上巻
文学界新人賞の一次落ち作品です。一次落ちということは小説として成っていないものなのでしょう。どこが小説になっていないのかが分からないですが、どうか一読お願いします。どんな辛辣な意見でも聞きたいので、アドバイスを戴ければ嬉しです。
最寄りのバス停に、バスが到着した。長めの紺色のチェスターコートを羽織り、茶系の色で纏まった大きな旅行用鞄を手に提げ、歩き慣れていた道を歩む。田舎らしく人は疎らで、褐色の鳥や緑の木々の色が目立つ。鞄から何も漂って来ていないことを確認した。アレはには何枚ものビニールを被せて、臭気も禍々しい気配も漏れて来ないようにした。大丈夫だ、両親は何も気付かない。それに、久々に帰って来る息子が、まさかあんな物体を持って来るとは思わないだろう。
久しぶりの地元だ。何年帰って来てなかったか。両親に対し、今更ながら申し訳なく思う。今年二十八歳になる私は高校を卒業し、家を出て以来、初めて帰省する。十年経ったことになる。二年前に結婚もした。何故今帰って来たのか、理由を問われても明確に答えられない。否、答えたくないのだ。何故か急に両親の顔を懐かしく思って急に田舎に帰りたくなった、と両親には伝えている。本当は今、私の鞄の中に息づくアレを見せることが目的なのだから。だが、いきなり見せる訳にはいかない。段階を踏まなければ。
西日が眩しく、歩きながら顔を細める。日の光を浴びる顔が熱い。ずっしりと重い旅行用鞄を持ち直し、家路を急ぐ。早く実家に帰りたいが、帰るのに勇気が要る。前日に実家へ連絡を入れたので驚かれはしないだろうが、何だか気まずい。
「如何して急に帰って来たんだ」
と、親に問い詰められたら、矢張答えられる自信がない。理由なんてなくて気まぐれで帰って来た、と言う。私は何故帰って来たと思うか、と訊き返そうか。其れとも。
実家が見えて来た。木造一軒家で、屋根は瓦張り。扉の硝子は曇り硝子で、灰色の土間がボンヤリ見える。
「只今」
と、声を掛けながら、戸を開ける。
「お帰り」
両親、二人揃っての出迎えだった。
「如何したの。今迄帰って来なかったのに、急に帰るだなんて」
「別に大した理由がある訳じゃないんだ。親の顔でも見たくなったのかも」
「嫁さんも一緒に来るのかと思ったよ」
「否、今日は一人だ」
私が実家に到着した時刻は十七時半だった。既に夕食の準備が開始され、母は台所で料理の最中だった。懐かしい場所に懐かしい背中が見える。
其の日の晩、両親と共に酒を飲みながら一家団欒をすることに。未成年の時に此処を出たので、両親と酒を飲むのは初だ。居間にある炬燵に三人で入り、焼酎の水割りを作って飲んだ。
三人とも酔いが回り、自然と口数が多くなる。両親は過去の私が仕出かした失敗の出来事などを、楽しそうに話す。其れを聞き、思い出した私は一々赤面する。
「そう言えば、小学生低学年の頃は、怖い夢を見たとか言って、毎朝のように泣いてたな」
父親は前歯にある金歯を光らせ、笑顔で私の大昔の話をする。
「当時は夢をよく見たんだ」
怖い夢の話になった。私が今日帰って来た理由を話すのに絶好な機会となった。私の話を聞き、帰省の真相が分かった時、両親は何を思うのか。
「ホント―かあ。怖い夢なんか見たことねえぞ」
父親は怖がりだと私を煽る。父親は何時でもこんな感じだった。酔うと余計に剽軽になる。母は父の会話を聞きながら黙々とお酒を味わう。私の知っている光景。安心感が不可抗力で沸いて来る。だが、こんなに穏やかな空間は軟で儚く、直ぐに壊されるのだ。私が正直に話してしまえば。
今の機会に夢の話をしようと決めた。夢の話をしたら、あのことも話すことになるだろう。そしたら、暖かい家族の時間も終了だ。破滅願望の発生か。私の思考回路が分からなく、不安に襲われる。
「でも、最近も怖い夢を見たんだ」
「ほう、大人になっても変わらんもんなんだなあ」
と、冗談っぽく父は言う。母も莞爾と笑っている。
