2話:佐野と黒田が株への挑戦
佐野達夫と黒田智子もの父が日本株投資をしていたのを横目で見ていて儲かった時、ご馳走してくれるのを楽しみにしていた。2人とも学校から帰ると父の経営する商店の手伝いをした。18歳になった1983年1月4日、佐野達夫と黒田智子が18歳になり、父の利用してる証券会社で証券口座を開いた。その時、既に、兄、黒田光彦は、父と共に株投資を始めていた。
そして兄の黒田光彦は、横浜国大経済学部で学友の新潟県小千谷出身の玉井則子と、同じサークルに入り仲良くしていた。玉井の実家は、新潟の大きな米農家だった。光彦は、色白で、ちょっと太めの則子さんに一目惚れして、黒田家で、結婚して新潟に行くかもしれないと話すようになった。その後1983年、玉井則子さんと結婚したいと父に訴えた。
しかし、父は、黒田光彦を自分の跡取りしたいと考えていた。また、最近、横浜やこの周辺にも大型スーパーが進出してきて、長男の黒田浩三を頼りにしていたので、結婚には、猛反対した。そのため親子喧嘩する日が増えた。母も智子も困り果てていた。そこで、佐野に相談したが、父の長男の考えが真っ向から対立していて、どうしようもないと答えた。
その後、1983年3月28日の早朝、黒田光彦は、横浜国立大学を卒業して、書き置きを残して、彼女、玉井則子さんと一緒に駆け落ちした。それを知った父、黒田浩三は、激怒して勘当だと言い放った。そして、その後、黒田光彦とは、全く連絡を足らなくなり、心配した母の黒田弥栄が、たまに電話して近況を聞いていた。そのうちに、だんだん疎遠になっていった。
その後、佐野達夫と黒田智子は、、横浜商工高校へ入学し、通い始め、月に1回、日曜日デートを楽しんでいた。4月になると桜のきれいな所へ自転車で出かけ花見をした。夏も朝早く自転車で江ノ島へ行き、海水浴を楽しみ、帰ってきた。やがて秋、11月後半、紅葉が始まり、年の瀬が迫り、1984年となった。
いよいよ、今年、商業高校を卒業する年になる。その後、3月となり就職をせずに、実家の商店で働きだした。1980年代、横浜駅や戸塚駅にマイカル、ダイエー、サンコー、ジャスコと言う大型スーパーが進出してきた。そのため佐野商店も黒田商店も雑貨品の販売では食べていけなくなり大勢いた従業員を少しずつ減らし売り上げ減を補っていた。しかし、雑貨商中心の商売では限界にきた。
佐野商店は、佐野達夫の両親2人で、昔からのなじみ客相手に、細々と商売をしていた。そのため今まで、蓄えた預貯金5千万円を取り崩しながら生活していて、先の見えない不安な状態だった。その後、NECからPC9801という日本初の本格的パソコンが1982年10月に発売されて佐野達夫が、興味をもった。しかし、高価であり、MSDOSで動くと言うだけでソフトウェアも少なく、もう少し様子を見ようと買わずにいた。
中古のPC9801を1984年に佐野達夫が手に入れて、パソコンの使い方を勉強。そこで、黒田浩三が日本株投資で大金を稼いでいたため1984年春、黒田商店の黒田浩三と佐野商店の佐野良介が、雑貨商をやめて電化製品と中古車、中古バイクの販売と修理を始めようと話がまとまった。そこで従業員を整理して技術職の人を増や黒田商店を飯田商会・上飯田店として、佐野商店を飯田商会・下飯田店として2つの店舗で仕事を開始した。
そしてバイク、車の中古車販売が一番の収益源となった。佐野達夫が車とバイク中古車とパソコンのセールスマン、黒田智子は、化粧品、ラジカセ、ステレオ、テレビを始めとした電化製品のセールスをした。特に、佐野は、横浜の金持ちの息子達からパジェロ、スカイラン、MR2、シビックを中古車を安く買い、洗車しワックスでピカピカに磨き、高く売った。特に利益の大きい商品を中心に売買開始。
バイクも同じでホンダVT250F、スズキRG250、ヤマハは、RZ250Rを中心に程度の良い中古バイクを安く買い、ホンダ・ドリームCB750も売った。また初心者には、ホンダ、スズキ、ヤマハの中古250バイクの台数をそろえて売った。一方の黒田智子は、ナショナル、シャープ、サンヨーの安いラジカセを多数、安く買い取り、きれいに掃除して、高く売った。