アオヒトリ
「…買い物に?俺と?」
「ハイ。是非ともお願いしたいです」
私が申し出ると、シュウは素っ頓狂な声をあげて聞き直してくる。彼はまた、自分がこう誘われる事を予想だにしていなかったのだろう。
ふと、嫌だった場合を思いつく。
そうであるならば断られても仕方がない。
「勿論、無理にとは言いませんし私と共に行く事が嫌ならば…」
「いや、そんな訳はない!俺なんかを誘ってくれて嬉しいさ」
『俺なんか』彼のそれは、自己評価の低さから来る発言。
それを聞く度に、少し悲しい気持ちになる。
「ただ、俺よりも適任な人が居るんじゃないかとも思って」
彼はそのままそう言う。適任。私には彼以上に適した人間は居ないと思っていた。
何故そう思ったのだろうか?
わからないままに、首をかしげる。
「服を買いに行く、ってんだろ?
なら男の俺よりも女の人と行った方が、色々話がスムーズに進んだりしそうじゃないか」
「別性の方の意見は必要だと思います」
「ああ、なるほど…
でも俺あまり服とか詳しくないしな。それこそアオのお母様と行った方がいいんじゃ」
「母には彼と行ってきなさいと言われました」
「なして…?」
よくわからない訛り方をして目を細める。彼に訛りなどは無かったはずだけれど。
「そうだ。鈴にも声かけて見ようか?
それこそ、出来るだけ色んな人の意見があった方がいいだろうし」
「……ハイ、確かにそうですね」
少し考え込んで、答える。
確かに言っていることは正しい。しかし何故か少しだけ考え込んでしまった。
スズと一緒など、嬉しいはずなのに。
…
……
「えっ行きませんよ、私」
「なんで!?」
今度はよくわからない訛りは無かった。
分析するに、さっきは多少冗談混じりであったのだろう。そして今度は、予想していなかったから驚いたのだ。きっと、そう。
「だって私が行くのも悪い気がしますし。
それに、ほら…」
「悲しく、なるでしょう」
「悲しく?」
疑問符を浮かべるシュウに、スズがふっと笑いかける。しかしその笑みはどこか悲しく、そして泣いているようにも見えた。
彼女は、自分の身体を撫でるような素振りをする。胸を撫でていたのだろうか。
そうして、私を見る。視線は顔ではなく、その下を見ているのを感じた。
そしてそれを見て、シュウが「しまった」とでも言うように青褪める。まるで、地雷を踏みしだいたように。
「…これ以上聞きますか?」
「すまない。いやほんとごめん」
「謝られた方が辛いからやめてください」
「ごめ…いや…うん。
二人で行ってくるよ。そうする」
「ええ、そうしてください…」
どんよりとした気配を纏いながらスズがそう言い放つ。
そうして外出の準備をしようと部屋を出て行ったシュウを確認してから、私に囁いた。
「是非楽しんできてくださいね」
「……ええ、ありがとうございます」
「はい。…アオさんには、これくらいは許されると思いますから」
「?」
「こちらの話です。
ほら。兄も、準備を終えたようですよ」
玄関から、私を呼ぶ声がする。私はそれを聞いて跳ぶようにそっちに向かう。手荷物は少ないけれど、それだけではない身軽さのようなものを感じるような、そんな気がした。
「…でも……」
背後で、何かを呟く声が聞こえたけれど、それが何を言っていたのかはわからなかった。
…
……
そこからの時間は、本当に早かった。
「こちらはどうでしょう?」
「……う、うーん…
それは…流石によしておいた方が…」
渋い顔で、手に取ったシャツの購入を止める彼。可愛いと思ったのに。残念だった。
「なあなあ、これなんかはどうだ?」
「…!こういったものが好きなのですか」
「好きっていうか…似合うと思って」
考え込んだと思ったら、ぱあっと明るい顔をして服を差し出してきた時の彼の顔。
そうして好みかと聞かれた、照れ臭そうな顔。
結局、その服は購入することにした。
「どうでしょう?似合ってますか?」
「うわッ!ちゃんと服を着てくれっ!」
顔を赤く、慌てながら顔を隠す彼。
本当は試着室に入ってみてくれた方が手間が省けると思ったのだが、それを言ったら凄い勢いで首を横に振られてしまった。
あっという間に時間が過ぎて行く。
気づけばもうこんな時間になってしまったのかと、自分でも驚いてしまうくらいに。
彼は楽しんでくれてたのだろうか。
私に、無理に付き合わせてしまっただろうか。今になってそれが気になる。
「…あ」
そんな事を考えながら歩いていたからだろうか、ふと。一人きりになってしまった。
いや、一人になることは、『目的』のために私が意図していた事。
しかし問題はもう一度彼と合流する事も出来なくなってしまったことだった。
(…迷ってしまった)
一人になる感覚。どうしても、心が痩せ細るような、どうしようもない寂寥感に苛まれる。不安感が心を蝕んでいく。
だけれど、一筋の光明があるように、潰れてしまわない。彼がいる限り、心の拠り所がある。
私自身も、彼を探す。
それでも、きっと。
きっと彼ならば私を。
「アオ!」
いつでも貴女は私を見つけてくれる。小さなあの頃の憧憬のように、あの小さなヒーローのように。息を切らしながら手を伸ばしてくれる。
「あ…」
「よかった、ここか!
