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血腥くなりゆく団欒  作者: 1次落ちのM
3/3

下巻

   ※


 川の音を探しながら、私は徘徊した。川は蛇行しているのか、あると思った所には流れていなかった。夜の山は矢張寒い。川に溺れて濡れたことも原因だろうが、風が吹いて来るだけで、凍てつく思いだ。

 赤い月、緑の雑草、茶色い木々、黒い泥土、全てが厄介な物に見える。私は既に絶望し切っていた。神がいるとするなら、彼は私を如何しようとしているのか。呆れるくらい慈愛の心がない。忠実な僕を見殺しにする無慈悲さだ。

「おや」

 と、私は何か感じた。水の音だ。探していた水の音が聞こえた。意気揚々と駆け出し、音の鳴る方向へ飛んで行った。

 真紅に輝く彼岸花が見えた。

 彼岸花は私が集落に入る前、川の近くに咲いていた。此の辺に川がある証拠だろう。集落に入る前、彼岸花の細長い花弁が触手に見え、何かを捕えているように見えたが、本当にそうだった。私の第六感が、今後起きる集落での不愉快な出来事を暗示していたのかも知れない。

 川を見付けた。周りに草叢はなく、容易に近付くことができた。赤ん坊の声も聞こえない。向こう岸に老婆がいることもない。一息吐いて、腰を下ろした。今迄全力疾走をしてから、山の中を歩き回った疲労が襲って来た。我を忘れていた分、安心した時に溜まったものの多さに気付く。

 疲れて怠くなった頭では何も考えることができない。早く川に沿って下山すべきと分かっていても、体が言うことを聞かない。今迄体験したことが、浮世離れし過ぎており、整理が付いていないのも原因かも知れない。

 対岸にも彼岸花が咲き誇っている。狂い咲いている、と言った方が彼岸花には似合うか。一体私は誰なのか、結局分からない。人なのか。今では人であってほしいという願いもない。集落で人間の死体の醜さや老婆の異様さ、人の存在の虚しさを目にしたからか。

 何時迄も此処で座り込んでいる訳にはいかない。私は山を降りねば。山を降りたら何か分かるだろう。治安を守る義侠心を持つ警察もいる筈だ。記憶を亡くした私のことを、何処かで保護して、身元を明かしてくれるかも知れない。他力本願だが、其れしかできない。

 立ち上がり、下流へ向かって歩き出した。今度こそ寄り道せずに、人里へ行こう。足元に注意し、落ちないように進んだ。



 川が消えた。否、滝になって、水が落ちていた。行く手は崖になっており、先へ進めそうにない。滝が落ちていく先を見下ろすと、真っ暗で奈落の底のよう。どれ程の落差があるのか知れない。辛うじて、下から木々の枝が伸び、葉が付いている様がほんのり見える。黒い空間の中に、先の尖った枝と、微風に翻弄される数枚の黄緑の広葉が微かに見えた。一本の木よりも滝は高いということか。下へ降りるのは容易ではなさそうだ。

 何とか下へ行く方法を見付けなければ。もう此れ以上、集落の近くにいたくなかった。老婆が追い駆けて来そうで、身の毛がよだつ思いだった。恐怖で目が眩んでいるのか、なかなか希望となる下への道は見付けられない。何処を見ても木の根が這った、落ち葉で滑り易くなった急な泥の坂のみ。整備された道を期待した訳ではないが、此れでは滑って転んで怪我する未来が目に見えていた。

 下に降りられそうな所を探していると、多くの茸が生えた大樹を見付けた。木の根の四方八方に、紅の舞茸が生命力豊かに生え揃っていた。生を謳歌している。茸は菌類の筈だ。菌が生の楽しさを享受し、人間は儚く生きる。密生した立派な舞茸の群れと、人が消えて化物が跳梁跋扈する集落を対比させ、少し傷付きもし安堵もした。人間という四肢を持ち、脳味噌を持った生物が茸よりも生命の恩恵を得られていないだなんて、という思いと、別に私が人間ではなくても恐れることはないのだ、という考えが同時に浮かんだ。

