中巻
屋敷の中は、何も変化はなかった。二部屋あり、畳と囲炉裏の部屋、白衣以外の物がなく伽藍堂の部屋。女も屋敷に入って来る気配。私は振り向き、
「あのう。此処の集落は一体、何処なのでしょうか」
と、尋ねた。先ずは集落の正体が知りたい。
「此処は行き止まりよ」
女は答える。綿毛を掴むように意味を捕らえられない。掴もうとすればするほど、ヒラリと躱される。
「行き止まりですか」
何のことか分からず、鸚鵡返ししかできない。行き止まりとは何を意味したのか。何処へ向かう道の途中にある、行き止まりなのか。
火の光が、女の姿を照らし出した。猩々緋の小袖には、黄色い斑模様が拵えられていた。月光だけでは判別できなかった色だ。女の髪の毛も真っ黒ではなく、青味掛かった黒で、乾燥して広がり黒黴のよう。
女は老婆だった。顔中に茶色い染み、皺、雀斑を作り、古惚けたような輪郭。目元は細いが、目尻は皺に塗れ、下がっていた。過去に捨て去ったのか愛嬌など一切なく、着物のみ田舎の毛虫のような派手な色合いをしていた。橙色の火の粉が囲炉裏から飛び、私と老婆の間の畳で小さく燃える。
「行き止まりとは如何いうことかなのですか」
私は未だ納得していない。其れを聞いた老婆は、真っ黒に塗った歯を露わにしてニヤリと嗤い、
「お前の道は、此処で終わりさ」
と、楽しそうに答えた。
「では、何で行き止まりに此の集落が存在するのですか」
「生命の神秘を覚えるかな、と」
「何の話ですか。神秘が何なんですか」
私には老婆の言っている意味は分からない。だが、彼女しか聞く相手がいない。
「あの、実は記憶を亡くしてしまいまして」
と、相談することに決めた。
「自分が何者なのかが分からないのです。如何か、私は人間なのかそうではないのかだけでも教えて下さい」
老婆は私のことを見詰め、黒い上下の歯を舌でヌルりと一周舐め、爪に黒い塵が挟まった人差し指で指してきた。
「お前は人間に成ろうとしているだけだ」
と、言って口を閉じ、羽化する寸前の蛹のように口元をもごもごし、だんまりを決め込んだ。私は人間ではないことが分かった。では、私は何者か。
黙った老婆は囲炉裏のない、白衣が落ちていた方の部屋に入って行った。待っていると、老婆は片手に何か持って、此方に戻って来た。また新聞紙だ。先程見付けた新聞と同じ新聞社のものらしい。白黒の写真が目立ち、狂気を感じる。
老婆は私に向かって新聞紙を突き出した。此れを読め、ということか。私は首を傾げながら、老婆から受け取った新聞に目を通す。二つの出来事の記事が書かれていた。一つは先祖の墓を放置し、苔塗れの緑に染まった墓石が増えたこと。もう一つは或る集落がダムの建設の為に、住民を強制的に追い出されたことが書かれていた。
私は二つの記事を読んでみる。此処の正体か私が何者かを明かす、手掛かりがあるかも知れない。
(ご先祖様が蔑ろに。
右の写真を見て下さい。此れは墓石です。信じられないでしょう、苔塗れで本体が見えません。ご先祖様の墓の手入れができない若者が急増していると、雲徳寺の僧侶、怪珍さんは言う。事実、お寺などで管理されてない墓地なら、誰かが訪れているところを目撃したことがない。一体、我々国民共は、先祖様のことを如何見ているのか。人間の進化前の猿と同じだとでも考えているのか。甚だ疑問だ。普段からお墓の管理をし、読経供養を行っている怪珍さんは、是非ご自分の先祖には会いに来てもらいたい、と述べている。先祖様からしてみれば、子孫たちが上手くやっていけてるか、気になるものだろう。若し子孫に見捨てられるようなことがあれば、無用な怒りを抱いてもおかしくない)
写真には、苔に覆われた墓石が映されている。碌に管理されていない所の墓石だろう。凹凸のない墓石の周りに恐らく緑の粒が大量に発生している。
記事はもう一つある。
(ダム建設に於いて、多くの名もなき集落が水の底へ。
