変化する一日
「兄さん、兄さん」
ゆっくりと揺さぶられる感覚と、呼ぶ声が俺の眼を覚まさせる。目を開ければ当然というか、そこには鈴がいた。既に折り目正しく、いつもの如くの制服姿とさらりとした髪。
「どうし…
やっべ、寝過ぎた!?」
咄嗟に疑ったのは俺の昨夜の目覚まし時計のセットし忘れ。それを見かねて起こしに来てくれたのではと。
だが、そうではないみたいだ。
「いえ…遅刻では全くない…というか、まだ少し起床には早いくらいなのですけど…」
「?じゃあ困り事か何かか」
一人で背負い込みがちな鈴が、わざわざ俺を起こしてまで相談しようと言うことなのだ。重大な事ではないだろうか。そんな風に寝起きの頭が目覚めていく中、鈴の返答は釈然としなげな複雑そうな顔だった。
「困りごと…といえば、まあそうなんですが。とりあえず、見れば分かると思います」
上着を羽織って、鈴に連れられるままに玄関へ。寝巻き姿でボサボサな姿のまま外に出るのは情けないが、まあ仕方ない。
そうして、扉が開け放たれる。
するとそこには。
「おはようございます。シュウ、スズ」
…人形のような、青い目の少女が居た。
ばんと反射的に扉を閉める。
「なんで?」
「いや、私もまだちょっと驚いているんです。
おそらく…というか目的は十中八九分かっているんですが」
「と、とりあえず上がってもらおう!
外で待たせるのも悪いだろ」
「…そうですね。私がそうしておきますので兄さんはお早めに身嗜みを整えてください」
「ああ、そうする…!」
そうして、爆速…のつもりだったが、実際にそこまで早かったかどうかは分からない。ともかくとして気持ちの上では相当に急いで格好を整える。ネクタイはいつもより緩いが、まあ後で締め直せばいい。
二人がいる筈の居間へ戻ると、そこには、申し訳なさそうに佇んでいるアオと、悩ましげに腕を組みううんと唸っている鈴が居た。
「…っと、どういう状況?」
「あ、シュウ。…ええと、先ほどスズにも言ったのですが、迷惑をかけてしまってすみません」
迷惑…ああ、なるほど。彼女は朝に押しかけ、俺たちが動き回る様子を『迷惑をかけてしまった』と思ってしまってるらしい。
「そんな事は無いと言っているんですが…
慌てふためいてしまったのは事実ですし」
まあ確かに。鈴も俺も迷惑とは全く思ってないが突然の来訪に驚き、慌てまくったのは事実。なんならさっき俺は、扉を閉めるなんてめちゃくちゃ失礼な事をしてしまった気がする。
「こっちこそごめん。さっき俺は自分の体裁を守ろうとしてアオの気持ちを考えてなかったな」
そう謝ると、アオはきょとんとした顔で『体裁』の意味を聞いてくる。その様子がどうにも可愛らしく、くすりと笑ってしまう。
そしてその頭に手が伸び…
「兄さん」
…かけて、手を止めた。
いかんいかん、鈴がいなければ、ごく自然に頭を撫でてしまうところだった。
「…話を戻しましょう。
アオさんの目的はやっぱり…」
「ハイ。シュウ先生と一緒に。
登校しようかと思いまして」
なるほど。
アオは昨日より俺たちの学校に転入してきた。そしてそうなると、まだ道などには慣れないし、場合によっては迷ってもしまうだろう。
そうならないように既に学生である俺…いわば、『先生』と共に学校にいくつもりなのだ。
「…よし、いいぞ!シュウ先生に任しとけ」
と、ついついそんな事を言う。やはり素直に頼られると言うことは嬉しいものだ。
返事を聞き、アオの感情に乏しい顔が、ぱあと明るみを増したようにも見えた。