 私は遂に、人間は嫌だ、としっかり思うようになった。

 屈み込み多くの茸に向かって、

「人間であることは嫌だな」

 と声にし呟いた。何故そんなことをしたのかは謎だが、私の気持ちを聞いてくれそうな程に舞茸は立派で度量が大きそうだった。

「良いじゃないか。人間でも」

 声が聞こえた。私は、また老婆か、と一瞬慄いたが、声が若く男児のものだった。

「誰だ」

 声を掛けてみると、

「僕だ」

 と、頭上から声が降って来る。舞茸が沢山生えた大樹の枝の上に、何やら人の影が見える。其の人影は、私の立つ所へ、ひょいと一っ飛びで降りて来た。矢張、子供だった。木の葉で作ったような貫頭衣を着た少年。頬を赤らめ、目元はキリリと涼やか。無邪気そうな顔貌だが利発そうな表情をした、幼稚園児程の男児が真夜中の山中に現れた。

「何をくよくよしているんだ」

 男の子は私の目を熟っと見て、明朗な口調で言った。肝が据わっていると見た。

「うん、実は記憶を亡くしていてな。自分が誰なのかも。如何して此処にいるのかも分からないんだ」

 私は遂、本音を喋ってしまう。其れ程、私は弱っていたのかも知れない。だが親身になって聞いてくれてる男児の顔を見て、間違った行動はしていないと悟った。

「此処が如何いう所か知らないのか」

 聞き逃せない言葉。

「え、じゃあ、君は此処が何処なのか分かっているのかい」

 興奮していた。私は遂に、欲していた情報を手に入れられる、と震えていた。

「分かっているよ。勿論」

「教えてくれ。今自分では何も理解ができないんだ。意味の分からない化物の老婆に追われたり、裸体が描かれた布を見たりと気持ち悪い目に遭遇し続けているんだ」

「そりゃあ、今、貴方に教えてあげることも可能だ。だが、其れでは駄目なんだ」

「え、何故」

「単純な理由さ。自分で知った方が良いのだから。そうだ、何だか下山したがっているみたいだね。折角だし、此処の崖の下に行く方法を教えよう」

 私は混乱していた。何故男の子は此処が何処なのかを教えてくれないのか。其れに、私が下山したがっているのを何故見破ったか。彼も物の怪の類だろうから不思議な力を持っているのだろう、と考えられるが、一見普通の子供が人知を超えた能力を備えている為、興味をそそられた。

「君は一体何者か」

「僕は木ノ子と言う。まあ、妖怪の一種だと見てくれて構わない」

「では、此の舞茸とは」

「嗚呼、舞茸は僕の前身だね。彼等もいずれ子供の姿に変わるだろう。歳を取らない永遠の子供さ」

 茸の妖怪だったのか。だから、舞茸も生命力溢れているように見えたのか、と納得した。

 私は木ノ子から、強固な意志があると見た。彼に対して食い下がって、此処の正体を聞いても徒労に終わりそうだった。何となくそんな気がした。

「分かった。下山したら何かが分かるかも知れないんだね」

「其れは勿論、貴方次第としか」

「分かった。崖の下への行き方を教えてくれ」

 私は木ノ子の背中に付いて行った。急な坂道だったが、足元に物がなく、歩き易かった。真っ暗で彼の背中以外は何も見えない。黒い背景に木の葉の服を着た男の子が軽やかな足取りで進んで行く。

「此の先は如何なっているんだ」

 私は木ノ子に、下山する迄の道程の厳しさを尋ねた。屹度、木々と岩が多く不安定な道が続くことだろう。

「とても容易いさ」

 と、木ノ子は背中を向けたまま言った。

「容易いって、本当か」

「うん、本当だとも。暫く行けば人間たちが整備した山道に出る。其の道迄行ってしまえば、後は道に迷う心配もなく、厳しい足場も何もありはしない。着いたぞ」

 知らぬ間に、私は崖を降り、滝の下に出ていた。大量の水が水面を打つ音が聞こえる。何故歩いている時は気付かなかったのか、滝と水の音が忽然と姿を現わしたみたいだ。

「じゃあ、頑張ってね」

 木ノ子は元いた場所に戻るのか、坂を登って行った。化物も種々雑多なようだ。



 私は滝を見上げてみた。赤い下弦の月が堂々と光り輝いていた。何時迄笑っているつもりか。集落を逃れた安心からか、凄絶に綺麗に見えた。轟々と鳴る水の上で、全てを見て知ったかのような顔をしたルビー色の口のような月が憎くもあったが、羨ましくもあった。私も上から全てを観察し、物事の本質を洞察したい。こんな苦労はしなくて済むだろうから。