だが昔の不可解な夢とは違い、怖い夢を見た理由は明白だった。私は眼前の明るい雰囲気を壊すことを厭わずに、アレのことを今、打ち明けようと決めた。
先ずは夢の話からだ、と思い、私は夢の内容について、両親の前で語り出した。私が真面目に夢の話を始めた為、二人は怪訝そうな顔をし始めた。
※
私は独り。
夜風が吹くと葉が颯と鳴る、真っ暗闇の中にいた。木々があることだけ分かる。
此処は何処か。
私には皆目見当が付かぬ。私が何をして此処へ辿り着いたのか。記憶が何もない。私が誰なのか。何処に帰るべきなのか。其れ等も分からない。
如何やら山の中にでもいるのか。葉の擦れる音が聞こえ、歩を進めると地面が斜面だと分かった。屹度、小さな山だろう、と考えられる。
唯、視界は黒一色。暗幕の中のよう。確信を持って山中だと言えないが、兎に角先へ進む。
先程迄は天を木々の葉が覆い隠していたようだ。歩くと急に夜空が見えた。藍色の光を放出した下弦の月が、莞爾と笑う口。
私は馬鹿にされているのか。何者かに翻弄され嗤われたようだ。そんなに可笑しいなら嗤うが良い。強気になろうとするが、奥底では震えが収まらず。自分が何処にいて、何をしたいのか分からない為。
一体如何して、蒼い光の差す夜道を歩いているのか。地面は黒々とした土が乾いて、一歩踏み出す度に、気味の良い音が鳴る。何かを咀嚼する音のよう。地面の土は何を食しているのか。私か。自分の体が消化され、知らぬ世界に取り入れられていくよう。土を踏む音色が、未踏の世界へ案内する。
恐怖は拭えない。本当に私は何処に向かっているのか。何処に行くことが正解か。運命に任せるか。分からない。何も分からない。取り敢えず私は暫く歩き続ける。
嘲笑する口に似た形の月の光は差し、空は相変わらず蒼い。大島紬を纏った色黒い娘の体の上を歩いている気になった。
「娘が私を虐めている」
と独り言を言いながら歩いていると、空の色が変わった。何が起きたのか、藍色の空が紅色へと変色した。嗤う口が吐血した。私は不意に立ち止まって、空を見上げ、茫然と立っていた。血のように赤い光線が私の黒目を刺す。
「何処かで此の光景を見たことあるよな」
独り言が止まらない。声に出しても、何も解決しないのに。
全ての記憶が失われていた。世に言う記憶喪失という現象だろうか。では、帰ることは不可能ではないか。私は再び立ち止まる。帰宅は諦めねばならぬか。記憶ごと失っていたら、家の所在地など覚えている筈がない。せめて家の色形だけでも、と記憶を掘り返そうとしたが、無理だった。
記憶喪失したことが事実ならば、此処の山中で失ったことになる。真夜中に一体何をしていたのか。何もないではないか。虚無の中を歩くだけで、何も見当たらない。あるのは鬱蒼と生える草木のみ。人がこんな緑の中に入り込むには、余程の理由がある筈だ。
「否、私は人なのか」
無意識に人だと決めつけていたが、確証はない。鏡を見てないので、今迄ずっと自分自身の姿を確認していない。若しかしたら猿などの獣かも知れない。猿ならば森の中にいても、何もおかしくない。寧ろ普通だろう。
「私は獣なのか」
獣なら帰る必要はない。此処が住処だ。此の山の中で食物を探し生き永らえる。全ての行動がそれに集約される。
然し、今の私は食物を探している訳ではない。確かに空腹ではあるが、腹を満たそうとする意思が沸かない。獣でもないのか。一体私は何なのか。
一生食物にありつけない餓鬼なのか。人でも獣でもないとしたら、餓鬼かも知れない。では此の森は現世に存在するものではないのか。
私は既に死んだ存在なのか。
死亡済みの身だとすれば、全て説明ができる。私の記憶が一切ないことも納得がいく。自我は新しい肉体を入手し、私は今迄の私と異なる存在になったのか。成程、一番確率的に高いかも知れぬ。
では餓鬼は何処に行くべきか。行くべきところもないのか。
何時の間にか山を相当な高さ登ったような気がする。