そうした横で、鈴は悩ましげにうーんと唸っている。なんなら、片手で頭を抱えている。偏頭痛か何かだろうか。
「そうですね。
ひとまず、今日は一緒に行きましょう」
「もちろん!私も一緒にです。
…アオさんもそれでいいですよね?」
「ハイ。皆で行けたら楽しいです」
そう、混じりっ気のない答えを聞くと、鈴は虚をつかれたようになり、そしてまた顰めっ面をしていた。
「さっきから大丈夫か?頭痛いのか」
「違います…自己嫌悪というか」
「?まあ、何にせよそろそろ出ようか。
そんなこんなしてる内にもう時間だ」
学生鞄を持ちながら、そう外に向かう。朝飯を食いそびれてしまったが、まあ昼までは全然保つだろう。
「おや、確かに…もうこんな時間ですか。
兄さん、弁当忘れています」
「あ、さんきゅ。
…それじゃ、アオも出る支度をしてくれ」
「ハイ」
ぎゅ。
淡白な返事と、その音は同時に鳴った。
この瞬間に、何が起こったのかをすぐに認識できた人間は居なかったろう。当事者の俺であっても、まるで理解が追いつかなかった。
ただ腕に感じる、何かしらの感覚。固く大きく、ほのかに柔らかみを帯びている。
ほんの少しの間があって。俺はこの時、初めて、さっきの音が。『ぎゅっ』という音が、俺と腕を組んだ音である事に気が付いた。
そしてこの腕にある感覚は、組む際に当たってしまっている……
「…〜〜〜〜ッ!!」
…声の無い絶叫が聞こえた。声が無いのに、聞こえたと云うと矛盾を起こしているようだが、そうとしか表現できなかった。
妹は髪が逆立っているようにすら見えるような勢いで、俺をアオから引き離してくる。
俺?俺はフリーズしてた。
「だめです!それは絶対だめ!」
「?なんでです?」
「なんでって…嫁入り前の女の子がそんな、ふしだらな真似をしちゃいけません!!」
「?ふしだら?」
「…なにはともあれダメです!今は家の中だから良かったものの、外では絶対やっちゃダメですからね!特にお兄ちゃんにはぜったい!!」
「わかりました…?」
よく分からなそうに首を傾げるアオ。それを見て、鈴もようやく落ち着きを取り戻し始める。俺もなんとか認識が戻ってきていた。
「…はあ、はあ…
…すみません、取り乱しすぎました。ちょっとだけ先に外に出て貰えますか?すぐに私たちも行くので」
「ハイ、わかりました」
ぱたんとドアが閉じる音。正直、色々と落ち着ける必要がありそうだったので、ありがたかった。いや、恐らく鈴はそれを考慮にいれて、先に行かせてくれたのかもしれない。
「…兄さん。
まさか『役得』だなんて思ってませんよね?」
「ま、まさか!そんなまさか。
そんなこと……」
「…少ししか思ってないです…」
「…不潔です!」
…
……
「ふー…」
あの後、普通に登校した。
正直何か起こるのではとハラハラしていたが、あれ以降は鈴もアオも楽しそうに話すばかりで、特筆する事はなにも起こらなかった。
そして着くや否や、俺は自分のクラスとは違うクラスへと向かった。不安そうに何処に行くのかと聞いてくるアオに、他のクラスの手伝いをしにいく予定を入れてる旨を伝える。
不安そうになっている姿は心苦しくはあったが、だからといって用事をすっぽかす訳にもいかない。後ろ髪を引かれるようではあったが、そのまま用事へ。
そして用事を済ませ、教室に戻ると。
俺の席の辺りに人だかりがある。当然、俺の席に集まってるわけではない。正確に言うならば、俺の席の横にいる人物に人だかりが出来ているのだ。
席に座ったアオが、色々な人に質問をされたり話しかけられたり…とにかく、わちゃわちゃになっていた。
