19話:東日本大震災へ世界からの支援
2011年の震災発生時は、経営の前線から身を引きつつあった時期に重なる。震災は張氏の目にどう映ったのか。 巨大な津波が仙台市の海岸部や、東北の市街地を飲み込んでいくニュースは、台湾でも大々的に報じられていた。3月11日、エバー航空がすでに定期便を飛ばしていた仙台空港に大津波が押し寄せたのは、地震発生から約1時間後の午後4時前後だった。
時差で日本より一時間遅い台北にある総裁室で、張氏は、テレビで流れるニュース映像をみて涙を流していたという。地震後すぐ、張氏はポケットマネーから、被災地への巨額の寄付を決め、日本赤十字社を通じて送った。また、海運や航空のグループ傘下企業に対し、毛布などの支援物資を運搬するよう指示。エバー航空の機材を使用して、各国政府や国際援助組織の物資まで、無償で日本に運んだ。
後日、深刻な被害が判明するにつれ「眠れないほど胸を痛めた」と述懐した張氏。被災地に惜しみない支援を即決したのは、とりわけ仙台の地が、張氏の心情に訴える場所だったからかも知れない。事業拡大にいそしんでいた張氏が、日本各地の港湾に苦心しながら進出しようとした際、まず神戸港が、そして仙台港が門戸を開いてくれたのだという。台湾の新興企業にとって参入は簡単ではなかったのだろう。
生前に張氏と親交を深めた全日本空輸の元台北支店長、池本好伸氏は「あの時、仙台が温かく迎えてくれた事に、張氏は恩義を感じていたようだ」と話す。以後、池本氏の弁。エバー航空が日本路線を増やしていく過程でも、張氏は仙台空港への就航に並々ならぬ意欲をみせていたと言う。日本語で教育を受け、「日本人以上に日本人的だった」という張氏。
その勤勉さや、徹底して物事を突き詰めようとするエピソードも伝わる。張氏の関連品を集める張栄発文物館(桃園市)の図書館に保管されているのは、張氏が勉強に使った海事書などだが、几帳面なメモが書き込まれ、読み込まれて縁がボロボロになっているものばかりだ。
全日空の支援を得ながら航空事業に参入するにあたっても、ありとあらゆる関連書籍を日本で買い込み、「徹底した勉強ぶりだった」。海運業の拡大期には、大手商社の丸紅から資金面をはじめとする支援を受け、同社とは長期的に協力関係を持った。日本統治時代の台湾を知る世代にとって、日本との縁は生涯、ただならぬものだったに違いない。
「どんな人でも一生の間に多かれ少なかれ他人の授けを受けるものだ。(略)受けた恩は十倍にして返さなければならない」「張氏の口述自伝『本心・張栄発の本音と真心』から」そんな思いが強かった張氏が、震災後の日本への支援を惜しまなかったのは、自然な気持ちだったのかもしれない。一方、自身が受けた恩義を社会に還元したいという思いから、85年に奨学金を提供する張栄発基金会を設立。
慈善活動や教育支援に力を入れてきた。もっとも、自分の功績や手柄をひけらかすようなことが嫌いだった張氏は、震災後の義援金についても表だって話すことを好まなかった。平成24年「2012年」春の叙勲で、張氏は旭日重光章を受章した。関係者でお祝いの席を用意しようと持ちかけたが、張氏は固辞したという。また、自分の死後は「すべての遺産を寄付する」と明言していた。
昨年1月20日に死去すると、張氏による東日本大震災後の多大な日本への支援が改めて注目され、ネット上では「張氏の名前を知らない人もいるかもしれないが、感謝の気持ちを忘れるべきではない」などの声が寄せられた。 台湾と日本との深い縁を体現したような人生を送った張氏。カラオケの定番は千昌夫さん。日本の流行事情に最後まで関心を寄せた。
最後に「台湾は人口わずか2300万人。日本との関係なくしては、どうにもならない。だから日本にはもっともっと、しっかりしてもらい、台湾を引っ張っていってほしい」という言葉が池本さんの記憶に残っていると話していた。
*「なお、この情報は、産経新聞の記事を参照させていただきました」。
張氏の10億円は、巨大国家、中華人民共和国の総額を超えているし、台湾は、中華人民共和国の3倍以上、これが現実。ちなみ、国家として東日本大震災に感慨から寄せられた義援金の多く順に並べると、一位、アメリカ合衆国の29.98億円、二位。台湾の29.29億円、三位、タイの20.59億円、四位。オマーンの107.67億円、五位、中華人民共和国の9.2億円。