経済産業省は、今年の二月に入ってから、水力発電の再評価をするようになった。理由は、一見何も人類にとっては損害がないように見えるからだろう。ダムを作ったところで、何か悪影響があると言うのか、という考え方だ。だが、我々の知らぬところでは確実に被害を受けている者たちがいる。山中に住居を構え、長年暮らしてきた住民たちだ。
ダムを作ることは、大量の水を一遍に流すことだ。自然とダムは規模が大きくなる。ダム建設に広大な敷地を要するので、集落は邪魔になり、住民は立ち退きを強要される。だが、彼等は容易に納得しない。彼等の中には死んでも此の土地を離れない、と強硬な姿勢を取る者もいる。だが、国は待ってくれない。ダムは設置され、集落は水の中へと沈んで行った。残った住民たちは、茅葺き屋根の家と一緒に生涯に幕を閉じた。此の事実が問題視されることなく、今迄時間が過ぎて来た。だが、人命を軽んじる国の行為は、看過すべきことではない。今一度、彼等の取った行動を、再考するべきだ)
私は両方の記事を読み終えた。明るみに出ない現実は想像以上に無情なのかも知れない。其の場で座り込み、凍結した。立っている為の気力と体力が消耗され尽くした。枯れ葉が落ちるように、鷹揚に見える程ゆったりと畳の上に腰を下ろした。
「貴女は何故、此の新聞を渡してきたのですか」
と、私は老婆に尋ねる。老婆が何者かは分からないが、何か伝えたいことがあるのだろう。
「お前は、幸福かも知れないな」
老婆は私の質問を無視する。
「如何してですか」
「お前は生を得ることなく、生を放棄させられた。何時の間にか、死の苦味を思い知ることなく此処にいる」
「死は苦いのでしょうか」
「嗚呼、苦いさ。死体を味わうと苦いのだから」
と言って、老婆は囲炉裏の方に近寄って来た。老婆は平気そうな顔で、湯気の立つ鍋の蓋を素手で取り除いた。中には赤黒い汁に浸った、白、黄色、茶褐色、桃色、赤紫の艶やかな物体が入って、煮込まれていた。
「其れは何ですか」
「食うか」
老婆は素手で、鍋の中の一つの物体を取り出した。赤黒い煮汁は水飴のように糸を引き、物体に絡み付く。刺激臭が鼻を突いた。腐臭のような、我慢ならない臭いが老婆の持っている物から漂う。
「其れは一体何ですか」
鼻を摘まみながら尋ねた。
「嬰児の頭部」
見ると、物体には穴が塞がった跡があった。其れは目や口か。赤い粘液に包まれた丸い赤子の頭部を老婆は一噛み。林檎飴を食べているようだ。断面は煉獄のように真っ赤だ。血腥い臭いが直接鼻を刺激するので、私は必死で鼻を抑えた。
「食うか。嬰児は大人と違って甘い」
老婆は欠けた頭部を、私の目の前に差し出して来た。はっきりと未完成の鼻の形を見ることになった。
「要りません」
私は遂に嘔吐した。何も食べていないので、黄土色の液体が、流れ出て来た。
「同族が食われているのは我慢ならねえのか」
老婆は、残りの頭部も食べ、完食した。黒い歯でよく咀嚼し、噛み潰した。
私は一つの疑問が思い浮かんだ。
「先の頭の持ち主である、赤ん坊は何処にいた子なのでしょうか」
死骸があるなら、此処に人間がいた証拠ではないか。唯の赤ん坊でも良い。老婆以外の、一人の歴とした人間に会いたかった。
「此の赤子たちは、行き止まりに迷い込んで来た者たちの骸さ」
「え」
赤子がこんな辺鄙な集落に迷い込んで来ることがあるだろうか。父母と一緒だったのか。では、父母は何処に。赤子と一緒に殺されたか。其れとも、私のように最初からいないか。
老婆は私の様子を見て満足そうだ。彼女は立ち上がり、鍋に蓋をした。中身を知った今となっては、鍋が妖怪に見えた。
「此方に来るか」
老婆は戸を開け、外に出ようとしたので付いて行くことにした。今逃げなければ、私も鍋の具にされる、と警戒する気もあったが、怖いもの見たさで老婆に付いて行った。
※
「何だか支離滅裂な話だなあ」
父親は酒を呷りながら、我慢ならないようで、声を発した。父にしてみれば我慢した方だろう。