 轟々。滝の音が凄まじい。こんなにも水の量が多かったのか。私の太腿辺り迄の深さの川でも此れ程に騒々しいのか。滝が落ちた先の水の溜まりに視線を移した。

 何か動いた。

 目の前は暗闇だ。滝の落ちる音と、仄かに水の動きが見えるだけ。だが、何者かが水の溜まりにいる気配が察知できた。

「誰だ」

 私は呼び掛けてみた。場合に依っては逃げなければならない。早めに姿を確認しておきたい。だが、返答はない。また物の怪か、と辟易した。人間はいないのか。妖怪の住む山なのか。

 水がバシャバシャ、此方に近付いて来る音がする。水で素早く足を動かせないので、大分ゆっくりだ。ザブリ、ザブリ。月光が差す所迄進んで来た。黒縁眼鏡を掛けた神経質そうな男がいた。丈の長い白衣を着、中は同じく白い肌着。下も白い袴。一風変わった格好ではあったが、先程迄会って来た妖怪よりかは話が通じそうだった。よく見ると、顔も真っ白だった。指先で触れただけでも消え去りそうな程、儚い人物に見えた。

 男は私の目の前迄来た。全身真っ白で、頭髪と目、眼鏡だけが黒々と目立つ。



「何でしょうか」

 男は冷徹そうな抑揚のない声だった。表情は変えず、顔色も白いまま。川の水が冷たくて顔色が悪いだけか。元から顔色の悪い人なのか。

「何故態々水の中で立っていたのか気になりましてね」

 私は正直に気になったことを口にした。取り敢えず話が通じる相手で良かった、と安心した。老婆のような気狂いではないなら良い。運が良ければ、木ノ子のように私を助けてくれるかも知れない。

白衣の男は私に向かって問いかけて来た。

「貴方は私のことを如何見ていますか」

「え」

 質問した人から、質問されたので狼狽えた。如何見ていると言われても、今初めて会った者のことなど分かる筈がない。

「貴方は私のことを恨んでいないのですか」

「貴方のことを恨む理由なんてないですよ」

 白衣の男が何を心配しているのか読めなかった。彼は何かに怯えているのか。私が悪印象を抱いていないか尋ねた。

「如何して、そのようなことが気になるのでしょうか。私には理解できません」

「嗚呼、そうですか。知らないのですね」

 白衣の男は意味深な言葉を吐いた。

「知らない?」

「ええ、貴方は私が何をした人なのか知らないんでしょう」

「はい。今会ったばかりじゃないですか」

「実は前にも会っているんです」

 記憶を失う以前の話だろうか。記憶を亡くしたことを伝えようとすると、

「まあ、今の貴方には覚えていないことでしょうね」

 と、全ての真実を知っているようなことを言った。

「私の記憶がないことを知っているのですか」

 男の表情を気にしながら尋ねた。

「ええ、知ってますとも。何せ失った現場に居合わせていたんですから」

 私は聞き逃せなかった。衝撃的なことを聞いた。此の男は私が記憶を失う直接的な原因を知っており、其の場を目撃していた。

「ちょっと、其れは本当ですか」

 私は男の白衣の肩を掴んで、全てを聞こうとした。

「ええ、当然。私は医者ですから」

「医者ですか」

「はい、此処の上にある集落にも時々訪ねに行きます」

 私は屋敷に落ちていた白衣のことを思い出した。此の男はあの屋敷に住んでいたのだろう。だが何をしにあの場所に。其れに、医者であることと、私の記憶喪失に関連があるのか。

 それに、老婆が殺人鬼と一緒に住んでいる、と言っていたことも思い出した。

「私は数多くの人間を殺してきました」

 白衣の男は勝手に語り始めた。老婆の言っていたことは本当だったようだ。

「私は医者です。まさか自分が人を殺して良心の呵責に苦しめられるなんて、成った当初は思っていませんでした。当然でしょう。人命を軽んじたくて医者になった馬鹿は此の世にはいないでしょう。私はいないと信じてます」

 白衣の男は休みなく、続きを喋った。

「私は小心者です。今迄殺した人が、私に対して何を思うのか、凄く気になってしまいます。私の顔、白いでしょう」

「はい」

「別に寒さに苦しんでる訳でも、元が色白でもないんです。殺しが立て込んで来るようになってから、体調がずっと優れないんです。望まない殺人が私の生命を削り取っていくのです」

