第46話 アリスの物語
城があった場所……そこは今でもなんとなく揺らめいていた。空気の流れが違うような、城はあるのかないのかよく見えない。不思議な感覚だった。
そして、そこには生きた生身の女が一人こちらを向いて立っていた。
誰だろう? あの女は? アレクは警戒した。魔女の生き残りかも知れなかった。
潤滑油と石油(本当はガソリンだったらしいが)の缶はもうない。つまり、アレクはこれ以上戦えない。あとは力技だけだ。アレクは金属棒を握りしめた。
「止めて! この人は魔力で形をとどめているわけじゃない!」
ローザは叫んだ。
「ローザ?」
アレクはあの二人が何だったのか、いまだに正体がわかっていなかった。
「この人はただの人間よ。魔女だけど」
女は今にも泣き出しそうな、惨めな顔をしていた。
流行おくれの変な格好だ。りっぱな服だが古めかしい。
年のころは三十代半ばだろうか?
「あなたは誰?」
「アリス」
女は答えた。
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「名前はわかっても、誰なんだ?」
アレクが棒を頭上に持ち上げるのをやめて、女に話しかけた。
「思い出せない」
目をつぶり手を額に当てて女は苦し気に答えた。
ローザは、気づかわし気にアリスと名乗る女性の手を引いて、徐々に形を変え崩れてどうやら消えていく運命らしい城から離れた場所に移動した。
女はずっと黙っていた。
「あんたは誰なんだ。そして、なぜここにいる? ちゃんと話してくれ」
城の崩壊にしたがって、アリスは記憶を取り戻していくようだった。だが、表情はさらにみじめになってゆき、着ている服もまた黄ばみぼろぼろに変わっていった。
「なぜ、あそこにいたのかといえば……私は……私は、婚約者や家族やみんなに捨てられたのです……」
アレクは美しい眉をひそめた。だが、彼は黙って聞いていた。
「一番強く心に残っていることは……そして、思い出したくないことは、それは……」
「話さなくていいわ」
ローザが女の手をしっかりと握って言った。
「悲しみと痛みが伝わってくる」
アレクにはさっぱり伝わらなかったが、彼は眉をしかめて女の様子をうかがった。
顔を伏せて女は続けた。
「その痛みを忘れたかった。でも、それは許されないことなのでしょう」
「婚約者に振られたのか」
アレクが意見を述べてみた。
「アレク様、あなた、一度振られるとか、一度ひどい目にあうといいわ。なんなの、もう」
ローザがアレクを叱責した。それを聞いて、女はほんのわずか唇をひきつらせた。笑ったのかもしれない。
「婚約者は私には過ぎた人でした。身分も高く、優秀で、しかも美しかった。幼い頃、家の都合で決まった婚約だったのだけど、一目見て、心がいっぱいになった。嬉しくて。こんなすてきな方の婚約者に選ばれるなんて。
自分では、一生懸命、マナーもダンスも勉強して、なんとかふさわしくなりたいと努力しました。
私の家に、彼はよく来てくれました。それなりに遠いのに。騎馬の彼はとてもかっこよくて、私はいつも、窓から見るたびに心ときめいたものです。
でも、地味でぼんやりの私は、ダメでした。
階下に降りて彼を迎えに行く前に、ひとつ年下の妹が先に走っていってしまうのです」
ローザは真剣に聞いていた。
「妹は、私より美人でした。それにずっと活発で自信家でした。美人は自信家でないとダメなのですね。私は、いつも妹に出し抜かれ、彼と話をしたいのに、それも出来ず、うじうじと悩むばかりでした。
それでも、妹がもっと小さい時は、二人だけで頭をくっつけあって、摘んだ花を一緒に見たり、走りっこをして遊んだり、本当に楽しかった。
彼は美しく成長した妹にまとわりつかれると、そんなこともみんな忘れてだんだん妹に惹かれていったのでしょう。
私と妹は異母姉妹でした。
私は、母の顔も覚えていません。
私が彼の婚約者に選ばれたのは、母の家柄が良かったからです。義母は地方の出身で、生家は貴族だとは思うのですが、あまり高い身分ではなかったのでしょう。みな、その話題は避けていましたから。
でも、いつも父のそばにいる義母の影響力は強く、父もだんだんと、地味で目立たない私より、義妹の方が彼の妻にふさわしいと考え始めたようでした。
『それに、肝心の婚約者様が、エメリンの方が気に入ったとおっしゃっていますわ』
義母が得意そうに父に言っているのを聞きました。
まさかと、私は信じられない思いでした。
それからは、怒涛のようでした。
彼が来る時は、私は屋根裏に閉じ込められました。体調が悪いと世間には言いふらされました。
『あなたにはドレスなんかいらないわね』
妹と義母は、これまでの遠慮をすっかり脱ぎ捨てました。
特に妹は、私に対してずっと引け目があって、それが溜まっていたのだと思います。
私の持っていた宝石やドレスは取り上げられて妹のものになり、義母と妹は父が私を見放すように、体調の悪い私を二人で看護しているが、ちっとも感謝しないどころか、父を憎み、婚約者を実は嫌っていたのだと伝えたのです」
淡々と語る女は、だんだんと思い出してきたようだった。
「生まれた時からの愛情や、子どもの頃からの思いがそんなに簡単に潰えるとは思っていませんでした。でも、ある日、妹はハサミを持ってきて、私の髪を根元から切ってしまったのです。そして、切った髪を父と婚約者に見せて、私が狂ってしまったと告げました。
父はあわてて私をどこかの遠い修道院へやる手筈を整えました。
これで、妹の婚約は確定です。
『あなたの婚約者は、私になったわ』
彼女は得意げに私に告げました。
どうして、そんなことがあり得るのでしょう。だって、私の婚約は私の生母の家柄や財産なども考えられた上でのものだったはずです。でも、聞くことはできませんでした。今だって、十分に状況は悪いのに、妹を怒らせたらどうなることか。
妹は、よく私のところへ近況を伝えにきました。
婚約者とどこかのパーティーで一緒に踊ったとか、遠乗りに出かけたとか、ドレスを褒められたとか、そう言う話です。
もう、来ないで欲しいと何回思ったことか。
なぜ、わざわざ私のところにそんなことを話しに来るのでしょう。私が信じていたものは嘘だった。私は愚か者でした。
父には早く修道院入れて欲しいと頼みました。そう言った願いだけはいち早く伝えられ、私はネルビラ修道院へ送られました」
「ネルビラ? ここの近くではないか」
「そうかも知れません。狂女にされた私は、最初は鉄格子のある狭い部屋へ押し込まれました。祈祷書だけが置いてありました。修道院長さまにこれまでの話をしたのですが、かえって悪印象のようでした。
義母と義妹からは、くれぐれも面倒を見て欲しいと頼まれているそうです。そんな人々を悪く言ってはならないと説教された上、さらに待遇が悪くなりました。
日々の食事が悪くなっていったのです。
もしかすると、それも義母と義妹の差金なのかも知れません。確かめようもありませんが、私は痩せ細っていきました。
それに自分でも、もう死んでもいいと思っていました。
貴族の娘の髪は命。
伸び切るまで一年や二年かかってしまいます。
多分、義母と義妹は、私のことを狂女だと触れ回っていることでしょう。
大事な婚約者はもう義妹のものと決まっています。
私はある日、祈祷書の中の1ページに気がつきました。地図が載っていたのです」