水の音が聞こえた。先程は聞こえていなかった水の流れる涼しい青い音が、耳に心地良い。音を頼りに先へと進む。川が見えた。紅い月光を反射させた川面に、下流へとチロチロ流れて行く水の流れが刻まれている。
川に沿って下って行けば、山から出て、何処かの町に辿り着けるのではないか。水のあるところには、生き物がいる筈。もう人ではなく、獣でも良い。私は見付けた川に沿って、今度は坂を下って行く。何故ずっと登っていたのかが分からない。其れ程動揺していたのか。
暫く川に沿って下っていると、何やら光の群れが見えて来た。
光の粒が段々大きくなり、揺らめいている様が見える。火が焚かれているみたいだ。火を使う生物は人間しかいない。
人がいる、と確信して、私は駆け下りた。どれ程心細かったことか。早く人と喋りたい。若し人と話せれば、私が人かどうかを確かめられる。若し話が通じなければ、私は何になっているのか。恐怖に襲われる。矢張、人間でありたい。
遂に目的の光の群れがある所の目前迄来た。見たところ、集落が広がっていた。川の傍に立って、上から集落を眺めると、朱色の光が茅葺き屋根の家の窓から洩れていた。家の中に火が焚かれて、窓の格子の黒い影が太い蛭のように、ぬるりぬらりと地面を這う。
家の数は私の予想よりもあり、幾つもの屋根が無造作に置かれて見える。川はそんな集落へ流れ込む。幾つもの集落の火の光が今私のいるところ迄明かりを届け、川の傍には赤い彼岸花が咲き乱れていたことに気付いた。細長く赤い花弁が触手に見える。触手が絡まり合い、何かを捕えている。私は大島紬の巨大な娘に絡み取られている身。彼岸花の花弁は彼女の手や指のような存在か。
私は集落へ向かう。川に沿って下ると、鬱蒼とした背の高い草に行く手を阻まれる。回り道をして入ろうと試みる。川から離れ、集落の周囲を歩いていると、大きな鳥居が目に入った。鳥居は灰色の重厚な石で造られ、ポツネンと立っていた。立派だが、何処か寂れている。鳥居の中を覗くと、中には先程の家々が見え、火が私を受け入れる。此の鳥居は、集落の入り口のようだ。鳥居を潜ることで、茅葺き屋根の家が集まった集落に安寧な気持ちで入れる。
入ると、異様な雰囲気がした。
先ず、人が一人もいる気配がしない。家もあるし、中から光が洩れているが、生活音が何も聞こえない。人の生があれば、確実に物音は聞こえて来る。だが、無音。無音が聞こえる程だ。先程下って来た川の水の音も聞こえないことに気付いた。鳥居を潜ってから何かおかしい。別次元に来たか。耳に詰物を詰められたかのようだ。頭の思考も朧になっていく。
此のままではおかしくなりそうだ。私は集落の中を歩いて見ることにした。誰かいるかも知れない。自分の足音が聞こえ、安心感を覚える。自分の生を再確認する。
一つ目の茅葺き屋根の家に入ってみることに。木造の戸を開けて、中に体を入れた。生温い一陣の風が吹き、私の顔を舐めた。湿気が私を身震いさせる。
気を取り直して部屋の中へと進む。囲炉裏の真中に赤い火が燃える。方々に火の子を飛ばし、赤い塊が蠢くよう。鈎に鍋が下げられていた。誰か湯を沸かしているのか。人がいることの証左では。恐る恐る、囲炉裏の近くに寄った。火は燃え盛るが、火を熾した本人は何処へ。
客座に座り、火に当たる。黒い鍋から白い湯気が立ち火棚の辺り迄、自在に形を変え昇って行く。鍋の蓋は熱そうで中を見ることは叶わない。
暫く座って待ったが、一向に家の主は現れない。物音もない。無音の中で火の爆ぜる音のみが心地良い。暫く座っていると、長閑な気分になり眠気に襲われた。何時からか畳の上で横臥し、眠りに落ちていたようだ。
眠りから覚めても、部屋の中の様子は一切変わっていなかった。格子窓からは変わらず夜闇が見え、赤い下弦の月が貼り付いて動けないよう。眠っていたのは一刻の間だったのか。其れにしては疲れが緩和されていた。時が止まっているかのようだ。否、本当に止まっているのかも。