そして俺は、その顔を見て笑ってしまいそうになる。あの顔は、慣れていない人が見れば冷静に沈着しているようにも見えるが、本当は違う。あれは多分、あわあわと処理が追いついていない顔だ。
まあ悪さはされていないし、見守るつもりでいたが、何にせよ俺も席に着くためにその渦中に向かわなければならない。
「…!」
と、青い目と、目が合う。瞬間アオが立ち上がり。ささっと俺の後ろに隠れた。
「げ」
…人見知りな事はわかってはいた。
いたが、まさかここまでとは。
そして当然、そうなると周りの関心は俺の方向にも向いてくる。さっきまでアオを取り囲んでいたクラスメイトが一気に俺の方に…
いつのまに仲良くなったの?という声。
なんでお前ばかり!という声。
可愛いーと囃し立てるような声。
色々とごちゃごちゃで全部聞き取れない。
目が回りそうだ。
いやいや、わちゃわちゃと。
そうしていると。
ゾッと。背中を、それこそ刃物で刺されたような気すらした。
ばっと、反射的に背後を見る。
廊下に面した扉がある方向だ。
開いたままのドアと、そしてそこに立っているのは生徒会長。朝の仕事や連絡を終えて教室に戻ってきた、といったところだろう。
再びばっと、90度反転して元の方向に顔を向ける。幸いに、その様子を怪訝に思われても、何があったか訊かれることは無かった。
…目が。目が怖かった。本当に一瞬だったけど、見逃さなかった。というか見逃せなかった。見て見ぬふりをしたかったが、叶わない。
「…おや、お早う、今日も可愛いよ。ボクも先程業務を終えて、クラスに戻るのを楽しみにしていたよ。うん?ああ、そうだね」
人混みのいくつかがシドの方へと行く。それに対し、いつもの如く笑顔で応対していく。一挙一足に黄色い悲鳴が上がり、また別の騒がしさが展開されていく。
ふとシドの顔を見る。笑顔は、いつも通り。ああよかった、この分ならばさっきの視線は気のせいだったのだろう。
ああ、よかったよかっーー
「あ、古賀くん。後で」
…はい。
まあ正直、そんな事は無いと分かっていたさ。
…
……
昼休み。
鈴が作ってくれた弁当を手に持ちながら生徒会室へ。明日は俺が当番だ。何を作ってやろうか。冷蔵庫には何が残ってたかな。
「いやはや、随分仲がよろしいみたいじゃないか。これはとても宜しい事だねえ、全く」
…思考の中では半ば現実逃避をしていた。この目の前の状況に、胃が痛くならないように。
俺は椅子に座らせれて、シドはその目の前に立っている。まるで詰問をするように。
「転校初日の時点でどうにも仲良く話していたらしいがね。どうやって仲良くなったのか知りたいなあ。いやはや、参考までにね」
上の空の俺に気付き、ずいと、顔を顔に近づけてくる。あまりにも近い眼と口元にどこか居た堪れないような、何とも言えない恥ずかしさを感じる。
「…なんだい、最近は本当に女の子とばかり仲良くなるんだねキミは?うん?」
「…それ鈴にも言われたな…」
「おやおやボクが居る前で別の子の話題かい!さすが色男様は違うなあ!」
アハハ、と高笑いをされる。怖えよ。もう悪役の笑い方だそれは。
それは思いに留めて、口には出さない。冗談のつもりで言ったにしても、もう何を言っても逆鱗に触れてしまいそうだ。
「…ずるいじゃないか。
あんなに近くてひっついて、ねえ?」
シドが声を潜め、耳元でそう囁く。声は息を吹きかけるような微かなものであり、何か色が付いているような感覚がある。背筋がぞくぞくとした。
「……ずるいなんて言われても。アオが俺に引っ付いてたのは、ただ人見知りだったからで…」
