事ならもう少し厚手の服着てきてもよかったな」
「…そうですね」
「あ、ひょっとして鈴寒いか?それなら」
「大丈夫、大丈夫です!ただでさえ雪を浴びてるんですから上着を脱ごうとしないでください!馬鹿なんですか!」
「はは、冗談だって。
さすがに俺だって寒いし」
「どうだか、もう…」
すっかりと暗くなった道行きを、街灯の光を頼りに歩く。ざふ、ざふと、積もりかけている雪を踏みしだく音が静寂に響く。
手袋は互いに無い。だから代わりに、傘を持っていない方の腕を繋ぐ。片方の手は冷たいままだが、片方は少しだけ暖かい。
「せめてもの、ですが。玄関に着いたら払ってあげますから、それまでは少しでも身体を冷やさないようにしていてくださいね」
「はは、そんなことしなくっても大丈夫だって。心配性だな」
「見ていないと…いえ、目を付けていてもすぐにでも無茶をしますからね。それは心配性にもなりますよ」
「ごめんて…」
大袈裟に落ち込む姿を見て、鈴が少し笑う。その笑顔を見て、俺も少し笑った。握られた手が少しだけ強張ったように感じた。
そうこうしている内に、家に着く。
玄関で、まるでボディチェックのように雪を払う姿に、苦笑した。
彼女なりの、傘を独占してしまった罪滅ぼしのつもりなのだろう。気にしなくていいのに。
「お母さんは…居ませんね。
御飯は私が作るので兄さんは先にシャワーでも浴びて身体を温めてください」
「いや、冷えてるのは鈴も同じだろ。俺も作るの手伝うよ。まだ洗い物とかもやってなかった筈だし」
「……はあ、そう言い出したらテコでも動きませんからね。それではお願いします」
困ったように額に手を置きながら言う姿は、大分苦労に慣れてしまっているような気がした。
「誰のせいですか、誰のー」
そのまま聞くと、じとっとした目で思い切り指を指される。そこまで危険な真似はしてないし、最近はちゃんと断るようにもしてると弁解するが、その目は変わらない。
えい、と皺が寄っている額を指でほぐすと、変な顔になる。それに憤慨する鈴。
「…まったく、仕方ないですね」
ふと、彼女がそう言う。
何に対してかは聞けなかったが、彼女の微笑んでいる顔を見ると、怒っている訳ではなさそうだった。
それからは特筆するような事は無い。いつものように、晩飯を二人で食べる。そして少しだけ二人で駄弁り、それぞれの部屋に戻り、寝る。
自室の窓から外を見ると、白色が世界を埋め尽くしていた。少し前にもざあざあ降りの日が有ったが、その日と違うのは、あの時にあった音が今や無く、怖いほど静かな事。
今日はよく眠れそうだ。
そして、明日は相当に積もっているだろう。
わくわくするような、げんなりとするような。
その半々の気持ちで床についた。
…
……
「おお……」
思わず声が出てしまうような白い風景。
夜中しんしんと降り続けた雪は朝には止み、太陽に当てられ、眩ゆいばかりの明るさを朝日に照らしている。
だいぶ早くに家を出たこともあり、周りに歩いている生徒はいつもよりだいぶ少ない。雪が音を吸っているということもあるだろうが、いや、それも踏まえて。随分と静かなようだった。
そうして、少し気持ちがいいようにゆっくりと歩いていると、前方に少しだけ見覚えのあるような姿が見えた。座り込んでいる人の影。
それは小さな体躯に、少し大きめのおさげ。少し癖っ毛な、ぴょんと跳ねた髪が遠くから見た彼女を彼女だと分からせてくれる。
「おはよう、ひさめ。
朝早く何を──」
「うひゃあ!」
……こちらが逆にびっくりするほど、驚かせてしまった。
「あ、あれ?早いですね古賀さん?」
「それはまあこっちの台詞だけど…
とりあえず驚かせちゃったみたいでごめん」
「あ、いえいえ、そんな。
勝手に僕が驚いちゃっただけなので…」
胸に手を置き、顔を赤らめ深い呼吸をしてる姿はとても動揺しているようで、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。
「いやあ…昨日、つい早く眠り過ぎて早く起きてしまって。せっかくだから早く出てみたら、つい…」
『つい』。その言葉が気になり、先ほどまで彼女が座っていた方を見る。
するとそこには小さな雪だるまが二つほど置いてあった。片方は、もう片方よりも少しだけ大きい。
「なるほど。つい作りたくなるよな。
こうも積もってると」
「そうなんですよ!こんなに積もったのほんと子供ぶりくらいで…!」
きらきらと、目を輝かす姿に微笑ましくなり、つい笑う。それを受けて、ひさめがはっと、恥ずかしそうに咳払いをした。
改めて彼女を見ると、全体的に丸くなっている。それは無論、急に太ったとかではなく、中に、外に着込んだ結果の事だ。冬毛になった動物を彷彿とさせるような姿である。
「し、失礼しました…ええと、古賀さんは?いつもより少し早くないですか?」
「ああ、よく知ってるな。そうなんだけどさ。先に学校行って、凍結対策の塩ナト撒く手伝いとかなんかさせてもらおうと思って」
「誰かに頼まれたわけでもないのにですか!?」
「?ああ」
「当然のように返されても…」
呆れたような顔をされてしまう。まあこれくらいは慣れたものだ。何より、自己満足の為にやってる事だし、やる事は変わらない。
「……しかし、なんで2つなんだ?」
「え」
「雪だるま。1つでは無いし、親子なら3つだろ。でも2つってことは意味があるのか」
「い……いや、別に……
いやほんと別にそういったことはぜんぜん…」
顔を俯けて、どんどんと小さくなっていく声。…軽い気持ちで聞いただけだが、あまり聞かれたく無い事だったのだろうか?