「まあ、そう言わずに。夢だから」
「ちょいちょい出て来る新聞は何なんだ」
父は案外、しっかり聞いているようだ。
「さあ、よく分からないな」
私は正直に答える。
「そういえば、最近此処の近くの山地にあった集落が一つなくなったって話あったわよ。其処は今、ダムの建設が進んでいるって」
と、母が言う。
「え、何処の?」
「確か、此処から西へ行った所の山の中にあるみたいね」
「イイから続き話せって」
父が苛立ったので、続きを喋る。
※
私が屋敷から外へ、一歩踏み出そうとすると、三和土らしき所に、もう一枚新聞紙を見付けた。見出しを見ると、先のとは違う内容だった。今度は殺人事件の記事のようだ。
私は拾い、読み始めた。老婆は待ってくれているようだった。旋毛に視線を感じていた。
(十歳の小学生女児、母親を殴打し、殺害する。
昨日、〇〇県××市で、一件の通報があった。通報者によると、アパートの隣室から強烈な腐臭がするということだ。警察官が駆け付けると、中には田沼美智子さん(四十六)が、後頭部から大量に流血し、死亡していたところが見付かった。美智子さんは、愛佳さんという十歳になる小学四年生の娘と二人暮らしだ。警察は、部屋に荒らされた形跡がない為、娘が怪しいと睨み、娘の愛佳さんを捜索することに決めた。愛佳さんは翌日の午後二時に川沿いの草叢で発見された。彼女は大量に川の水を飲み、溺れて死亡していた。彼女の荷物から美智子さんを殺したのは自分だと自白する文章が見付かった。愛佳さんは母を殺した後に、自殺したと最初は警察も考えていた。
しかし、事実はそうでなかった。愛佳さんの死去したニュースを見て、美智子さんの母、つまり愛佳さんの祖母である田沼明子さんは自分が愛佳さんを殺したと自首した。愛佳さんは、母を殺した後、明子さんの自宅を訪ねている。其の時に全てを知った明子さんは、絶望し、激しい怒りに駆られ、愛佳さんを風呂場で沈めるといった拷問を行った。殺害の目的はなかったが、結果は最悪で、愛佳さんは死亡。明子さんは、川で溺れたように見せかける為、川沿いの草叢に放置した、ということだ。
最近、親が子に暴力を振るう話をよく聞くようになったが、逆も然りだ。そして、今回の件では、祖母から孫に向けての暴力が問題となった。社会は寛容という気持ちを国民から奪っていったのかも知れない)
私は再び胸糞悪くなった。何故集落に落ちている新聞には嫌な記事しか載っていないのだろうか。読んでいて気が塞ぐものばかりだ。読み手も気分が悪くなることを分かった上でも、気になってしまうのか。
新聞の記事を読み終え、顔を上げると、先程いた老婆がいなくなっていた。視線を感じないので、おかしいと思っていたが、本当にいなくなっていたとは。相変わらず足音は聞こえなかった。
私は振り返って、部屋の中の様子を眺めて見た。老婆の色彩豊かな姿態は見えない。私の吐いた嘔吐物だけが火の光に照らされ、汚くも美しく光っていた。
老婆がいないか二つの部屋を確認したが、何方にもいなかった。老婆に対して怒りが込み上げて来た。気味の悪い肉塊が詰まった鍋を見せ、気分を悪くさせておいて、何も言わずに逃げるのか。其れに、肝心なことは何も教えてくれなかった。行き止まりだ、とか言って此処が何処かすらも知れなかった。あの老婆に会って得したことは一つもない。
「何処へ行ったのか。隠れている訳ではないのか」
声を掛けるも、梨の礫。湿潤な空気の中で、私の声がモワリモワリと反響する。こんな境遇にあることを慮ってくれない老婆だけでなく、何もできない自分と運命にも沸々と怒りが生じた。
「では、自分は一生此のままなのか。永遠に徘徊し続けなければならぬのか」
此の怒りをどのように処理すれば良いか。自らの運命に対して怒ることは難しい。運は如何しようもできないものである一方で、自分が引き寄せたものでもある微妙なものだから。
