3、紫奈、改心する
「地獄は次の三つの中から選ぶ事が出来ます。
一つ目は血の海で溺れ続ける、血の池地獄。
二つ目は灼熱の火に焼かれ続ける、火だるま地獄。
三つ目は針の野原を歩き続ける、針地獄。
さて、どれがいいですか?」
「ち、ちょっと待って下さい!
異議があります! 裁判長!!」
私は必死の形相で右手を上げた。
「裁判長ではないが、申してみよ」
赤翁老人が発言を許してくれた。
「わ、私は確かに現世では誰も幸せに出来ず、最後はもしかして那人さんを道連れにするような黒い計算が心のどこかにあったのかもしれません。でもそれだけで地獄行きとはあんまりじゃないですか?
世の中には私よりもっと悪い人がたくさんいます。
人を憎んだり、陥れたり、殺したり。
少なくとも私は自分から人に危害を加えようとした事なんてないです!」
「し」
師?
「しし」
師、師? この流れはまさか……。
「しししし……愚かじゃ……ししし……」
「しで笑わないでもらえますか? 気持ち悪いんです!」
私はまだ、しし笑いを続けようとする老人に抗議した。
「……」
途端に老人達は気分を害したように黙り込んだ。
「と、とにかく厳し過ぎます!
私が地獄行きなら、世界の半分以上が地獄行きになります。
そんなだから地獄が溢れてしまうんです!
法の改正を要望します!」
「そなた勘違いをしているようじゃの」
灰色帽子の老人が小ばかにするように口を開いた。
「勘違い?」
「これは霊界裁判じゃ。
そなたらの世界とは法も判断基準も違うのじゃ」
「判断基準って?」
「そう。例えばあなたの今の世界で殺人は最も重い罪です」
若い紫翁が自分の役割とでもいうように説明し出した。
「ですが、時代が違えば敵を多く殺した者が英雄になる場合もある。
国が違えば、今現在も英雄と崇められる国もあるでしょう。
あなた達の世界の法など、時代と共に180度変わる。
強者に都合いいように作られた方便です」
「じ、じゃあ、あなた達の法では何が基準になるのよ」
「我々は現世を修行の場として提供しています。
あなたの夫が悪妻をうっかり娶って、大変な苦労を背負うのもまた修行。
彼自身が望んだ課題です。
彼はその課題に果敢に挑み、行動し、努力し、一つの悟りを得た。
それこそが正しい生き方です。
彼は今生でステップアップを果たし、次の生は更に高い課題に挑む事でしょう」
いつの間にか悪妻呼ばわりされている。
確かにそうだったのかもしれないけど……。
「極端な言い方をすれば、殺人を犯した人間でさえ、その後、深い悔恨と反省を貫いて生きれば、地獄に行かない場合もあります。私達の判断基準で言うなら、あなたの方がよほど最低な人生だと判断する事になるでしょう」
「な、なんで私が殺人犯より最低なのよ!
おかしいわよ、そんなの!
私は誰も傷付けてないじゃない!
しかもお母さんのために一生懸命生きたじゃない!」
「ああ。一番問題なのはそこですね」
「そこって?」
「お母さんのために? お母さんに言われたから?
あなたの意思は? あなたの目標は?
あなたの反省は? あなたの悟りは?
あなたはお母さんの言いなりになるために、わざわざ生まれたんですか?」
「そ、そんな事言ったって……」
「あなたはそうやっていつもお母さんのせいにして生きてきた。
不幸なのも貧乏なのもお母さんのせい。
不器用なのも要領が悪いのもお母さんの血。
自分は何も悪くない。
そうやっていつも責任転嫁して、反省も悟りもないまま漠然と生きてきた。
宿命にだけ振り回され、自分で何かを変えようと一つも努力して来なかった。
違いますか?」
「だって……、しょうがないじゃない。
小さい頃からお母さんの劣等感を肩代わりして生きてきたのよ。
私に何が出来たっていうのよ……」
「確かに幼少時は、親の影響を受けるのも仕方ないでしょう。
それも修行のシステムに組み込まれたものです。
でもあなたは25才になっていた。
少なくとも18才で結婚した後、あなたは母親の影響を逃れ、自分の課題をクリアする時間があったはずだ。
しかし、あなたは今度はすべての責任を夫に転嫁した。
違いますか?」
「そ、それは……」
「付き合ってた当時のように構ってくれない。
前ほどチヤホヤしてくれない。
お金にシビアになった。
仕事ばっかりで遊びに連れて行ってくれなくなった。
自分が文句ばかり言うのは、自分がわがままに見えるのは、自分がダメな主婦なのは、全部全部夫のせいだ。
そう思ってたんじゃないですか?」
「だ、だって……」
「しかも子育てにおいてはどうですか?
