わたしのかぞく
「わたしの家族を紹介します」
作文の発表の日。じぶんの家族についてインタビューし、思ったことを書くという内容だった。
ほかのクラスの子は、犬を飼っていたり、妹や弟がいたり、十人家族だったり、おじいちゃんとおばあちゃんとも一緒に住んでいたり、いろいろな家庭があるのだなと思った。
教卓の後ろに立って、原稿用紙を広げて、作文を進める。
無邪気な瞳をわたしに向けて、一生懸命私の話を聞いている様子だった。
ジジジと蝉の鳴く声が教室を貫き、強い日差しが教室に降り注ぐ中、みんな額に汗をにじませ、授業を受けている。
人前で発表するのは、とても緊張して、声が震えた。手も震えるから、原稿用紙が擦れてパリパリと音がなる。気を抜けば、その場にへたりこんでしまいそうだった。
「わたしと、お父さん、お母さんの三人暮らしです。わたしが小さい時、ハムスターのデンちゃんを飼っていたけど、死んでしまいました。だから、いまは三人で暮らしています」
わたしの視線が原稿用紙と空中を行ったり来たりする。
「おとうさんは、会社で働いていて、おかあさんはせんぎょうしゅふをしています。いつもお家に帰ると、おかあさんがおやつを用意してくれています。おかあさんのつくる料理は美味しくて幸せです。わたしの家族は、おとうさんもおかあさんもやさしくて、このお家に生まれてよかったなと思いました。わたしがまだちいさかったとき、風邪を引いて、保育園をお休みしたとき、おかあさんはおしごとを休んで、わたしのめんどうを見てくれました。あたたかいおかゆがとてもおいしくて、幸せだなーと思いました。
わたしも、いつかおとうさんみたいな人と結婚して、幸せな家族をもちたいなとおもいました」
読み終わったとき、処刑を免れたような気持ちだった。大きく息を吐き、晴れやかな気持ちでお辞儀をした。原稿用紙を折り、席に戻る。
次の人が交代で前に出てきて、自分の家族について話していた。話の内容は覚えていない。
放課後、私は元気よく教室を飛び出した。ランドセルの重さなんて気にもせず、給食袋をぶら下げて校門を出る。
私はそのまま家の近くにある公園まで走った。走るたび、ランドセルが上下に揺れて、給食袋は左右に揺れる。時々、給食袋がお尻を叩いてきた。公園に着いて、公衆トイレの横にある茂みに身体を突っ込む。枝をかき分け、前に進む。
未開の地を切り開こうとする探検隊の気分だった。
茂みを抜けた先にある、ボロボロのダンボール箱。そこから聞こえてくる猫の鳴き声。
「ねこちゃん、ごはんだよー」
ダンボールの前でしゃがみ、ランドセルを下ろす。ロックを開けて、中から食べ残しておいたパンを取り出した。
ダンボールを覗くと一匹の灰色の子猫が弱々しい声でにゃあにゃあと鳴く。パンを小さく指でちぎり、子猫の口元に置いた。確かめるように、鼻をひくひくさせてから口を小さく開く。アーモンドみたいな形をした潤んだ瞳がなんとも可愛らしい。
一口食べると、もっとほしいと言うように鳴き声を漏らした。
パンをちぎっては、中に置く。わたしの胃は空で時々、くぅと鳴る音が聞こえたが、子猫が生きることができるならと我慢をした。
「ねこちゃんは、ひとりぼっちなのかな。わたしもひとりなんだよ。一緒だね」
エサを与え終わり、私は帰路についた。
大きな夕日がわたしについてくる。影をぐーんと伸ばして、わたしを捉える。足取りは重く、今すぐにでも逃げ出したいぐらいだった。家に近づくほど、歩幅も小さくなる。肩も重く、重力に押しつぶされてしまいそう。
肩ベルトを強く握り、心を奮い立たせた。
「た、ただいま……」
漂う異臭。転がっているお酒の空き瓶。玄関に放置されたゴミを空いているところに移動させて、靴を脱いだ。リビングからは聞き慣れたお母さんの声が聞こえてくる。嬌声。お父さんじゃない男の人と獣みたいに激しく交わっているところを幾度も見たことがあった。自分の部屋に閉じこもって、お母さんの声が聞こえなくなるまで耳をふさぐ。目をぎゅっと閉じて、両手で耳をふさいで、布団にくるまる。
現実から逃げるように頭の中で楽しい想像をした。ペガサスがわたしを乗せて、空を飛んで冒険する想像とか友達とお絵かきをしたりして遊ぶ想像とか。
声が聞こえなくなると、男の人が帰った証拠だった。男の人が帰ると、お母さんは何事もなかったかのように服を着て、夜ご飯の準備を始めるのだ。
夕食だけは食べさせてもらえた。インスタントラーメン。