 何だか気の毒になった。白衣の男は不幸な妖怪だ。彼は人命を救う為に、医者になったのに、多くの殺人の片棒を担がされているのだろうか。

「あの集落には、私が殺した者が沢山います。奇妙な集落だったでしょう。何故なら、死者の為の集落なんですから。生きた人は入れないんです」

「生きた人は入れない?」

 おかしい。私は入れたではないか。彼の話が正しいとすれば、私は。

「はい、あの集落は死者が住み着くのです」

「でも、鍋や家の陰に死体がありました。死者の住処に、本物の死があるのはおかしいじゃないですか」

 疑問だった。死者が生きて、住んでいるなら、死の概念自体が存在しない筈だ。

「死者は誰でも、新たな生を得ることができる訳ではない」

「如何いうことですか」

「貴方はそういう意味では運が良いのかもですね」

「だから、如何いうことなんですか」

 遂、語気を荒くしてしまう。白衣の男は及び腰になって、脅えて見せる。

「すみませんすみません。話に夢中になっていました。許して下さい」

 過剰な謝罪が続く。

「謝りの言葉は良いですから、死者は誰でも生を得ることができない、の真意を教えて下さい」

「はい。あそこには死んだ後も姿を持つ者と、姿を持たない、或は死体として現れる者がいます。前者が生を得た者。後者は残念ながら生を得られなかった者」

 淡々と説明を開始した。流石は医者。聞き取り易い声で、ゆっくり話してくれる。

「貴方は前者に属します。あの集落の中では、鬼の老婆と同種ですね。彼女は生の象徴でもある明るい火を熾したりし、肉なども食しています」

「鬼の老婆ですか」

 幼児の頭にしゃぶりつく、角の生えた老婆の姿を思い出した。あの者と私は同種なのか。少し嫌な気分になった。

「後者は御霊として生活する川赤子や、生を得られず姿も変えさせてくれなかった死体。其の死体を啄み掃除する鴉。彼等は生を得られなかった者です。或は畜生の道へと墜ちた者。簡単に分類すると、火を焚くことも叶わない生物です」

「途中、木ノ子と名乗る少年と会ったのですが」

「彼は貴方や老婆と同種です」

 何だか全貌の解明に着実に近付いている感覚がある。今迄の不気味さの正体は、死が発するオーラだったのか。

「其処でです」

 白衣の男は急に大きな声を出し、

「貴方にお願いがあるのです」

 と、今度は白衣の男が私の肩を掴んだ。何をお願いしたいのか。

「私を殺してほしいんです」

「はあ」

 何を言っているのか。此の男は集落の屋敷に入れたのだから死者ではないのか。其れとも此の医者は、若しかして。

 私は二つ返事で快諾することにした。此れで彼の悔恨が消え、浮かばれるのであれば私は引き受けてあげよう。

私は一つの可能性に気付き、彼を恨み始めてない訳ではない。

だが、彼だって望んで私を殺したのではない。其の理解だけはしてあげなければ。



「では、此方の草陰の方に来てくれませんか」

 私は白衣の男を誘導した。川の中で殺したくなかった。血液が人里へ流れるのは、私的に気分の良いものではなかった。どうせなら、此の場で血液も肉体も何もかも、処理してほしかった。自然が風化させるか、動物が食すか分からぬが。

 草陰に入ると、白衣の男は私に包丁の柄の部分を向けて来た。此れで刺し殺せという指示だろう。

「覚悟はできてますか」

 確認は怠らない。

「はい。何時でも、殺して下さい。そして、許して下さい」

 私は彼の顔面の真中に刃物をぶっ刺した。眉間から血が噴き出す。男は仰向けに倒れる。黒縁眼鏡は地面に落ち、白い骨みたいな顔が露わになった。

 私は男の顔を思い切って、滅多刺しにした。彼の顔は原型を留めない程にグチャグチャになった。肉片が落ち、血がダラリ、ドボリ。眼球が液体のように流れ、脳味噌が零れ出て来、何か白い物も此れでもかと言う程出て来た。

 私は何故か男の下腹部にも刃物を刺した。男を性的不能者とし、死後に生を得ても苦しみを味合わせたかった。怒りの原因は、私のことを殺しただけではない。多くの私のような者の思いをぶつけたのだ。

