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9、那人、紫奈のカレーを食べる

 那人が親友の夏目と別れて家に帰ったのは夜中の3時だった。


 紫奈には一応、遅くなるから自分の事は気にしないで先に寝ててくれとメールした。

 最近こんなメールをする事もなかった。

 ずいぶん久しぶりだ。

 いつもお互い勝手に出掛けて、勝手に帰っていた。


 でも今日はなぜだか、先に寝ててくれと言わなければご飯も食べずに待ってる気がした。

「そんなわけないか……」


 紫奈に何かを期待する事を諦めて何年にもなる。

 最初は可愛く見えた不器用さも要領の悪さも勘違いも、一向に改善されず成長の見えない失望に苛立つようになった。


 難しい事など何も頼んでいない。

 完璧じゃなくていいから、普通に掃除して料理して子育てをして、そして家に帰れば幸せそうに笑ってくれていれば充分だった。


 時代遅れな考え方なのかもしれないが、那人にとってはそんな家庭が理想だった。


 実家は高級住宅地に広い敷地を持つ旧家だが、別に大金持ちという訳ではなかった。

 代々受け継いだ土地のせいで資産があるようには見えるが、暮らしぶりはとても質素だった。


 代々の土地を手放さないように暮らしていける最低限のお金しかなかった。

 それでも世間では中流といえる範疇かもしれない。


 しかし、高級住宅地のご近所は、みんな豪邸を構えた大金持ちばかりで、そんな友人に囲まれて育った那人は自分が裕福だと思った事などなかった。


 友人が海外旅行だ、別荘だとしょっちゅう出掛けていても、那人の家はたまに温泉旅行に行く程度だった。

 クリスマスには友人の家にはとてつもなく高価なプレゼントがいくつも置いてあるのに、自分は親の許可を得て手紙に書いたおもちゃ一つだった。

 サンタまで差別するのかと腹が立った。

 それでも充分幸せな家庭なのだが、子供の那人は友人に負けているような悔しさをいつも心のどこかに持っていた。 


 そんなハングリーさが、若くして起業する那人を育てあげた。


 子供時代の悔しさを取り戻すようにタワーマンションの一室を買い、派手な暮らしぶりを演出した。




 無理をしていた。



 どれほどセレブぶっても、質素で実直な生活が身に染み付いている。

 大理石より畳が落ち着くし、ソファーセットよりこたつが好きだった。


 そうして肩肘張ってセレブぶるのに疲れた頃に、紫奈に出会った。


 最初はメッキが剥がれそうになっている似非えせセレブに、若い紫奈がいちいち感激してくれるのが心地よかった。


 そのうち必死に自分に合わせようと背伸びする紫奈がいじらしくなった。

 過去の自分に重なった。


 しかも要領のいい自分と違って、何をやっても不器用な所が可愛かった。


 自分はもしかして、必死に背伸びしては失敗を繰り返す紫奈に優越感を持ちたかったのかもしれない。

 恋愛とは、恋や愛などと綺麗な言葉でオブラートをかぶせてみても、結局そんな下世話な感情から始まるのかもしれない。


 でもあの頃はそれが恋だと信じて疑わなかった。

 この子を守って生きて行きたいと思った。


 でも結婚はシビアな現実生活だ。

 可愛いだけで許すにも限界があった。


 それでも自分の言葉に耳を傾けて改善しようと努力してくれるなら我慢できた。


 だが紫奈はセレブな自分を取り繕うのに必死で、驚くほど視野が狭かった。

 無理をしなくていいとどんな風に言ってみても、その簡単な言葉は耳をすり抜け、挽回しなければと更に自分を追い詰めているようだった。


 なにかに洗脳されている人とはこんな感じなのかと思う。


 セレブになんかならなくていい。

 普通でいてくれ。

 無理しなくていい。

 そんな事を望んで結婚したんじゃない。


 どんな言葉を並べても、「お前は俺に釣り合わない」と言われたのだと勘違いする。


 そんな事は思ってもなかったし、釣り合いなんてどうでも良かった。


 でも紫奈はその呪縛に囚われ、すべての言葉を変換してしまった。


 言葉が通じない。


 言葉の意味は理解出来ているのに、彼女の中でいびつにゆがんで、すべてが同じ闇に堕ちて行ってしまう。


 そして、諦めた。


 彼女を変えようとするのを諦めた。


 紫奈を変えようとしてうまくいかないから苛立つのだ。


 だから……。


 自分が変わるしかない。


 彼女が自分の呪縛から解き放たれるまで、なるべくフォローして合わせるしかない。


 紫奈が自分で気付くまで待つしかない。


 そして……。




 待ち疲れた……。



……………………


「ん? この匂いは?」


 鍵を開けて家に入ると、うっすらといい匂いがした。

 普通の家庭ならよくある匂いだが、この家では珍しい。


「カレー?」

 妙なスパイスの匂いじゃなく、市販のルウで作る庶民的なカレーの匂いだ。

 途端に空腹を感じた。


 酒ばかり飲んで、つまみぐらいしか食べてなかった。


 明かりの消えたリビングに入ると、食卓にメモがあった。


『那人さん、おかえりなさい。

 カレーを作りました。

 もしお腹がすいてたら食べて下さい。

 冷蔵庫にポテトサラダもあります   紫奈』


 信じられない思いでコンロにある鍋のフタを上げると、ぷんと食欲をそそるカレーの匂いがした。

「これを紫奈が?」


 何度頼んでも作ってくれなかった。

「そんな誰でも作れる手抜き料理は嫌なの!」


 そう言っていた。


 手を抜いてようが、誰でも作れても、美味しい物が食べたかった。


 那人は鍋を温め直して、保温されていたご飯にかけた。

 よく味の滲みこんでそうな肉や野菜がほどよい大きさでご飯に転がる。


「うまそう……」

 紫奈の料理に初めてこぼれた言葉だった。


 冷蔵庫からポテトサラダも出して食卓に運んだ。


「いただきます」

 そっと手を合わせて、一口頬張る。


「うまい……」


 辛さも煮込み具合もすべてが好みだった。

 夢中で口に運んでいた。


 そしてポテトサラダ。

 これもじゃがいもの潰し具合といい、味の配合といいドストライクだ。


「めちゃくちゃ旨い」

 ポテトサラダも夢中で食べた。


「料理、上手だったんだ……」

 初めて知った。


 いつも得体の知れない横文字料理ばかりで、よく分からなかった。


「なんでこれをもっと早くに出してくれなかったんだ……」


 このありきたりで簡単なカレーとポテトサラダに辿り着くのに、二人は7年もの歳月がかかってしまった。




「遅いよ、紫奈……」


 那人はカレーを頬張りながら、流れる涙をぬぐった。 



次話タイトルは「紫奈、由人に懺悔する」です。


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