私は体を起こし、家から外に出た。火の気がないので、山中の寒風が身に沁みる。赤い月光が地面を照らし、短い雑草が所々繁茂していることが分かる。茅葺き屋根の家は何れも同じに見え、何処も人がいないのだろう。此の集落は人の消えた過去の遺物なのだろうか。否、では火の点いた囲炉裏は何なのか。
私は集落の中を歩き回る。川は何処へ行ったのか。確かに集落の中へ流れ込んでいた筈だ。疑問点が多過ぎて整理が付かない。未だに私が何者なのかも分からず仕舞いだ。此れでは収穫はゼロだ。
もう少し歩いてみると、一際大きな茅葺き屋根の屋敷を見付けた。集落の村長が暮らしていた家だろうか。此の建物の格子窓からも火の輝きが洩れている。
私は戸を開け入ってみた。生温い風が此方でも吹いて来た。挨拶代わりの風も正体不明だ。先程の家には部屋が一つしかなかったが、此方では二つあった。一つは囲炉裏のある部屋。其の囲炉裏に火が灯っており、赤い火が青い畳と対照を成しているのは同じだ。もう一つの部屋は畳も敷かれていない、木目が露わになった部屋だ。物も置かれておらず、蛻の殻。唯、空間があるだけ、矢鱈、寂寞としている。
何故だろうか、私は此の空間に郷愁を感じた。記憶を失う前の生活で、関係があったのか。物悲しいような、風雅でもあるような。そんな感情を抱き、ボンヤリ眺めていると、部屋の隅に何か綿飴のような物が落ちているのを見た。暗い部屋の中で白く光っている。中に入って物体の正体を確かめる。白衣だった。丈の長い白衣が丸まって、部屋の隅に捨ててあった。
大きな屋敷は、集落に住む医者の住居兼診療所だったのでは。人が住まなくなれば、医者は要らなくなる。此処で村民の健康と長寿を願う為に存在し、人の繁栄を望んだ白衣の医者は、消えてしまったのだ。
※
「何ナンだ。ズーっと気味悪い話してよ」
父親は赤ら顔を益々赤くし、私の夢の話に我慢ならず、遂に大声を上げた。当然だ。父は昔の私が怯えていた怖い夢について喋っていたのに、現在の私が見た意味不明な話を聞かされているのだから。
「まあ、良いじゃない。最後迄聞いてあげれば」
母は父を窘める。こういう二人の関係は変わらない。二人にアレのことを言っても、と躊躇し始めた。父は狂ったように取り乱し、母は失望して私を突き放すかも知れない。だが、今は取り敢えず夢の話だ。
「まあ、取り敢えず続きを聞いてよ」
私も父に言い聞かせる。話し始めたら全部喋るのが礼儀だろう。
※
此の屋敷にいても誰も来ない。私は大きな屋敷から出ることにした。結局、誰とも会えない。何故、人の姿がないのに火が点いているのかは不明で気になるが、此の集落を出ることに決めた。屋敷の外では紅月が煌々と光る。月の大きさが何だか大きくなったような。大きく嗤っているよう。
気になることが多く、後ろ髪を引かれる思いだが、此れ以上此処にいても仕方がない。私は入り口の鳥居の方へ向かって歩いた。
遠くに灰色の鳥居が見える。赤い空と緑や黒の地面の狭間で鈍く輝く。
鳥居に近付くと、先程と何かが変化していることに気付いた。鳥居の形が変だ。二つの柱の間に何かある。其の空間を潜って集落に入って来たので、其処に何かあるのは変だ。
疑りながら先へ行く。鳥居が大きくなるにつれ、何があるのか分かってきた。額束の下の貫から二枚の白い布のような物が垂れ下がっていた。此れは一体。私が集落にいる間、誰かが布を垂らしたのか。
自然と急ぎ足になり、雑草を踏む音が大きくなる。鳥居の下を潜れない為、回り込んで正面から眺めて見る。
二枚の白い布には墨のような黒い液体で絵が描かれていた。一枚には男性の裸体の絵が。だが、顔と股間は黒く滅茶苦茶に塗り潰されており、顔と股間が潰されたかのように見えた。もう一方には、女性の裸体が、此方も男性と同じ、顔と股間がグシャグシャに塗り潰されていた。此の男女への恨み辛みが犇々と伝わって来る。二つの裸体は二枚の布の上で、大の字に四肢を広げていた。無様だ。そして、不気味だ。