確かに此の男だけの決断で殺されたのではないが、直接手を下したのは、間違いなく此の男。其れに私にとっては、怨恨をぶつける対象は此の男しかいないのだ。何て狂った世界だろう。何て嫌な世界だろう。記憶を失って喜ぶべきかも知れない。

 彼の着ている真っ白な袴に真っ赤な鮮血が滲み出る。男は既に死んでいるか、気を失っている。好きなだけ痛めつけられる。私は此の男に断罪する義務がある。刃物を何度も股間に突き刺し、袴の中を見ずに一物をエグい状態にした。

 暫くして、私の頭は冷静さを取り戻した。目の前の草陰に、顔と股間の原型を留めなくなった男が倒れていた。布に描かれてた男女の裸体と同じだ。

「あ」

 と、私は言った。気付いたのだ、あの布にあの絵を描かれた者が何者か。而も何故男女なのかも。何故嬰児の頭部の肉から沸いた蛆虫が男女に纏わりつくかも分かり始めた。

 医者に怒りを覚えていたのは、矢張、私だけではなかったのだ。自分が誰だか分からずに彷徨い苦しんでいるのも私だけではない。鍋の中で煮えていたのは。

「そういうことなのか」

 私は妙に納得した。私は此処にいるべき者なのかも知れない。否、絶対にそうなのだろう。

 私は集落に戻ろうと考えた。私の中にある自我が新たな私を手に入れる迄、此方で待機してれば良いのかも知れない。今、人里に向かっても私は不完全な存在でしかない。

 私は坂を登った。

 では、どのくらい長い間、此処にいれば良いのか。疑問が残る。ずっと此処にいるのではないだろう。考え事をしながら、川の音を聞き集落に戻ろうとした。



「あれ」

 不図、川の音が不自然なことに気付いた。せせらぐような音が聞こえない。暗くてよく見えないが、何だか様子が変わったようだ。私はもう一度崖の下に降りて、川を見てみようと決めた。先程、白衣の男が漬かっていた水の溜まりの所に戻った。

 変だ。滝が落ちていた筈なのに、水が落ちる音が聞こえない。川の水が干上がってなくなったか。そんなことが起きる筈がない。日照りが発生した訳でもないのだから。

 私は一歩ずつ踏み出してみると、水に触れた。池がある。水が干上がったのではない。流れが堰き止められている。

 地震が起きた。山が激しく揺れている。地震にしては震え方が小刻みだ。地震ではないようだ。何か大きな物が移動しているような振動だ。

 水が堰を切ったように勢いよく流れて来た。今迄聞こえなかった水の流れる音が、地響きのような大きな音に変化し、大量の水と共に聞こえる。私は茫然と立っていたら、水に呑まれた。頭迄、水を被り、溺れ苦しんだ。何が起きたのか。

 私は泥濘の中、横たわっていた。何時の間にか大量の水はなくなっていた。私は水の勢いに依って、体を飛ばされていたようだ。立っていた所から大分遠くで倒れていた。死んだかと思った。

仰向けになって倒れ、中空の一角に掲げられている赤い下弦の月を眺めた。赤い光が差し、下界にある物の輪郭を描き出していた。滝のあった方を見た。水の流れは再び止まったようだ。滝らしき姿も見えない。何か人の手に依って整備された施設のようなものが見える。二本のコースターが崖の上から降りて来て、上にはゲートのような戸が見える。あの戸が開くと水が流れる仕組みか。では、上には大量の水が溜まっているということか。

 暫時見ていると、ゲートが開いて、勢い良く水が流れ出て来た。全て流し去る程に水勢は強烈で、自然が作り出したものとは、明らかに異なっていた。自然の川が人工のダムになっていた。

 私は水が落ちてくる所へ歩いて行った。案の定、私は水を被って再び溺れた。水に全身を包まれている時が、至極気持ち良かった。真っ白な真綿に包まれているかのようで、眠りに就けそうだった。

 溺れて呼吸ができなくなることを承知で、水の中に入ったので、苦しいことは何もなかった。黒い空間の中で、私は浮いている。此の感覚が懐かしかった。だから、態々自分から水の中に入ったのだろう。水の中で浮かんでいた感覚が、体の何処かに残っており、体感したかったのだろう。こうしていると、新たな肉体を得られそうな気がする。