自分が髪を振り乱して育児に追われている時に、大学生の友人はサークルに合コンに海外旅行にと楽しんでいる。
結婚してなければ……。
子供さえいなければ……。
そんな風に子供にやつ当たりした事はなかったですか?」
「……」
返す言葉もなかった。
すべてその通りだから……。
「結局あなたは何一つ自分の意志で取り組もうとする事もなく、自分の人生を他人任せにして責任転嫁して、思うようにならなければ、誰かのせいだと反省すらもしなかった。
あなたは霊界裁判において、最も輪廻転生する価値のない人間なのです」
輪廻転生する価値のない人間……。
それが判断基準……?
私はガクリとうな垂れて床にへたり込んだ。
突然、曇りガラスがクリアになったように自分の生き様がはっきり見えてきた。
思い返してみれば、私は何一つ自分の力で運命を切り開こうとはしてなかった。
ただ与えられる環境に振り回されただけで、自分の意志で何もしていなかった。
ただ一つ成功だと思っていた結婚すら、結局那人さんに愛される事に溺れただけで、私自身が那人さんを愛して彼のために何かをしようとした事すらないのだった。
なんで生きてる間に気付けなかった?
なんでもっと自分の人生をがむしゃらに生きようとしなかった?
なんで那人さんをもっとちゃんと愛そうとしなかった?
愕然と座り込む私に緑翁が気の毒そうに言葉をかけた。
「最近は自分の人生に向き合えない若者が多いのじゃよ。
時代が便利なせいか、何もかもが面倒になって、夢を叶えるのも、恋愛するのも、更には人と話すのも、家から出るのさえ面倒になってしもうた。
才能に恵まれなかった?
容姿に恵まれなかった?
金持ちじゃなかった?
もっと良い条件で生まれ変わってやり直す?
自分の人生を切り開く努力をしなかった者が、もっといい条件に生まれる変わるはずがなかろう。
そんな事をしても、器と中身の落差が大き過ぎて、結局は破綻する。
どれほど条件が悪くとも、命さえあればいくらでも飛躍出来るというのに」
淋しげに俯く緑翁に変わって赤翁が続けた。
「そうしてせっかくの生を、何も経験せず、何も行動せず、何も反省せず、何も悟らず、ただ食べて寝てを繰り返し、この裁判を迎える。
もちろん地獄行きじゃ。
なぜなら、輪廻転生しても同じ事の繰り返しじゃからのう。
どうしても這い上がりたいという欲求が出るまで無限の地獄を経験する事になるのじゃ」
「じゃあ私は……」
優華みたいな完璧な女性に生まれ変わるなんて所詮無理な望みだった。
「本来なら間違いなく地獄行きじゃ」
「本来なら?」
「リベンジシステムじゃ。
もう一度現世に戻って、自分の課題を自覚し、それを克復するチャンスを与える。その克復レベルによっては、地獄行きを回避し、あるいはもっといい条件に生まれ変わる可能性も出てくる」
「一人目の治験者になってみるか?