夜九時ごろをすぎるとき、お父さんが帰ってきた。
酒を片手に。
「かえったぞー」
地獄の始まりでもあった。
お父さんは、自分が気に入らないところがあるとすぐに怒鳴り散らす。その声が怖かった。雷が何度も家に落ちたような恐怖に襲われた。
音を立てないように部屋を出て、階段からこっそりと覗き込む。
お母さんの泣き叫ぶ声と、お父さんの怒りに満ちた声が交差し、皿が割れる高い音が聞こえる。
「お願い、わかれるなんていわないでっ! あなたしかいないの!」
「お前なんていなくても俺は平気だ。別れたくなかったら酒買ってこい。なんで酒を切らしてるんだよ!」
それからすぐ、鈍い音と、壁に何かが当たる音が聞こえた。
見てはいけない物を見ている。頭ではわかっていたが、目が離せずにいた。声が聞こえるたびに、心臓が強く脈打って、体中が震える。
頬を腫らしたお母さんが、財布を手にして外へ行こうと這いつくばって玄関まで向かう。お父さんは真っ赤な顔で、酒瓶をお母さんに投げつける。お母さんのうめき声と、床に転がる瓶の音。目に焼き付けられるその光景。何度も見た光景。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「謝るぐらいなら、とっとと酒買ってこいよ」
涙を流し、ただひたすらごめんなさいと謝るお母さんの姿。お酒がなくなると、お母さんであろうと暴力を振るうお父さんの姿。
こんなの普通じゃないよ。
これはきっと夢なんだ。何度そう思ったことか。
でも、目を開けると夢じゃなくて現実だった。
「い、いまからかってきます……」
「三分以内な」
「わか、わかり、わかりました」
逃げるように外に出ていったお母さん。残されたのはわたしとお父さん。ドアが閉まると、お父さんは体を反対に向けた。
とっさに身を隠し、姿勢を低くしたまま部屋に戻ろうとした瞬間。
足元にあった缶ビールを倒してしまった。
「……お前――!」
家全体を震わせるほどの絶叫。
逃げなきゃ。殴られる。
わたしが部屋でおとなしくしていなかったから。隠れなきゃ。でも、場所がない。
そうこうしているうちに、お父さんはすぐ後ろに。
髪を引っ張られ、次の瞬間、意識が飛びそうになって、頬にしびれるような痛みが走った。目の前が色んな色で染まり、大きくねじ曲がる。残った手足の感覚を頼りに、逃げようとお父さんに背を向けた。
「おい、なんで逃げるんだよ。お前も俺のことが嫌いなのかっ! 嫌いなんだろ、嫌いだからそうやって俺から逃げるんだよな!」
お父さんは元々こうだったわけじゃない。昔は、楽しかった。いいお父さんだった。暴力も振るわない、優しくて、わたしとよく遊んでくれる大好きなお父さんだったのに。
お母さんが、ああやって浮気して、同時期に以前勤めていた会社をクビになって……今の会社に就職したもののあまりうまく行っていないようで。
わたしの家族はズレていった。
お父さんはお母さんに何度も別れ話をしたけど、お母さんは「あなたが仕事ばかりで寂しかった、ごめんなさい、もうしません」、「もうしない」と言い、お父さんに泣いてすがる。幾度もそんなことを繰り返し、お父さんもとうとう壊れてしまった。
「俺が怖いんだろ。お前は俺に抱きつかなくなった。笑顔をみせてくれることも無くなった。俺やアイツを避けるように生きてる。そんなにうちが嫌なら出て行け!」
怒号が鼓膜を貫く。
四つん這いで前に進もうとするが、力が入らない。
お父さん、ごめんなさい。わたしが、お父さんやお母さんと話すのを避けてるせい。いい子じゃなくてごめんなさい。
体を丸めて、頭を守ろうとする。
硬い拳が腕や太ももに降り注ぐ。
骨が折れるよう、肌が焼けるよう、内臓がえぐられるような感覚が全身を襲った。
かばっていた腕を払いのけられ、太い指がわたしの首を掴む。骨が気道を押して、酸素の行き来をできなくする。血管を流れる血も止まってしまいそうで、視界が段々とぼやけていく。苦しくて、苦しくて、とても苦しい。
過去の記憶が瞼の裏に張り付いて、楽しかったことを思い出せた。
家族で水族館に行ったこと、その時にいるかのぬいぐるみを買ってもらったこと。夕食で、お父さんの大好きなハンバーグが出たときのこと。お正月に、おばあちゃんの家に遊びに行ったこと。幼稚園の運動会のかけっこで一位になったとき、お母さんが「おめでとう」って抱きしめてくれたこと。
わたしは、普通じゃないお父さんとお母さんだけど、大好きだった。