私は八つ当たりで、畳の床を殴る為に其の場に腰を下ろした。眼前には先程、私が吐いた嘔吐物の溜まり。何時の間にやら、嘔吐物の中に白い蛆虫が蠢いていた。ゲロが生を得て活動しているように見えた。黄色い液体から、細かい蟲が誕生しているようにも見えた。
私も此の蟲たちみたいだ。不意に感情移入でもしたか、自身の怒りを和らげる為か、蟲ケラと自分を同一視し悲哀が溜まったプールに自ら飛び込んだ。悲しみの白桃色の水に身を沈めた時、沈鬱な気分が頭のテッペン迄覆った。此のまま鬱の中で自尊心を窒息させ消し去れたら、どれ程楽か。もう思い悩まなくて済む。一生自分のことを蛆虫扱いしていれば良いのだから。自分のアイデンティティさえなければ、一生無人の集落に住み着き、死に、鍋の中に放り込まれれば良い。私が未だ、自分の価値に固執しているのが悪い。
私は鍋に目線を向けた。鍋の中から蛆虫が沸いて来ているようだ。湯気は上へ、蛆は下へと、湧き出て来る。何匹もの蛆虫が火の中へ投身自殺し、自分の体を溶かしていた。彼等の命の脆さを、何となく見続けた。
頭を振って我に帰ろうと努めた。此のままでは放心し自分を見失いそうだった。アイデンティティを手放せば、と仮定をしたが、矢張実現する訳にはいかない。自分や老婆に対して憤怒の気持ちを抱く私のままでいなければ。
怒りの炎を再燃させ気を取り直し立ち上がった。自分を律しなければ、此処に居座ってしまうかも知れない。生物は各々、生きる場所に順応した生態を持つことになる。ずっと此処にいれば私は独りで薄暗い集落に住むのに適した体になるのだろう。其れだけは避けねば。
私は戸を開け外へ飛び出た。老婆が開けた記憶があったような気がしたが、戸はしっかり閉まっていた。
再び屋敷から外に出て老婆の姿を探し出す為、家と家の隙間を全て確認した。だが、人の姿など現れる気配は毛頭感じられなかった。其の代わりか、別の生物が赤い空を滑空していた。鴉だ。黒い鴉が至る所に姿を現わした。屋敷に入る前は一羽の鳥も、一片の羽毛も見なかったのに。
此の鴉たちは一体何なのか。何を目的に集落に集まって来たのか。
一羽の鴉に狙いを絞り、追跡することにした。一羽だけ追っても、大勢の鴉が集まる場所に辿り着ける筈。私の見守る鴉は茅葺き屋根の上に留まっていたが、羽を大きく広げ、空中に飛び立った。赤い月の夜に、黒い飛翔体が浮かぶ。私は目を離すことなく瞬きも控えて彼の後に付いて行った。
喧しい鳴き声が近くから響いて来た。此れは数羽ではない。数え切れない程の鴉が押し競饅頭していることだろう。鳴き声が近くなるにつれ、又もや腐臭が漂って来た。私の鼻が臭いを記憶しており、勝手に思い出しているだけか。否、そんなことではない。現実の臭いを鼻が感知している。何故なら、先程の饐えた悪臭よりも、より強烈な臭いだからだ。記憶の臭いならば、前の臭いを上回ることはないが、今確実に前以上に嫌な臭いが辺りに蔓延している。
鴉は滑降し家の陰に入った。私も其の場に行ってみる。其処は多くの鴉が集まって、黒一色、彼等は何かを蔽っているのか、啄んでいるのか。身を乗り出してよく見た。鴉と鴉の身の隙間から、手先と足先の指が覗いていた。人だ。寝転がっている人に鴉が大量に群がっている。
「まさか」
と、私は独り言ちた。最悪な予感がした。腐った臭いと、人の姿。先の鍋の中には骸になった赤ん坊が詰めてあった。老婆曰く、赤子よりも大人の方が嫌な味がする。
ならば、此処に横たわる人は。
私は一歩踏み込み鴉の群れに近寄った。人間の顔が見えた。真っ白に色を失った大人の男が、口をだらしなく開け、目をひん剥いていた。黒々と生えた口髭が濃く、死体の血の気のなさと相反し、余計に死を際立たせていた。
私は思わず逃げ出した。無理だった。死体の男と目が合ったようで呪われたような気になった。黒い瞳孔を一定時間見詰めると、彼と中身が入れ替わりそう。私が骸に入り、彼が生きた私の身を入手する。荒唐無稽な話だ。だが何故か、あり得ない話ではない気がした。他人の死が生きた者に恐怖を与える。