最初の一人だから、我らも手厚くサポートして行こう」
「や、やります! やらせて下さい!!」
即答した。
だってやらなければ地獄行きなのだ。
やるしかない。
「ではお待ち下さい。
芥城那人に宿命書きの変更を要請してみましょう」
青翁がメガネの裏を見つめて、どこかと交信しているようだ。
「彼はすでに課題を克服しておるからのう。
本来ならそなたを亡くして、新たに今度こそは幸せな家庭を築くはずじゃった。
課題追加を嫌がる魂も多いのじゃ」
それってまるで私が現世に戻ったら、那人さんが不幸になるみたいじゃない。
ふいに泣きたくなった。
私がこのまま死ねば、那人さんは優華と幸せな家庭を築く運命なのだ。
それを私がまた邪魔しようとしている。
どこまでいっても私は疫病神なんだ。
それが悲しかった。
「芥城那人から変更承諾の返事が来ました。
システム導入可能です」
青翁がメガネの裏を読んで、報告する。
「あの……、もし那人さんが嫌だって断ってたら……」
「もちろん地獄行き決定じゃ。
非常に向上心の高い魂のようじゃな。
ラッキーな相手と結婚したものじゃ。
そなた、玉の輿にのったのだけは確かじゃな」
(那人さん……。
ありがとう……。
こんな私を見捨てずにいてくれて……)
魂の判断で、本人は知らない事かもしれないが、沸々と感謝の気持ちが湧き上がった。
「では、リベンジシステムの導入に先立って、一つだけ約束事があります」
青翁が契約書を読むようにメガネを読む。
「システムに期限はありませんが、この霊界裁判の事を少しでも現世で話してしまったら、そこで終了となります。その場で意識を失い、本当の死を迎える事になります。
くれぐれもお気をつけ下さい」
「は、はい。分かりました」
「それからオプション機能を用意していますが、つけますか?」
「オプション機能?」
「反省を促すための映像を、必要に応じて夢の中で流すというオプションです」
「な、なんだか分からないけど、全部つけといて下さい」
「分かりました。では随時設定しておきましょう」
「ありがとうございます」
「では現世に戻る前に、現実を見せておこう」
黄翁が、つと天井を指差すと、そこに巨大なスクリーンが現れた。
そして……。
「那人さん……と……優華……?」
頭を抱えて座る那人さんの横に優華の姿が見えた。
その手前にベッドがある。
たくさんの管が機械から伸びて、モニターが波形を刻み続けている。
そのベッドに横たわるのは……。
(私?)
そして二人の話し声が聞こえてきた。
「あなたのせいじゃないわ、那人さん」
「いや、運転してたのは俺なんだ。俺のせいで紫奈が……」
那人さんの頭にも包帯が巻かれていた。
「目撃者もいるのよ。紫奈が運転しているあなたの視界を防ぐように覆いかぶさってたっていうじゃない。
こんな言い方良くないかもしれないけど、紫奈はもしかしてあなたを道連れに死のうとして……」
「そんな風に考えたら気は楽だろう。
でも紫奈は突拍子もなくて浅はかな所もあるけど、人の命を奪うような事を画策できる子じゃないよ」
「そ、そうね。ごめんなさい。
つい那人さんの気持ちを軽くしてあげたくて、紫奈を疑うような事を言ってしまったわ。
私はひどい人間ね」
「いや、優華ちゃんには感謝してるよ。
紫奈のためにつきっきりで看病してくれて、目が覚めるようにとずっと声をかけてくれてるって聞いてる。
本当にありがとう」
「親友だもの、当然よ」
優華は心配そうに那人さんの背に手を添えた。
二人の距離は縮まり、切なそうに見つめ合っている。
「那人さん、どうか一人で抱え込まないでね。
私に出来る事があれば、何でも言ってちょうだい」
「ありがとう。優華ちゃんは本当に優しい子だね」
そのままキスでもしそうな雰囲気だった。
でもさすがに寝ている私の前では遠慮したのか、見つめ合うだけだった。
ただ、二人が惹かれ合っているのはよく分かった。
私が現世に戻れば、確実に惹かれ合う二人を引き裂く邪魔者だ。
誰も喜ばない。
一人息子の由人も、私よりも優華に懐いている。
私はみんなを不幸にするために戻るようなものだ。
「今現在、そなたを心から必要としてる人間は誰もいないじゃろう。厳しいリベンジの始まりじゃぞ。
覚悟はよいか?」
私は静かに肯いた。
ここで自分を客観視して、不思議なほど真実の自分がクリアに見えるようになった。
そして自分のすべき事も。
「はい……。私は那人さんをもう一度奪い返すために戻るのではありません。
私は、私の生きた証を刻むために……。
愛している人にきちんと愛情を伝えるために戻ろうと思います。
たとえ誰も受け取ってくれなくても、迷惑だと断られても、私は私の意志と責任で正しいと思う愛を、より純粋で誠実な愛を、実現するために……」
「うむ。覚悟は定まったようじゃの。では戻るがよい」
誰も待ってない世界へ……