「…なあ、俺も一個作っていいか?」
「!はい、勿論!
えへへ、見ていると作りたくなりますよね」
「そうだな。そこまで凝ったりはしないけど、やりたくなっちまった…!」
そう語りかけながらぎゅっと雪を握って行く。手袋越しにひんやりと冷気が伝わってくるが、構いなしにぐいぐいと握る。
そうして出来たものは、ひさめが作ったものより大分大きいものになってしまった。それは手の大きさ的な事もあるし、妙に張り切ってしまったからというのもあるかもしれない。
だが、まあ、我ながら出来は悪くない。結構綺麗に出来たんじゃないか。満足しながら、二つ並んだその横に完成品を置く。
「な、何故横に…?」
「?他意があったわけじゃないけど…
ごめん、置かないで欲しかった?」
「い、いえいえ!そんな!
むしろ嬉し…いやそういうのじゃなくて!」
なんだかよくわからないが、楽しそうだ。楽しそうにテンパってる彼女の姿は見ていてなんだかほっこりとしてくる。
「…あ、そういえば時間は大丈夫ですか?
そこまで経ってはいませんが」
「ん。ああ…そろそろ行こうかな。
ひさめも一緒に行く?」
「はい!是非とも一緒に行かせてください」
ゆっくり、歩き始める。手袋を少し外して、はあと息を吹き掛けた。少し濡れた手袋は、付けてると少し冷たくなってしまう。
「えっと…手、冷えてしまいました?」
「まあ当然だな。
ひさめも冷えたんじゃないか?」
「僕はまあ基本冷え性なので慣れてるというか…あと…あ、そうだ」
と、懐から携帯ほっかいろを取り出す。
そして、冷えた俺の手にぽんと置いた。
「これ、あげます!多分2限くらいまでは保つでしょうから使ってあげてください」
「ああ、いや…嬉しいけど、いいのか?」
「いいんです。古賀さんはたまには誰かの好意をちゃんと受け止める事に慣れるべきです」
「…あはは、なんて偉そうに言っちゃいました」
そう言うと、照れ臭そうに頭を掻く。ただその言われた事は確かにそうあるべきだと思った。
「ありがとう、ひさめ」
「!は、はい。
お役に立てたなら嬉しいです!」
互いに笑い合う。
静寂の中に、それは思ったより大きく響いて、二人とも少し恥ずかしくなってしまった。
…
……
手伝いが終わり、教室に。
予鈴ギリギリである為、当然教室はがやがやと賑わっている。
「お早うございます、シュウ」
席に着くや否や、そんな声が聞こえる。
横からは透き通るような声と、空のような目の色をした彼女が話しかけてきた。
「ああ、アオ。おはよう」
「何かして来たのですか?
少し疲れてるみたいですが」
「ん、用務員さんの手伝いを少しだけ。
でも全然大した事はしてないよ」
「……」
そう言うと、アオは覗き込むようにこちらの顔を見てくる。その表情はいつも通りに無表情…だがいつもよりもムッとしてるように感じる。
「あまり無理をされたら、怖いです」
「無理はしないさ!
倒れたら、周りにも迷惑かけちまうし」
『…自分の身を鑑みはしないのですね』
急な英語に少し戸惑うが、一応聞き取ることは出来た。心配、ともまた違う悲しみを抱いた顔を見て、どこかこちらも胸が締め付けられるようになる。
「大丈夫。俺だって、自分の身は可愛いよ。
…だからそうだな、ゆびきりしよう」
「?ゆびきり?」
「ああ、こうやって小指を繋いで…」
ひさめに貰ったほっかいろで温めているが、しかしまだ冷えている手に、アオの体温は熱いようにも感じた。
「ゆびきりげんまん、俺は危ない真似はしないし、無理もしない。嘘ついたら針千本飲ます…って」
「針を千本飲ますのですか?それとも、ハリセンボンを丸呑みするのですか?」
「あ、つっこむ所そこなのか」
予想外の言及につい吹き出しかける。
もっと他の所を気にしてもいいだろうに。
「約束を、しました。
私、シュウを信じてますから」
アオがそう言って微笑む。
頬が少し上がる程度の、微かな変化ではあったが、それでも雰囲気が和らぎ、とても可愛らしい変化だったと思う。
「そっか。
なら尚更破らないようにしなきゃな」
こら、そこイチャつかない。
そうしていると、教師にそう言われてしまう。
誤解だ、誤解!