しかし、彼の存在意義が分からない。何故、彼は大量の鴉と共に此処にやって来たのか。何かを暗示しているのか。其れとも、何も意味していないのか。何もない気がして、私は走るのを止めた。何故、生きていない人物に恐怖を感じなければならないのか。彼は起き上がり追いかけて、私に危害を加える訳でもない。では、如何して逃げたのか。周りにいる夥しい数の鴉が恐かったのか。鴉は神の使いでもある良き鳥でもある筈で、八咫烏という神武天皇と共にした鴉が有名だ。
では、何故怖がった。神の使いの鳥が俗な人間の死体を食っていたことに、目を背けたくなるような要素を感じたのか。私が死海へ誘われそうで怖かっただけではないか。死体を見た時の私は、尋常ではない死への恐れを抱いていた。まるでトラウマのよう。
私は何を考えるのか、私は誰なのか、私は如何して此処にいるのか。全ての謎が積もり、何一つ解決はしない。
暫く歩くと、鳥の声は聞こえなくなった。代わりに水の音が耳に届いた。川か。集落に入る前に沿って歩いた川か。私は必死になって川を探し求めた。此の川に沿って再び歩き出せば、集落を出て、下山できるに違いない。もう、此処はうんざりだ。川を発見できそうになった瞬間、希望が泡沫のように浮かび上がった。幾つも幾つも、希望が浮かび、私自身に対する疑問も紛れていった。私が誰かなど、下山した後に幾らでも考察する時間があるだろう。
月を映す鏡。川を漸く見付けた。腰くらいの長さの草が川辺に茫々と生え、足元を悪くする。尖った石が落ちていても、気付くことなく踏ん付ける。其れでも、私は草を掻き分け川に近付く。川を見失うことが恐かった。一度川の行方を追うことに失敗している為、不必要に接近する。雑、雑、と草と足が擦れる音が聞こえる。水場近くの草は、何処となく生命力が漲り、情熱を迸らせているように思える。気のせいだろうか。川が草を生長させている。
直ぐ近くで川が流れる所迄来た。川の水が目の前に流れる箇所に立つと、赤ん坊の泣き声らしき声が背後から聞こえたような。
立ち止まり、周囲を見た。草のみが密生するだけで、人の肌の色は見えない。
鳥肌が立った。真個に聞こえたのだから。空耳では決してない。先も人の声が聞こえたと思ったら、老婆がいたのだから。私の耳は信用に値する。では、此の川の近くに赤ん坊がいるのか。子泣き爺か。否、そんな者いる訳がない。草を掻き分け探してみた。捨子でもいるかも知れない。いたら一緒に連れて帰ってやろうか。可哀想な者同士、気が合うだろうから。
川辺の草叢を捜索していると、全く見当違いな所から、再び赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「はて、移動したのか」
私は独り呟きながら、声の聞こえた方を目指して歩いて行く。赤ん坊を驚かせない為に、あまり大きな音を出さないよう工夫して歩いた。蛇が草の隙間を縫って進むかのように。
先程声が聞こえた辺りにも赤ん坊は見つからなかった。今度は空耳なのか、と自分の耳を疑い始めた。
諦める気になった時、今度こそ確かに赤ん坊の声が聞こえた。先の二回よりも声が大きかった。確実に赤ん坊はいる。下流の方から聞こえて来た。川に沿って下って行く。途中で赤ん坊の姿が見えるかも知れない。
だが、赤子など見えない。川の清澄な水の中にも何も存在せず、岩魚でも、虹鱒でも、山女魚でも、川魚の類も見当たらない。
川を凝視し、歩を進める。川の流れは止まることがない。所々に岩があり、水が分岐したり合流したりする。水の流れは激しくなったり優しくなったりする。人の気分のようだ。人の深奥を視覚化する川の水は、何処となく神秘的で魅力的だった。私は川に見惚れていた。落ちた。
