美食
一部グロテスクな表現があります。ご注意ください。
また、この作品はフィクションです。実際の事件等とは一切関係ありません。
【美食】
<序>
その事件は、ごく普通の、どこにでもあるような集合住宅で発生した。
べっとりと化粧で顔を厚く塗り固めた女アナウンサーが、神妙な面持ちで、自ら書いたわけでもない原稿をさも自分の言葉であるように読み上げる。
事件のおおまかな内容は、とある集合住宅の貯水槽で半ば白骨化した死体が見つかったこと、容疑者、被害者ともにおおよその見当がついていること、警察では慎重に調べを進めていること……と、普段よく見かける面白おかしい出来事の一つだった。いい加減な感想を二言三言言い合い、次のニュースに移る。
そう、これは、死体がどこの誰か明らかになったし、犯人も捕まった。無事に事件解決でマスコミに食い散らかされておしまいになる、ありふれた殺人事件に過ぎないはずだった。
この、集合住宅に住む者だけが知っている続きさえなければ。
<1>
近頃、ミネラルウォーターばかり飲んで水道水を飲まない人がいるらしい。同じ水だし、水道水の方がよっぽど安上がりなのに一体どうして、一体なにが水道水を頑なに拒む理由になっているのだろう。そんなことを考えながら、今日も今日とて僕は水道水を飲む。どういうわけか会社で飲む水よりも、飲食店で飲む水よりも、家の水がおいしい。蛇口をひねりコップに注ぎごくごくとのどを鳴らして飲むと、不思議と腹が減ってくる。いつまでも飲み続けていたいのだが、あいにくとそうはいかない。僕はコンロに火をつけ、鍋に水を張った。もちろん、水は水道水。今日はスパゲッティにしよう、と決めていたのだ。
スパゲッティが茹で上がり、出来合いのソースをからめて食べながら今日の新聞、そして折り込みのチラシに目を通す。昔からの性分で、どうにも読むものがないと落ち着かない。
新聞に躍る記事は相変わらずの政治への批判と、同じようなものばかりの殺人事件、そしてしばらく前にニュースを賑わせた凶悪犯罪の裁判について。あまりに代わり映えのしない記事を、それでも記者は懸命に興味をそそるように書いていく。
記者様も頑張るものだな、と思いながらも記事全てに目を通すこともせず適当に流し読みをしていく。スポーツ、介護なんて欄はなおのことだ。ざっと、職場での話題に困らない程度に読み終えると今度はチラシに手をのばす。
読むものがないと落ち着かないくせに、僕はずいぶんとわがままな性格だった。相当気になるもの、気に入ったものでなければ読み切るなんてこともできない。我ながらもう少したくさんの本や文章を読めばいいのに、と自分に苦笑する。
チラシはどれもこれも派手な文字が、これでもかとやかましく家電だの野菜だのがお買い得だと叫んでいた。赤、黄色、青、緑……とうるさい衣装を着てけばけばしい化粧をほどこされた文字たちは、いっそ哀れに思えるほどだ。これもまたいい加減に読み、スパゲティをすすりながら片づけていく。
チラシの山が半分ほどになったところで、はじめてパソコンで文章を作成したような、とても単純な紙が一枚でてきた。それは小学校のときもらっていたおたよりのような、会社の書類のような、質の悪い紙に黒いインクで刷られた、文字だけのチラシだった。
ごちゃごちゃとデコレーションされた中で、その一枚はかえって浮いていた。なんのチラシかと思い手に取る。
「ああ、点検のお知らせか。」
なんてことはない、貯水槽の点検のお知らせだった。どうせここに記載されている時間は仕事へ行っているし、なんら問題はない。僕はスパゲティにからみきれなかったソースを口に放り込むと食器を台所に置いて、読み終わった新聞のテレビ欄だけを抜き、それ以外の紙類は古紙回収のためにまとめた。
なんとなしにつけたテレビに映った時刻を見て、そういえば今日は早番じゃなかったか、と気付いた僕は、あわてて支度をし、ネクタイもきちんと締めないままに家を飛び出した。
ぐったりとした僕の表情を見て、女子高生がクスクスと笑いながら通り過ぎてゆく。ああ笑うがいい。笑われた方がまだ良いくらいだ。今日は実に悪い一日だった。ネクタイも、窮屈に身体を締め付けるスーツも捨てて帰りたい衝動を、ぼんやりとした理性が押しとどめる。