赤い下弦の月の光によって、血に染まり、真っ赤な惨殺死体に見えた。彼等が自身の骸でもって、悲哀を表しているようだ。
段々、二枚の惨殺されたような男女に対して、良い気味だ、と思うようになった。感情が劇的に変化した。何故だろう。私は或る男女から危害を加えられた覚えはないのに。
二つの絵に見惚れていると、何処からか人の声のような音が聞こえた。
ふぇえ、と何者かが呻くような嗤うような声が集落の方から聞こえた。矢張、人がいるのか。
私は諦めず、再び集落に戻った。何故、集落に拘っているのか。何に惹き付けられているのか。普通だったらこんな不気味な場所、直ぐに立ち去る。だが今の私には何故か魅力的な雰囲気を感じる。蠱惑的と言った方が正確かも知れない。
目の前の二枚の白黒の絵の謎は取り敢えず無視し、声の方を探してみる。人がいるなら、話を聞いた方が早い。
結局、集落へ引き返した。相変わらず、朱色の火が格子窓から洩れ、雑草が茫々、赤い月が煌々。月は動く気配がない。此の世界は一体。
早く人と話がしたかったので、人の姿を駆け足で探し回った。何処から聞こえた声なのか。先程、比較的明瞭に聞こえた為、入り口の鳥居近くにいる筈。だが、人影すらも見付け出せない。建物内からだったのか。鳥居の一番近くにある茅葺き屋根の家に入る。戸を開けると、生温い風。囲炉裏のある畳の部屋が一つ。人の気配はない。だが囲炉裏の傍に何か紙片のような物が落ちていることに気付いた。初めて此の場所の正体が分かる鍵になりそうな物を発見した。
何かと思い拾って見ると、新聞紙だった。日付のところに、二〇一九年十月十四日、と記載されている。最近の日にちだ。だが、新聞は白黒で刷られている。味気ない。私は記事を読んでみた。新聞の割には砕けた文章だ。
(乳幼児虐待。死亡件数、三十万件越え。
厚生労働省は今年、乳幼児の虐待に於ける死亡件数を発表した。昨年の二十八万件を上回り、既に三十万件に到達した。原因として考えられるのは、父母共に、子供以上に可愛い存在が生まれたからだと推測できる。二〇二五年に、あの製品が開発されたことで、人々の自己愛が急激に増し、子供ではなく自分を偏愛する大人が増えたことが原因なのではないか、と専門家は見ている。
では何故可愛くもない子供を生むのか。其れは、性行為に依存する傾向が顕著になったからではないか。自己愛が増すと、人から愛される必要も自然と増す。そうなると、人は他人を愛し、お返しで愛を受け取ろうと躍起になる。そして愛を受け取った証として、性行為を行う。赤ん坊が生まれる数が増えるのは必然だろう。避妊をしていても、不本意な結果になることは多い。不本意に生まれた赤ん坊に対して、自己愛の強い人間は、興味を持つことがない。生まれてから直ぐ飽き、暴力によるストレス発散器具に早変わりする。赤子の頭を握り潰すように虐める親が多いという事実がある。
だから、世の中は変化した、と言えよう。生まれること自体が幸せ、という時代は過ぎ去ったのかも知れない)
私は新聞の写真を見た。写真は白黒だが、赤子が棺桶に入れられている場面が切り取られている。直視できなかった。何故か写真の死んだ子供に感情移入してしまう。一枚の布も纏わせてもらえず、固い棺桶に寝かされている痩せ細った赤ん坊は見るに堪えない。白黒写真なので、赤ん坊の肉体が白く映り、質感が妙に生々しく見えた。白子のように滑らかな曲線が痛々しい。優美な肉体は死骸に美を与えているようで、逆に死に対する中途半端な甘さがあり、余計に惨さを示す。
私は新聞を囲炉裏の火の中に放り投げ、胸糞の悪さを消去するイメージをした。新聞に載っているような事実はないことにしたかった。目を逸らしたくなる事実を、態々紙面に残すべきではない。現状を知りさえすれば良い。
「嗚呼」