「へえ?本当にそれだけだと?」
「?ああ。なんならシドも色々とめんどくなったら、俺の後ろに隠れてくれてもいいぞ」
「…意地悪め。ボクにそんな事をする勇気はないってのに」
ちらりと横に目をやり、顔を見た。苦虫を噛み潰したように、それでいて笑うような顔をしながら頬を吊り上げて。
そして、頬と頬を擦り合わせて来た。
あまりにも距離が近く、動揺する。
それまでの彼女との距離感では、無い。
「…ねえ、古賀くん。ボクはね。
前キミに言われた事を疑うつもりは無いんだ」
「きっとキミはずっと傍に居てくれるんだろうね。…ボクが、思っているのとは別の形でね」
耳元がぞくぞくとするが、しかしそのままに聞く。この声のトーンは、真剣に物を言っている時のトーン。茶化してはいけない時の彼女だ。
「ねえ。ボクは、キミを…」
…その先の言葉が紡がれる事は無かった。
ガラガラと、少し立て付けの悪くなった横引き戸の扉が開く音に掻き消された。
俺もシドも、そっちを向く。
「こんにちは」
するとそこには、青い眼の少女がいた。
「………おや…」
そろそろ冬先。
空気が冷え込む事は当然だが。
…こんなに寒かったろうか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「アオ?どうしてここに?」
「シュウが何処に行ったのか他の人に聞いたら、生徒会室に居ると教えてくれまして」
「へえ…健気じゃあないか」
そう返すシドの顔をちらっと見てみると、いつもの外行きの顔だ。爽やかで人当たりの良い微笑みを浮かべている。
「そういえば自己紹介が遅れてしまっていたね。ボクは九条史桐。気軽にシドと呼んでくれ」
そうして握手の為に差し出した掌だが、しかしそれは空を切ることになる。アオは怯えたように俺の背後にぴたりと隠れてしまったからだ。
その様子を見て、シドの笑顔が少しだけ崩れる。眼輪筋がピクリと動いた。
「…まあいいや。何の用?勿論、用事が無いなら来るなと言うわけじゃあないけれど。その様子からすると用はあるみたいだしね」
「…ハイ。その…シュウと一緒にご飯を食べたいと思って」
「おや。転校してすぐなのに、もう仲がいいんだね。元から親交を深めてて、彼目当てで転入したのかな?なんて」
「……」
「ハハ。本当に、ひどい人見知りなんだね」
ニコリと笑いかける。その笑みはいつもよりどうもぎこちないように感じた。
「で、実際のところどうなの古賀くん。もしそうだとしたらボクはちょっと怒っちゃうよ」
「もうとっくにキレてるだろうがお前!」
いつものように、じゃれあうような会話をする。すると背後にある影が、ぴくりと動いたような感じがした。
それは当然の如く気のせいじゃなくて、アオが静かに動いていた感触だった。
「あまりシュウの事を怒らないでください」
そしてアオは、そう言った。さっきまでの弱腰に、俺の背後に隠れていた様子からは信じられないような、はっきりとした物言いだった。
へえ。
と、一言息を漏らすように言い。
「ふーん…可愛くないねえ。
キミ、ちょっとだけ嫌いなタイプだよ」
そう、言った。
それを聞いて、俺はびっくりした。絶対に言ったりしないような事だったからだ。というのも、彼女は上辺を取り繕うのがとても上手で、そして敵を作らないよう、優等生の皮をいつも被っている。それこそ俺と二人の時以外は。
だからこんな物言いを。何か敵を作るような発言は、非常に驚くべきものだった。
彼女の中で、何かが変わりつつあるのか?
だとしたら、何がきっかけで?