だが、水に包まれていると、苦しかったり、物悲しい気持ちになったりした。逆に死を経験しているようだった。私は自分がどうなるのか、さっぱり分からない。だが私は死に、集落へとまた戻るのかも、という気がした。死んだ者が行く場所なのだから。私は肉体を手にし、生まれようとしたのに、直ぐに死ぬ運命だった。全ては此の水を流す人工の施設のせい。


   ※


「やっと終わったか」

 父親はホッとしたようだ。寛ぐのは未だ早いのに、と思いながら私は父の顔を見詰めていた。

「で、如何して、此の夢の話をしたの」

 母親は冷静に尋ねた。

「実は、結婚を知らせた後、直ぐに嫁が身籠っていたんだ」

「え、そうなのか。お目出度う」

 父親は驚き、急に身を乗り出した。母親は表情を変えず、

「じゃあ、もう生まれている筈よね」

 と、言ってきた。結婚したのが二年前。生まれて当然だ。

「否、子供は死産に終わった」

 私は全てを伝える。子供は子宮内で死んだ。

「母体も死んだ」

 両親は何も言わなくなった。夢で見た新聞の記事の通りだ。自分たちの場合は、子宮内から内容物を抜き取る手術をした際に、母体は亡くなった。何が理由なのか分からなかった。

「医者には問い詰めたよ」

 私は当時の状況を思い出しながら喋る。真夜中の病院の庭で、丈の長い白衣を着た男と二人きりだった。

「医者は言い訳ばかりしてやがった。何が死神だ。ふざけるな。自分が唯の藪医者であることを認めなかった」

 私は茶色の大きめな旅行鞄を引き寄せた。

「其処で、やってしまったんだ」

「まさか」

 両親は二人共気付いたみたいだ。

「うん」

 旅行用鞄のファスナーを開けた。中には高機能のゴミ袋を何重にも重ねて包んだ物体が。

「中は見せなくて良い」

 父親は目を伏せながら言った。両親二人共、ドン引きしていた。自分の息子が殺人。而も、猟奇的な殺人だ。

「何でだろう。人を殺した時に思い出したんだ、此処で過した十代の時の記憶を。あんなに幼かった少年だった自分が、殺人を犯すだなんて、考えたくなくてね。少年時代に戻りたかったんだ。時間遡行願望が芽生えたんだな」

 私は一旦、言葉を止めた。目の前の両親が事態を処理しきれていないようだ。

「此れも一つの郷愁だろうね。故郷に対する執着だ。其れが何時の間にか、激化した。少年に戻りたいから、赤ん坊に戻りたいへ。お腹の中に戻りたい。私自身が嬰児になって死産し、生まれる筈だった子と、体を入れ替えたいとも考えた。懐かしい気持ちは、限度を知らない。幾らでも、際限なく、自分を過去に置きたくなり、別の願望にも波及する。其れが夢に表れたんだ。そして、赤ん坊となった私は夢でも恨みを晴らす」

「じゃあ、そのことを喋る為に、長々と夢の話をしたのか」

 母親は信じられない、と言いたげな顔をして言った。

「勿論、でも不可思議な世界で、面白かっただろう。人間、一つの感情を極める所迄極めると、其の一つの感情と、其れに附随する物事を無意識下で表現したくなるんだな」

 私はビニールに包まれた生首を鞄に仕舞って、

「私は警察に行くべきかな」

 と、溌剌に尋ねた。もう、如何なっても良い。私は山から降りたのだ。そして、自分の正体も分かった。此れ以上、此の世の中にいる必要などない。

 両親は何も言わないので、私は痺れを切らし、外へ駆け出した。靴も履かずに田舎の夜を駆け出した。強烈な郷愁を覚え、其れを満たそうとする行動をした時、自分の体に爆発する程の元気が漲って来た。其の元気は子供の頃のエネルギーか、其れとも、自暴自棄というものか。

「嗚呼、助けてくれえ。辛い。辛いよお」

 私は叫びながら、田舎に聳え立つ西の方の山へ向かった。其処には沈んだ集落があるようだ。もう二度と、コッチの人里の世界には戻りたくない。私は死者が蠢く集落に安住していたい。

 此れで、私は夢でも現実でも存在を消滅させ、人間の源に戻れるかも知れなくなった。新たな人生では、完全無欠な生活を送りたい。


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