頑張った結果、電車は乗り逃すし、たまたま機嫌が悪かった上司に些細な間違いでねちねちと怒られるし、既に妻子ある身の同僚の不倫現場を目撃してしまうし、たまには違うものを試してみるかと買ってみた弁当はまずいし、僕がもし占いを信じる人間だったなら、今日はそういえば星座占いで最下位だったと落ち込むことも出来ただろうが、あいにくそういった類のものを全く信じない僕には責任転嫁をするあてもなくただ自分を責めることしか出来ない。おまけに酒も飲めないから、忘れることも叶わない。しょんぼりとしながら鍵を取り出し、ドアを開ける。ただいまを言わなくなってからどれほど経ったろうか。悲しいほどに孤独な僕は、妙に広い部屋の中でひとりぼっちの食事を摂った。いつか慣れるだろうと思っていた一人分の調理、一人分の食事、一人分の皿洗いにはちっとも慣れなくて、早く誰か良い人でも見つけないと、僕は寂しさで狂ってしまうな、と現実味のない空想にふけってみたりもするがあまり意味はなかった。
皿にぶつかって跳ねる水の音ばかりが耳につく。滑らかに指の間をすりぬけてゆく、どうしてかおいしく感じる水道水。枯れることなくこんこんと蛇口からあふれてゆく水がもったいない。急いで皿洗いを終わらせると、僕は早々に布団の中にもぐりこんだ。風呂は朝入ればいい。早く今日という日を終わらせたい。そう願って目を閉じたところで、都合よく眠気の波が僕を襲った。
<2>
翌朝僕は、何故昨日のうちに風呂に入っておかなかったのかと激しい後悔に苛まれていた。どう考えても時間が足りない。よっぽど役に立たなかった目覚まし時計を壁に投げつけ壊してやろうかと思ったが、そんなことをする暇さえいまはない。朝食も食べずにシャワーだけを浴びて、今日こそは電車を乗り逃すまいと固く決心をして部屋を出る。いらいらと腕時計とにらめっこしながら走ってゆく僕を笑うように、雲一つない空は抜けるようで、静かに晴れ渡っていた。
どうにか間に合った幸福感と朝食を食べなかった空腹感が、ちょうど半々で僕を満たしていた。いい加減に書類を作成しながら、昼食になにを食べるかということばかり考える。すぐ近くの洋食屋のハンバーグ定食、少し歩いたところにある大手チェーン店の豚丼、うまいと社内で評判だが、食べたことのない弁当屋……食べ物の匂いを想像するだけで胃が切なくきゅう、と泣く。あと三時間頑張れば腹いっぱいに食べることが出来る。しくしくと嗚咽を漏らす胃を必死でなだめ、僕は入ったばかりの後輩にあれこれと指示を出す。懸命に仕事を覚えようとする後輩の姿に、今日はおごってやるから、と言うと、彼ははじめて僕の前で笑顔を見せた。その表情が愛おしくて、今度時間が合えば飲みに連れて行こうと僕は彼の了解も得ずに勝手に心の中で決めていた。
同じようなスーツ姿の人々が、古びた洋食屋に吸い込まれるように入ってゆく。店の姿は未だ昭和をひきずっていて、おそらく昔は良い男だったのだろう店主もどこかくたびれた中年で、恰幅が良いといえば聞こえは良いが、むちむちとした二の腕や、大きく出っ張った腹は、食べ物屋の主人でなければだらしないという印象しか与えないだろうほどだ。
後輩は唐揚げ定食を、僕はさんざん悩んだ末に結局いつもの通りハンバーグ定食を頼んだ。なんとはなしに店内に置いてある小さなテレビに目をやると、見慣れた風景が画面の中に映っていた。まさかそんなはずはあるまいと思ってもう一度目をこらすと、やはりテレビの中には僕の住んでいる集合住宅の姿があった。
僕の家だ、とつぶやくと一斉に狭い店の中にいた客がテレビと僕を交互に見つめ、どんなニュースが飛び込んできたのかと不思議な一体感でブラウン管の分厚いテレビをのぞき込む。
「……市にある都営住宅では……貯水槽の点検をしたところ……の中から半ば白骨化した死体が発見されました……」
薄気味悪いニュースだね、と言って他愛のない話に戻ることができたのなら、どれだけ幸せだっただろうか。ようやく満腹になり幸福感に満たされそうだった心はたちまち不安と恐怖に覆われる。
いてもたってもいられず、上司にことのあらましを大ざっぱに説明し、どうやって帰ったのかも覚えていないが仕事もそこそこに切り上げ事件の発覚したばかりの自宅へとたどり着いた。家の周りには、腐肉に沸く蛆のように大量の取材陣が蠢いて、事件の詳細を探ろうとしている。こんなときばかり恐ろしいほどの早さで情報を集めてくる奥様たちの話が、自室に入っても薄い壁を通してなんとなく伝わってきた。少し落ち着こうと水を飲むためにコップに注ごうと思ったところで、僕はコップを取り落とし派手に音をたてて割ってしまった。いくつもの尖った破片を片付けることも思いつかず、ただがくがくと震え、嘔吐した。
たしかあの貯水槽は、飲用水を貯めているものではなかったか。
いままでの水の味の違いは、気のせいではなかったのではないか。