『奇遇ですね。私も、私の大切な人を理不尽に怒るような人間は少し嫌いです』
アオが英語で、そう言う。急だったこともあり、何と言ったかあまり聞き取れなかったが…
それを受け、シドが笑う。
爬虫類じみた、攻撃的な笑いだった。
「へえ…?『後ろに隠れることしか出来ないかと思ったけれど、ちゃんと話すことは出来るんだね?感心感心』
…きりきりと、胃が痛む。
正直、どうしてこうなってしまったのかもわからないし、実際にシドが変わりつつあるのか、ということもわからない。
ただ一つ分かることは、眼の色が表すように、どうもこの二人は相容れないようだ。
…
……
「……あ、古賀さ…!」
いつもの図書館に、いつものように彼女はいる。テストの返却と共に、その復習をと生徒会を空けているひさめの元に俺は向かう(なんだかいっつも勉強で欠席してるような感じだが、テストだとやむを得ないだけでいつもは本当に真面目に来てくれてるんだ)。
そうして俺に気付いたひさめは、嬉しそうにこっちを見て…瞬間に、固まった。
理由は当然わかっている。
それは、横にいる…
厳密には、手を繋ぎ共に歩いている…
「……仲良くなる速度早すぎません!!?」
…ひさめさん。
図書館ではお静かにお願いします。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「す、すみません。
その…びっくりしちゃって…」
「いや大丈夫…なんなら俺が一番驚いてるんだよ。なんでこうなったんだろうな?」
「…やはり迷惑でしたか?」
「え?ああ違う違う!
急すぎて心が追いついてないだけで、迷惑なんてかかってないぞ、アオ」
「!なら、よかったです」
話している様子をひさめはじっと見つめてくる。急激に仲良くなった様子を驚くのは、まあ当然のことだろうと思った。
だけれど、ひさめの事だからもっところころと表情を変えるかと思っていた。だから、こう無表情にじっと見られると、少し意外というか、少し気まずいような気がする。
「…そ、そうそう。
それでテストの結果はどうだった?」
「…え?あ、ああ。すみません、ぼーっとしてました」
ハッとしたように、こちらに向き直るひさめ。気付けをしたように、さっきの無表情は無くなり、代わりに自慢げな、嬉しそうな顔が浮かぶ。
「ふふ、今回は結構良かったんですよ!
少し古賀さんにも喜んで貰えると思います!」
「お、マジか!?」
「はい、マジですよ!
結果が…これです!」
ばん。と、少しどやっとした顔で答案用紙を出してくる。そうして期待して見た物は…!
…平均60…いや、50後半って所だ。いや当然悪い訳ではない。いつもこれまで赤点スレスレだった事を鑑みると、ものすごい進歩だと言うべきだろう。
いや、実際すごい事だ。
すごい事だけど…
「…あ、あれ?どうしたんですか…?」
「い、いや…なんというか。
…あれだな。もうすこし目標を高くしような」
「あれぇ!?」
そうして驚いたように目を見開く様子は、何処かコミカルで可愛らしい。そしてそんな様子を見て、なんだか少し落ち着いてしまう自分がいた。
「わ、笑わないでくださいよう!
これでも凄く頑張ったんですから!」
「いや、本当に頑張ったのは俺が一番わかってる。笑っちゃったのはその…ひさめって可愛いなって思ってさ」
「かわっ…!
う、嬉しいですけど…うーん…」
狼狽したように、あたふたと顔を赤く染める様子をにこやかに眺める。きりきりと傷んだ昼休みの胃が癒されていくようだ。
「で、そうそう。
今日はちょっと狙いがあってさ。アオに英語を教えてもらうってのはどうかなと思ったんだ」
「へ…アオちゃんにですか?」
急に話を振られて驚くかと思ったが、アオは驚くほどに冷静にこくりと頷く。
「ハイ。恩返しに、少しでもヒサメの役に立てたらと思いまして。足手まといになってしまうでしょうか?」
「い、いやいや!そんな事ないよ!