ザブン、という音が聞こえると共に、私は水流の中で倒れていた。冷たさが全身に浸透していく。川は予想したよりも深く、数メートル程流された気がする。私は突き出た岩に頭頂部をぶつけて止まり立ち上がった。私の毛髪と体から水が滴り落ちる。寒さに凍えながら、草叢へと上る。結局赤ん坊など一人も見当たらなかった。口惜しい。何故見付けられないのか。
私は川の方へ振り返る。頭をぶつけた際に、岩に何か紙片のようなものが貼り付いていた気がしたからだ。確かにあった。水に濡れた新聞紙が一枚見えた。白黒の紙が水で滲み、一面灰色に見えた。だが辛うじて字は読めそうだ。
再び川へ。深さは太腿辺り迄ある。一歩進むのに苦労を強いられる。岩へ辿り着き、破れないように慎重に新聞紙の端っこから緩々と剝がす。綺麗に取ることができた。水が冷たいので、川から上がって読むことに。新聞に載っている記事は、一見何の価値もなさそうだが、此処では新聞が唯一の情報源だった。どんな情報でも一定の魅力を持つ。
滲んだ文字をなぞる為、新聞紙の記事を凝視した。
(堕胎手術中に、子と共に命を失う母体が急増。
厚生労働省は、人工中絶において母親の死亡件数が増加していることを明かした。人工中絶の手術件数が三十五万件あり、約半分の十七万件で、母親の死が確認されている。此れは一体如何いうことか。医療技術が急激に劣化したことはあり得ない。産婦人科の医療関係者に聞いてみても、決して技術が落ちた訳でもないし、怠慢な医者が増えた訳でもないと言う。では、此の事態の原因は何なのか。誰も明確な回答を示せない。皆、戸惑っているのだ。何が原因か分からない死が蔓延り、手の打ちようがない。仕舞いには、死神が現れ子を堕ろす決断をした母を一緒に連れ去って行っているようだ、と科学に傾倒した医療従事者ですらも言う。此の事実を受けて、内閣は成るべく中絶をしないように呼び掛けた。呼び掛けるだけではなく、子育てがしやすい世の中を作ることが、記者は大事だと思うが)
私が記事を読み終えると、彼方此方から赤ん坊の泣き声が聞こえて来た。夜中に鳴く蛙の群れのように、沢山聞こえて来て五月蠅かった。勿論、慄然とした。こんなにも普通の赤ん坊が川辺にいる訳がない。耳を塞ぎ、俯き、周囲を見ないようにした。
「ねえ」
そんな意気地のない私に声を掛けて来た者がいる。誰だろうか。聞いたことある声だ。私は声の主を思い出して余計に気分が悪くなった。噛み千切られた嬰児の頭が脳裏に焼き付いていた。彼女の声から連想され、呼び起こされた。
「おい」
二度目の呼び掛けに我慢できず反応し、私は頭を上げた。川を挟んで向こう岸に一人の老婆がいる。猩々緋の衣を纏った、あの老婆で違いない。
彼女は手に何かを持っている。赤子の頭だった。
「川赤子の肉はホロホロと柔らかく、特に甘いのさ」
と、老婆は言うと、むしゃりと噛み付いた。今度は白桃を丸ごと食べるかのようだ。桃色の赤子の頭の一部は綺麗に噛み千切られ、無残な様子を見せていた。赤い液体が老婆の黒い歯から垂れている。
「食うか」
老婆は頭部を差し出して来る。赤ん坊の泣き声は聞こえなくなっていた。老婆の姿と、同胞の真っ赤に染まった頭を見て逃げたのか。
私も逃げることにした。逃亡する時は無我夢中だ。何処に向かって走っているのかも分かっていない。兎に角、老婆から逃げたかった。先迄は消えたことに怒りを覚えたが、今は現れてほしくなかった。此の時には、私が老婆に会いたかった意味が分からなくなっていた。彼女とまともな話が成立する訳がないのに。
駆け出す私の視界に火の光が映る。茅葺き屋根の家が集まる場所に戻って来た。川の音も聞こえなくなった。足元の草を踏み締める音を聞きながら、前へ前へ。前方には茅葺き屋根の家がポツポツ建ち、其の隙間を何者かの人影が通る。立ち止まった。
額から冷汗が噴き出し、頬を伝い、顎から一滴。確かに人影を見た。而も、お召し物の色は猩々緋。
