6、紫奈、那人さんとの心の距離を知る
「紫奈……。何やってんの? その恰好は……」
「那人さん……。帰ってたんだ……」
呟いてから私は自分の恰好を思い出した。
黒Tシャツに黒スパッツのピチピチタイツ姿の上に、いつも優雅に巻いていた茶髪は頭の上でおだんごにして両手は腕まであるゴム手袋。
そして極めつきは、なぜかシャネルのサングラスだ。
帰ったら妻がこんな恰好をしていた夫の衝撃はどんなものだろうか。
かっと顔が赤くなった。
「ち、違うの! 掃除してて……。すぐ着替えるからっ……きゃっ!」
慌てた私は濡れた風呂場の床で滑りそうになった。
「あぶないっっ!!」
「!!!」
気付くと間一髪の所で那人さんの腕の中に抱え込まれていた。
「!!!」
私達はまるで高校生の初々しいカップルのように、あわてて体を離して目をそらした。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、怪我しなくて良かった……」
夫婦と言っても仮面の時期が長かった。
離婚話が出てからは、顔を合わせば喧嘩するばかりで、こんな間近に接したのも久しぶりだった。
肌が触れ合う事すら、もうずいぶん無かったのだと今更気付いた。
「き、着替えてくるからっ」
逃げるように自分の部屋に行って着替えてから、そろりとリビングを覗いた。
那人さんは食卓に座って、一人でコンビニ弁当を食べていた。
そしてリビングから見える外の景色がすっかり夜になってるのに気付いた。
掃除に夢中になっていて、夕ごはんの準備を忘れていた。
居心地のいい清潔な部屋も大事だが、帰っても夕ご飯の準備をしてない主婦って最低だ。
しかも、まったく期待してなかった那人さんはコンビニ弁当を買ってきていた。
期待を裏切らないダメ主婦ぶりだ。
(私っていっつも肝心な所がダメなんだ……)
優華なら、もっと手際よく部屋を掃除して、「お風呂にする? ご飯にする?」という新妻のお決まり文句を言えてるはずだ。
(ううん。今更優華と比べてもしょうがない。私に出来る事をやるしかないんだから)
私は気を取り直して、那人さんの前におずおずと進み出た。
「あ、あの……、夕ご飯の準備出来てなくてごめんなさい……」
頭を下げて謝る私に、那人さんは信じられないものを見たように目を丸くした。
「え? いや、全然……。というか紫奈はいつものお惣菜屋さんで買って食べたんじゃなかったの?」
そうだ。いつもの私はすっかり夕ご飯を家で食べなくなった那人さんを放っておいて、自分だけセレブ惣菜屋さんの弁当を買って食べていた。
急に自分が恥ずかしくなって俯いた。
「う、うん。夢中になってたらご飯の事忘れてた」
「え? そうなの? ごめん、俺自分の分しか買って来なかった」
「う、ううん。いいの。私が忘れてたんだし……」
言い終わらない内にお腹がぐう~っと鳴った。
か――っと顔に血がのぼるのが分かった。
見苦しいほど真っ赤になってしまった。
「は」
那人さんは笑い声をあげそうになって、あわてて口を押さえた。
「いや、ごめん。バカにするつもりじゃないから……」
こういう時笑われると、以前の私は目くじら立てて怒る人間だった。
カッコ悪い自分を見せまいと余裕のなかった私は、人に笑われるのが嫌いだった。
でも今の私は、思いっきり笑ってくれたら良かったのにと思った。
ただ那人さんの笑顔が見たかった。
「俺の食べさしだけど、良かったら食べる?」
那人さんは黙り込む私に、困ったように食べかけの弁当を差し出した。
「え? でもそれじゃあ那人さんの夕ご飯が……」
「確かカップ麺の買い置きがあったはずだよ。
それ食べるからいいよ」
「じ、じゃあ、私がカップ麺を……」
「いいって。カップ麺が食べたくなってきたんだ」
「あ、じゃあ、お湯を……」
私はあわててキッチンに立って、お湯を沸かす小鍋を探した。
「ここだよ。自分でやるからいいよ」
那人さんは慣れた手つきで小鍋にお水を入れて火にかけた。
そこには自分でカップ麺を作るのにすっかり慣れっこになっている夫の姿があった。
私はもう自己嫌悪で逃げ出してしまいたくなった。
唇を噛んで突っ立っている私を見て、彼はようやくいつもの私に戻ったと思ったらしい。
「そんなに怒らないでくれよ。夕ご飯がカップ麺とコンビニ弁当なんて、紫奈には耐え難い屈辱かもしれないけどさ、俺だってエスパーじゃないんだから。紫奈が夕飯まだだなんて知らなかったんだよ。明日はデパ地下でも寄って買ってくるからさ」
私に文句を言われる前に謝るのが、最近の彼の得意技だった。
「怒ったりなんて……あ……」
ほろりと涙がこぼれた。
「なにもこんな事ぐらいで泣かなくていいだろ?
悪かったよ、ごめん」
那人さんは、いつもの私の泣き落としが始まったと思ったらしい。
「ち、ちが……。そんなつもりじゃ……あ……」
言葉と裏腹に涙が溢れ出てくる。
そんなつもりじゃないのに。
自分が情けなくて悲しいだけなのに……。
でも信じてもらえない。
その程度の自分だった。
あまりに那人さんの心が遠い。
リベンジするなんて途方もない夢のような気がしてきた。
いつまでも涙の止まらない私に、那人さんは小さくため息をついた。
私が泣き落としをするたび漏らす、彼のクセになっていた。
「やっぱ食欲なくなってきた。カップ麺はいいや。
俺シャワー浴びてくるから、その弁当食べていいよ」
彼は小鍋の火を止めて、私から逃げるようにリビングを出て行った。
泣き落としからヒステリックに文句を言い募るいつものパターンが始まるのだと、逃げたのだ。
以前の私は、何十回とそんな事を繰り返してきた。
「うっ……うう……う……」
一人取り残された私は、食べかけの弁当を前に泣き崩れた。
すべてが遅すぎた。
何度も期待して、何度も裏切られた那人さんは、1ミリたりとも私を信用していない。
何もかも悪意から出てくるものだと疑わない。
私は那人さんをそうさせるほど、裏切り続けてきたのだ。
次話タイトルは「紫奈、料理について反省する」です