この集合住宅の人々は、僕は、死体の入った貯水槽の水を飲み続けていたのではないか。
僕は生まれてはじめて、神に向かって祈った。
どうか、そうではありませんように。どうか、死体の入っていた水をおいしいと飲んでいたわけではありませんように。
嘔吐物も、割れたコップもそのままに、僕は意識を失うように強引に眠った。
まるで眠れば事件はすっかり解決して、もしかしたら死体入りの水を飲んでいたかもしれない過去さえなくしてしまえるかのように。
<3>
死体入りの水を飲んでいたなんて、そんなことが起きた場所には誰も居たくはないだろう。
しかし皮肉なことに、この都営住宅に住むおよその人々はこれ以上行き場のない、貧しい人がほとんどだった。
引っ越すことも叶わず、ただ時間が事件を風化させ、やがて綺麗に忘れることを祈りながら、今日も働き、あるいは家事をこなし、努めて普通の、いわゆる「日常」を取り戻そうと必死だった。当然、事件のことを話すことはタブーになり、あれは夢だったのだ、というくらいの扱いにまでなった。
そんな生活を送る中、時々、年に一回あるかないかの頻度でぽつりぽつりと行方不明になる者が出た。多くの場合は、一人暮らしの、散歩なのか徘徊なのかも分からず町中をさまようことがままある老人で、家族や親戚とも連絡がとれない場合がほとんどだった。
一方僕は今日も会社へと出勤し、たくさんの仕事をこなし、例の後輩もずいぶんと動けるようになり、そこそこ充実した毎日を送っていた。このまま収入が増えれば、近々あの都営住宅からは引っ越さないといけなくなるだろうな。もともと両親が借りていたところにだらだらと住んでいるだけなんだし、などと思いながら弁当を頬張る。
僕の予想はぴたりと当たっていた。丁寧な言葉で書かれてはいるが、もう出ていけと書かれていることに変わりはない。同棲する相手もいないから安くて小さなアパートを借りることにして、都営住宅の管理人さんに、もうしばらくしたらここを出てゆくことを改めて告げた。すると管理人さんはいつものようににこやかな笑顔で、それなら斉藤さん、次の休みにでも少し話をしないかと訊ねてきた。もしかしたら、お別れの酒でも飲むのかと思い、管理人さんのことが嫌いではない僕は手帳を取り出し日にちを教えた。管理人さんはにこにこと嬉しそうに、ありがとう、と笑った。
<4>
件の日になり、一体なにがあるのだろうとラウンジ(というほど立派なものでもない、ただの広く場所がとってあるところだ)へ向かうと、管理人さん以外にもよく見かけるおばさんや、いつも僕に話しかけてくれるおじさん、それから僕が小さな頃からずっと見た目が変わらないおばあさんたちの姿があった。僕が入るのをたしかめると、管理人さんはゆっくりと扉の鍵を閉めた。
「斉藤さん……いや、勇気くん。君がいなくなってしまうのはとても寂しいよ。
思えばご両親が亡くなってから、行くあてのない君が懸命に働いて、やがてこんなにも大きくなって、ついにはここから引っ越すなんて、私もとても嬉しいよ。
けれど、君も知っているだろう。『あの日の事件』
……あれが起きて以来、ここは少し変質してしまったんだ。悲しい形にね。
死体の入った水を飲み続けていたと知った『あの日』から、私は喉が乾いて仕方がなくなった。どうにも死体が回収され、綺麗な水が出るようになった水道水では、満足できなくなったんだ。」
なにか、なにかがおかしい。
じわじわと這い上がる恐怖が、目を見開かせ、耳を鋭くさせ、しかし思考を鈍くさせる。
「もう分かってしまったかな。ぽつぽつと行方不明の人が出ていたことも、死体もなにも見つからなかったことも。」
「まさか……嘘でしょう、管理人さん。」
「嘘なわけないじゃないか。私が言っているのは、全て、マスコミたちにまで見捨てられ、警察にも見向きもされなくなった哀れな都営住宅に住む人の、狂った末路さ。」
管理人のどこまでも静かな笑みに、僕は逃げだそうと立ち上がった。その瞬間、太ももから血が吹き出て僕はたちまちくずおれた。包丁で腱を切られたのだ、とようやく気づいたときに、僕の首に刃が触れた。
そこから先は、なにも分からない。
<終章>
とある集合住宅の貯水槽の中に、死体が入っていた。犯人はつかまり、死体がどこの誰かも特定された。
しかしその集合住宅では、それから、独り身の人が時折行方不明になることがあった。親戚とも疎遠な者、そして死体も見つからないのでなにも手がかりはつかめないまま。
今日も管理人さんは愛想の良い笑みを浮かべ、おいしそうに肉を食べている。
【了】