そっか、それなら…」
ひさめがほっと安心したように胸を撫で下ろす。そしてまた直後に怪訝そうに首を傾げた。
「『恩返し』って?」
「ヒミツ、です」
「え、気になるなあ、それ…
でも正直あまり言いたくない事?」
「…正直。恥ずかしいです」
「そっか。なら変には聞かないよ!その代わり…って言ったら恩着せがましいかな?…その分、僕を助けてもらえると嬉しいな」
ひさめが、少しだけへにゃりとした、可愛らしい笑顔を向ける。釣られるように、アオも少しだけ笑った。その光景は横から見ていて、非常に癒されるものだった。
「よし、それじゃあ早速、間違った問題に取り掛かってみようか。アオ先生もいる事だし、英語から行ってみよう」
「う。は、はい…頑張ります…」
そうして、渋々と言った様子で教材を出していく。どれもシンプルで可愛らしいサイズのものだ。
「そうだ。これからはアオもここで勉強するようにするか?静かで落ち着くんじゃないか?」
「え」
その声が聞こえて来たのは、アオからでは無く、ひさめの方からだった。用意していた筆記用具を手からからりと落とし、少し青ざめたようにまでなっていた。
「?どうした?」
「い、いや!すみません!
いや、大丈夫です。そう、大丈夫…」
大丈夫と自分に言い聞かせるように言う姿はどう見ても、大丈夫そうではなかった。その肩に手を置き、熱を測るように近づいて見る。
「……すみません。
なんでもないんです、なんでも」
そう言い張るばかりだ。
すぐに何事もなかったかのように笑い、そして教材に向かおうとしていたが、やはりと言うべきか集中が足りなくなっているようだった。
「大丈夫ですよ、ヒサメ。
私、ここにはあまり来ないつもりです」
「…ごめん。
気を遣わせるつもりじゃ無かったんだ。
僕は本当に情けないなあ…」
……取っていかないで。
この場所を。この学びの空間を。
ここの、古賀さんとの思い出まで……
「…はっ…」
ふと、居眠りをしてしまっていたらしい。
その中で、俺は綺麗な声を聞いた。その重々しい声は俺の名前を呼び、どろどろと溶けていきそうなほど綺麗な声だった。
それを打ち払うように、頭をがんがんと叩く。
もういい時間だ。二人に、帰りを促す。どうもあまり勉学は励まなかったようだが、仕方のないことでもあるだろう。
…
……
ふう。
と、半ばげんなりとしたように家に帰る。
「お帰りなさい兄さん。
……なんだかお疲れ様です」
「ん?ああ…いや、ありがと」
鈴が見かねて、そう言ってくれる。
今日はなんだか嫌に疲れてしまった。それはアオがどうとか、そういうことでは無い。
『いつもの日常と変わったから』、いつもより疲れているのだ。彼女がこのクラスに来たことによって、これまでルーティン的に暮らしていた日常の一部が変わっていった。
いつかまた、それが日常になるだけかもしれない。大した変化も起こらないかもしれない。
(…まあ、なんにせよ、かな)
そう。なんにせよ、今を生きるだけ。
とりあえずは目の前にある夕飯を食ってしまおう。
勿論、十分に味わいながら。
「どうです?」
「うん、相変わらず美味いな」
「そうですか。
…もっと褒めてもいいですよ」
…
……
きっと。今までのような一日のままでは居られないことを、皆が皆思ったのだ。
新しい日常への変化。新しき人が持ち込む変容。それはきっと、今までとは異なる様子をこの世界に持ってくるのだと。
そう、それは微かに。
そして、確かに皆が思った事。
静かな夜を迎え。それぞれの少女に、少しずつの変化が訪れようとしていた。
それは、良いことか、悪いことか。
分かる瞬間は、少なくとも今では無い。
『ーーあなたの事が好きです』
そう言われる光景は、いつかのその先に…
…
……
「…兄さん!」
は、と目を覚ます。
今日こそ、目覚まし時計のかけ忘れだ。
変な夢をみたような気がした。
だが今の声で、すっかり記憶も吹き飛んでしまった。
(やべ、やべ!)
急いで身嗜みを整えて、髪型も整える。
さあ、今日も一日が始まる。
どんな一日になるだろうか。