ごめんな、目を離しちまって」
「いえ、いえ。違うんです。
私がこっそりと、一人になったんです」
「そうなのか?
…っと、そういえば、ケータイで連絡すれば良かったな。はは、焦ってすっかり忘れてた。我ながらバカだな」
安心したように息を吐く彼の顔。その額には、季節外れの汗がうっすらと浮かんでいる。
「心配をかけてしまってスミマセン。…どうしても、買いたいものがあったんです」
「買わないといけないもの…必需品とかか?」
「そういう、わけでは」
彼に、迷惑をかけてしまうつもりではなかった。迷惑をかけてまで渡すという事はどうにも情けないようにも思えた。
だけれど。
私は決めたんだ。
あの日以降、自分の勝手な思い込みで尻込みをしない。勝手に臆病になって、発言を止めたりしないように。せめて、大切な時だけは。
「これを。
…今日は、ありがとうございました」
私は、さっき買った手袋を渡す。
その大きな手を包めるものは、無骨なデザインのものしかなかったけれどサイズが合うものがあっただけ良かったと言うべきだろう。
「…これを、俺に?」
「ハイ。プレゼント、です。
私なりの恩返し…の、1つ」
「私、貴方に色々な事を教えて貰ってます。なのに、何も返す事が出来てません。これで全てになるとは思ってませんが、それでも」
「ありがとう…!すげえ嬉しい!
いや、ほんとありがとな!最近手先が冷たくって困ってたんだ!」
そう、子供みたいに無邪気に笑う様子は、いつも見る彼の笑い姿。なのにそれは、初めて見た人の顔みたい新鮮に見えて、胸がどくりと高く打つのをかんじた。
「喜んでもらえたなら、何よりです。
こちらこそ、ありがとう。シュウ先生」
そう、笑いかける。
いつも、愛想笑いすらも下手な私だが、この時だけは上手に笑えていたと思う。
…
……
秋の日は、鶴瓶落とし。
そんな言葉を前に習った。
正にそのようだ。
時間としてはそこまで遅い筈では無いのに、外の世界はすっかりと暗闇で、街灯な無ければ足元すら見えないようだった。
シュウと私が、並んで歩く。
彼は、手袋を付けてくれている。
行き道と違って、「手が冷たいだろうから」と手を握る事は出来ない。
だから代わりに、「さっきのように迷ってしまわないように」と、彼の手を握る。
布越しの体温が不思議と心地よかった。
今日、一日。
私はシュウの色々な顔を見た。
楽しい記憶が幾つも出来た。
そしてそれは、全て彼の表情と共にある記憶。泡のように、楽しさに彼が付随する。
彼はどのような顔をするだろうか。
彼が、どのように思っているだろうか。
それが、何をするにも心に残る。
そしてそれは心残りは申し訳なさなどではなく、嬉しくすらあるのだ。
これは。この気持ちはなんなのだろう。
「…どうした?大丈夫か、アオちゃん」
「…ハイ。…いえ…」
釈然としない答えが、口から出る。
何故、彼は私の不調に気付いたのだろうか。
きっと、表情や行動から気づいたのだろう。
それを考えると、嬉しいようだった。
何故?それは、何であるかはわからない。
ただ言葉にすることも出来ない。
言葉を知らないからということもあるだろう。しかしきっと、言葉を知っていても、これを、この胸の内を表すことはできないだろう。
私はこれを知らないのだから。
「私…私は…」
「うん?」
『…私は、貴方から片時も離れたくない。ずっと傍にいたい。その温もりを感じていたい。貴方が居ない事は耐えられない。貴方にずっと抱き止められていたい、貴方に私だけを見ていてほしい。そうは出来ないのはわかっています。それでも』
『それでも私は貴方にだけ見つめていてほしい。貴方の顔をみていたい。変わる表情を、かける言葉を、全てを私にだけ向けてほしい。貴方の全てを私にだけ差し出してほしい。代わりに私の全てを差し出しても構いません』