正体など確認しなくても分かる。あの老婆に間違いない。私は全速力で逃げた。何故、老婆が先廻りしているのか。老婆がいるだろう家の陰が視界に入らないように、出口を目指す。早く此の集落から脱出したい。出てから川を探そう、と考えていたが、恐怖は容赦なく襲い掛かる。集落自体が私に怨恨を持って、恐ろしい刺客を送り込んでいるかのよう。再び、鮮やかな着物姿が目に入る。
此の集落は生きているのか。此の仮説が真である気がした。都合良く気味悪い存在が現れ過ぎている。此処に来た時は、何もいなかったではないか。老婆や鴉、男の死体、大量の赤ん坊。彼等は意志を持った集落が私を歓待する為に、送り込まれたのではないか。では、集落は私を簡単に逃がしてくれることはないのでは。
誰かが私の肩を掴んだ。もう勘弁してほしい。幾ら振り解こうと暴れても、肩に触れたものは離れない。私は立ち止まり、振り返って見た。老婆が私の肩を掴み、不敵な笑みを浮かべている。
よく見ると、老婆の髪の生際から一本角が生えていた。矢張、人間ではなかった。
「何でしょうか」
と、語気を荒くして、突き放すように怒鳴った。其れでも、老婆は表情一つ変えずに、熟っと私の顔を見つめ続ける。
「何が目的なんだよ」
手を振り払おうとしても、凄まじい握力で離せない。老婆の古木のような腕の皮膚に、血管が波打ち、青緑色の筋が幾本も伝っていた。化物の老婆と血管の対比が不整合で、奇妙な感覚になった。老婆の手は鷲の爪のように食い込み、蛸の吸盤のように引っ付く。
「おい」
老婆は漸く声を出して、
「食うか」
と、尋ねてくる。老婆の手には、先程食していた赤子の桃色の頭部が握られていた。
「要らない」
「川赤子の首の美味さを知らぬ不幸者よ」
彼女は私の肩から手を離し、両手で頭を持ち、噛み付いた。私は返り血を浴びた。目の前の老婆は顔中に血を浴び、莞爾と嗤った。何て露悪的なんだ。
私は彼女を無視し、逃亡する。もう老婆の目的など何でも良かった。
鳥居が見えて来た。二本の柱の間に布が見えない。あの白黒の男女の裸体の絵は何処へ行ったのか。勿論、見たくはないが、何時の間に消えているとなると気になる。私が鳥居に近寄ると、地面に何枚もの布が落ちていた。消滅した訳ではなかった。寧ろ数は増えている。確実に二枚以上ある。
鳥居を潜った。地面に落ちている全ての白い布に、男女の裸体が描かれ、顔と陰部は滅茶苦茶に塗り潰されている。此れ等の布は誰が何の為に用意したのか。此れも集落が齎した物だろうか。否、そもそも集落が生きているということが考え過ぎか。余りに奇奇怪怪なことばかりが起きるので、そうと決め付けていた。
鳥居から出て、落ちている布をよく見てみると、絵は動いていた。絵ではないのか、と蒼ざめたが、そうではない。人の絵が動いているのではなく、布の上に小さな生物が蠢いている。蛆だ。
此の蛆虫たちは、先程の屋敷の鍋から出て来たのか。何故布なんかに蛆虫が集るのか。嬰児の死肉から沸いた蛆虫が、無様な男女の絵の上で這いずり回る。嬰児が怨恨を抱き、両親を食っているかのよう。
布の件も無理矢理にでも、忘却の彼方に飛ばした。確実に私は集落から出れたのだ。もう何も気にする必要がない。川を見付けて、下山する続きを再開すれば良いのだから。集落に戻って来ることはない。
※
「此の話は本当なのか」
父親は既に眠そうに聞いてきた。
「夢だからね。現実の話ではないよ」
私も当然のことを答える。
「結局、新聞だけが、現実に近いものを感じさせるな」
父は少々酔いが醒め始め、冷静さを取り戻した様子。
「うん、そうなんだ」
「でも、堕胎手術で、そんなに母親は命を落とすことは現実にもあるのか」
父は疑問を口にする。
「否、そんなことはない筈なんだけどね。余程の藪医者じゃなければ、そんな事態にはならない筈だよね」
私も同意した。
「続きを喋って良いぞ」
父に促されたので、続きを喋る。母は黙って腕を組んでいた。