アオにも失礼だろう!
…
……
気が重くなるようだった。
それはこれから言わねばならない事そのものもだが、その内容も、申し訳ない事だから。
と、目撃情報の通りに彼女がそこにいる。
すらりとした身体、長い足に、後ろ纏め。
「…よお、シド。今少しいいか?」
「おや、どうしたんだい?
今は忙しいわけでもないけど」
そんな生徒会長が、珍しく一人で歩いている所をなんとか捕まえて話しかける。
取り巻く生徒が居ないがしかし、周りに人がいる為か、彼女の顔にはのっぺりとした作り笑いが張り付いている。
俺はどうにもこの状態のシドが苦手だ。
なまじ、本性の方を知ってしまった故に、この時が何を考えているか分からなくて怖いのだ。
「何か用事かな?
珍しいね、古賀くんが話しかけてくるの」
「ああ、用事…って訳じゃないんだけど」
「成る程、何か話しておかないといけない事があるんだね。言ってごらん」
にこりと微笑みかけられる。
きっと、いつもの姿を知らなければ素直にどきりと出来たのだろうが、今となってはその顔は掴み所がなく、恐ろしいものに見えてしまう。
「いや…すまん。
今日生徒会の手伝い、行けなくなっちまった」
「……おや」
「ほんとごめん!先約はそっちなのに、急に予定入れちゃって…」
「その用事は」
「え?」
「なんの用事だ」
笑顔が急に、下手になったように見える。
それともこれは俺の気のせいだろうか?わからない、わからないが怒ってる事は分かる。
「…用務員さんに雪下ろしを頼まれてさ。どうしても重労働だから人手が欲しいって」
「……そうか」
「……うん、なら、いいよ」
向き直った時には、またその顔にいつものごとくの作り笑いが浮かんでいた。
「…いいのか?てっきりこっちに来るように言うかと思ってたけど」
「ハハ、まさか。
そんな横暴をボクが言う筈ないじゃないか」
嘘をつけ。いつもしてるだろうお前。
その非難の目つきを気付いてか気づかずか、一層笑みを深くする。
そして、言う。
「それに、わがままを言ってキミに嫌われてしまっては困るしね?」
どきり、とした。
固まっている俺をどう思ったかはわからないが、それじゃあねと笑いかけて、彼女はそのまま歩き去っていってしまった。
(……はあ、緊張した)
やはり、どうもあの状態の、猫を被った状態の彼女は掴み所がない。
というのも、明らかにウソである時は大抵、不自然で、その笑顔や、隠した何かを俺なんかでも見破れたりするものだが。
時たま、今のように本音を言ってるようにしか見えないような顔をするのだ。
それが彼女の、分からなさを助長している。
「まあ、何にせよ許可は取れたみたいでよかったな…」
不覚にも少し高鳴ってしまった胸を、そうひとりごちる事で落ち着ける。
それに、随分と時間がかかってしまった。
…
……
「ふーっ…」
鐘が鳴る音が聞こえてくる。
この頃にはもう、雪下ろしは大体終えていた。
勿論、頼まれた所はというだけだ。それくらい、キリがないように感じる。
いっそすぐに溶けてくれればいいのだが、普通に寒いせいでそうはならない。いちいち下ろさねば、まあ最低でも1週間程度はこのまま残るだろう。
よっこらせと雪を払った地べたに座り込む。
すっかり身体も冷えたし、何より疲れてしまった。案外こういった全身運動は辛いものだ。
(みんな、どうしてるかな)
シドとひさめは仕事をちゃんとやれているだろうか。元々俺が居なくても大丈夫だったし、それに戻ってるだけかもしれない。
アオは今頃誰かと帰っているだろうか。部活とかには彼女は入らないのだろうか?
そういえば鈴と一緒に回るみたいな事を言っていたような。鈴はちゃんと出来るだろうか、と考えるのは失礼か。
ユキちゃんは元気だろうか。あの日、風邪引いてしまっていないといいが。
(…っと、ぼーっとしてないで帰ろう)
立ち上がりながら伸びをする。
せっかくなら暖かい飲み物でも買っていこうかと、少しだけ歩き始める。
その、時だった。
ざく。か、がら。か。
そんな感じの、もしくはそれらを混ぜて割ったような音が、上から聞こえた気がした。
瞬間、頭に激痛が走った。
視界が反転するような感覚、脳が丸ごと揺れるような感覚。
五感が遠くなって行く感覚。世界が遠ざかる。痛みだけはその中でも鮮烈だ。
(殴られッ…?…いや、違う…)
視界の端に、赤が付着した雪が見えた気がした。いや、それは雪というよりも氷に近い。
(…落雪…)
どこから落ちて来たものだろう。
あれが当たればそりゃ痛いよなあ。
そんな事すら考えられなくなり。
世界が、ブラックアウトした。
→
後編に続く