「……どうでしょう」
「…?ご、ごめん。
もう一回言って貰えないか?」
申し訳なさそうに顔を歪めながら、シュウが私に聞き直す。
早口に、英語で言われれば彼が聞き取れない事はわかっていた。私はそれを利用したのだから。それを利用して、判られないままに、気持ちを口にした。自分でも理解できない、噛み砕けない感情を、ただ思いついたままに。
彼に聞かれてしまったら怖いから。
まだ勇気を出し切ることが出来ないから。
我ながら、汚い。ずるい事だ。
この想いを聞かれたら、きっと何かが壊れてしまう。いつか私は、それすら壊れてもいいのだと思ってしまうのだろう。でも今は。まだこの気持ちに名前をつけられてない今は、少なくともそうではない。
だから、こんな汚い真似をした。
だから、こんな騙すような真似を。
「…長々と言ったのは、感謝の言葉です。
要約、しましょう」
「ありがとうございます、シュウ。
私は貴方が『ダイスキ』ですよ」
ぐいと、繋いだ手をたぐり寄せるようにして、その大きな腕を、抱擁するように掴む。
しないようにと、スズに言われていた。
けれど、バレなければいいかな、と。
耳まで赤くなった彼の表情は、また随分と新鮮に、可愛らしく見えた。
…
……
大きな腕に、しがみつく気持ちが何であるのか。彼女にはまだそれが何かはわからない。
それは親兄弟に向けた親愛に近いものかもしれない。もしくは、愛玩動物に向けるような所有欲であるのかもしれない。
まだ、そう考えている。
彼女には、まだわからない。
これが本当に愛であるのかも。
それが、色欲なのかどうかも。
彼女は、カケラもそれを抱く事が無かった。
精神が、ずっと幼い。区分が出来ていない。
愛している事には間違いはない。
好きである事にも、間違いはない。
そしてそれが、どうあるべきなのか。
それだけがまだ、わかっていない。
「へ…くちっ…」
「っと、寒いか。
日が落ちるとどうしてもな」
「…いえ、大丈──」
「大丈夫かもしれないけど、これを羽織ってくれ。
俺を安心させると思って」
集青年が、掴まれていた腕をゆっくりと離させる。そしてくしゃみをした少女に、着ていたコートを被せた。ぶかぶかで、男物には似合わない背格好ではあるが、だからこそその姿は微笑ましくあった。
「ちょっと動きにくいかもしれないけど…
そこそこあったかくはあるだろ?」
「……ええ、あったかいです」
アオがにこりと微笑み、そしてまた腕に絡みつくように腕を組む。彼女の豊満な身体に青年は必死にその邪念を払おうとしているが、少女はその顔をすら愛おしげに眺めるのみ。いつもの無表情が、ただ嘘のように。
他人が見れば、いっそすぐに気づくような顔。多幸感に満ちたその顔は、ある一種の特別な愛が無ければする筈が無い顔だと。
色欲。その大罪を抱いていなければ。愛していなければ、そのような顔をする筈がない。
それでも本人が気付くまではその感情は、名も無い感情の、大きな奔流。あくまでただの、無名のままであるのだ。
ただそれに気付く事は、きっとすぐ。
それは、目の前にある幸せの青い鳥に気付く事よりも余程簡単に、冷徹に。何がきっかけというわけでもない。今すぐにそうなってもおかしくない。それ程に、危うい均衡の元になりたっている状態だ。
感情の奔流は、いつでもその愛に姿を変える。
そしてそうなれば。
彼女は、すぐに罪を背負う事だろう。
そしてその罪を、受け入れる。
他ならぬ少女自身の幸福の為に。
そして、彼をも幸せにする為に。人形じみた自分を救ってくれた彼を真に救う。貴方が私に愛させ世界を輝かせてくれたように、私は貴方に愛されよう。私が好きなように、貴方自身に貴方を好きにならせて。
(私なら、貴方を幸せにして見せます)
彼女の本当の罪は、その無表情に隠れた確かな傲慢であるかもしれない。