と、私は集落で初めて声を発した。何故だろうか、懐かしく温かな気持ちになる。今迄声を出していなかったからか。体の中に蟠っていた黒い塊が、言葉と一緒に溶解し、口から零れ出て行くような気になった。
動揺が激しい。何故か新聞の内容に心動かされた。其れに、如何して此れ程煽情的な新聞が此処にあったのか。偶然か。偶然だから、こんなにも影響されているのか。
既に私は何から考えるべきか分からなくなっていた。私は何者で、どうして此の記事に影響されているのか。考えることが多過ぎる。
「私は誰なのか。教えてほしい」
と一人、声に出してみると、ふぇえ、と先程と同じ呻き声が聞こえた。外から聞こえたか。
私は慌てて戸を開け、外に出た。声の主を血眼になって探す。目を凝らし、よく見回し、暗い物陰にも注意を向ける。声は聞こえたのだ。当然近くにいる筈。其れとも、人は煙になって消え去って行ったのか。そんな摩訶不思議なことは起きないだろう。だが、記憶を亡くした私が、何処かも分からず人っ子一人いない集落で徘徊していること自体が不思議な出来事だ。何が起きてもおかしくない。
一歩踏み出す刹那、草の音も立てずに誰かが颯と家と家の間を横切って行ったような気がした。確実に姿を目視できた訳ではない。人くらいの大きさのモノが、一瞬家と家の狭間に見えただけだ。確証を持ってはいない。だが兎に角、確認してみる。私は人のようなモノがいるであろう家の背後に忍び寄った。雑草を踏む音を成るべく立てずに、抜き足差し足で。
覗き込んだ。見てしまった。枝垂れ柳のようにバッサバサと髪を伸ばした後ろ姿。着ているのは鹿の子の小袖か。月光を浴びてか、元々の色なのか、猩々緋に輝いて見え、粒々と細かい模様が付いている着物だ。女だった。彼女は私に見られているとは、露知らず、地蔵のように立ち止まって直立不動。
「すみません」
私は声を掛けてみる。如何したのか微動だにしない。聞こえているのか、聾者であろうか。
「すみません」
今度は声を掛けながら女の肩を叩いた。肩に掛かった髪の毛は針金のように固かった。女は静かに振り向く。蛇のように目が吊り上がった三白眼。鼻は大きく真ん中で主張が強く、口はニヤリと嗤った形が上空の下弦の月のよう。面皰が両頬に鱈腹できて、幾つか化膿していた。黄色い皮脂をたらりと一滴。黒い髪は顔を隠す勢いで伸びている。
「貴方」
と、女は私に呟きながら、手招きをする。
「貴方、此方に」
女は背後にいる私を見たまま、後ろ歩きで誘導する。私は誘われるまま、彼女に黙って付いて行く。此処でやっと人に会った。此のまま逃がす訳にはいかない。気になることを聞かねば。此処は何処なのか。先ずは此の質問から。
女は後ろ向きの割に、歩行速度が速く、私は追い付くことに必死だった。女は足音を全く響かせない。息が切れて質問する余裕など、何処へやら。
「此処へ」
女は急に止まり、手で建物を示した。其れは一際大きく、二室ある例の茅葺き屋根の屋敷だった。格子窓から光が洩れる。火は未だ点いている。火は女が点けたのか。
「此処は貴女の家ですか」
私は入る前に女に尋ねた。
「アタシたちの家」
と、女は明瞭に答えた。アタシたちとは誰のことか。女の他にも家族がいるのか。此の集落に複数の人間がいるとは思えない。いなくなった医者が家族なのだろうか。聞いてみた。
「他の家族の方は医者ですか」
「医者ではない。殺人鬼だよ」
即答だった。女は私から目線を逸らし、屋敷を眺めた。何か嫌な記憶でもあるのか。殺人鬼が白衣を着るとは思えない。屹度殺人を犯した医者に、嫌な目に遭わされたのだろうか。
「医者の方に不快な思いをさせられたのですか」
私の言葉を聞いた女は目を剥き、
「其れは貴方でしょう。他人事みたいに言って」
と言った。何故私が此の集落の医者を憎悪しなければならぬのか。女の発言の真意は掴めない。何か新たな事実が分かるかも知れない為、取り敢えず中に入る。
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