10.いただきます
お腹が減ったら、戦も恋も、できないみたいですよ。
はじめて目を合わせた瞬間から、もしかしたらわたしはもうすでにあなたに“落ちていた”のかもしれないね。
世界がスローモーションに動いた。これが世間で言う“恋に落ちた”瞬間なのだろうか。情けないことに二十歳にもなってやっと気付く、恋という感情。やっと女の子としてのスタートラインに立てたような気がする。
わたしが走りだそうとするずっと先の道で、おしゃれでかわいくて物知りで尚且つ恋の駆け引きが上手な女の子たちが勝気な表情を見せて手を振っている。そんなに急ぐ必要がどこにある?
“ばかねー!恋愛は奪い合いなのよ!弱肉強食なの!ボケッとしてたらあっという間に置いてかれるんだから!”
いつか経験豊富な友達がビール片手に力説していたことばを思い出す。わたしはひとり拳をぎゅうっと握りしめた。たっっくさんいる恋のライバルとやらへの闘争心を新たに秘めて。ほどけた靴ひもに足を掬われてすっ転んだって、顔面泥だらけになったって、鼻血垂らしながらでも彼のところまで走っていきたいと思うから。
『春ちゃーん?』
ヨーイドン!の合図で走ろうとしたら、いきなりの声援のせいで出遅れてしまった。振り返れば、手を振って笑っている坂田くんの姿。自覚したとたん、更にキラキラして見えるから驚き。妖精さんの魔法の粉を全身に纏っているみたい。耳元で唱えられた魔法の呪文みたいな囁きに、パチンと目が覚めた。
『春ちゃん?店、入らねーの?』
「え!?え、えっと…」
『どっか具合でもわりーの?』
「…さ、坂田くん」
『んー?なーに?』
「わたし近くにあるコンビニに寄ってから行くね」
『え?』
「ダッシュで行ってくる」
『ちょっ、春ちゃん』
「気合い入れてくる!」
『まっ、』
窓越しで携帯を耳に当てたまま慌てて立ち上がった坂田くんにぺこりと頭を下げて、横断歩道を渡ってすぐのところにあるコンビニに向かう。右も左もわからない恋の行方。困ったときはとりあえず甘いものを食べる!これ鉄則なり!
今日は少しだけ奮発して、生クリームあんぱんを購入。
目と鼻の先に坂田くんたちのいる居酒屋さんがある。坂田くんにはすぐに戻るとその場のハイテンションで言ってしまったけれど、この生クリームあんぱんを食べて気合いを入れて心臓のざわざわが落ち着いたら合流することにしよう。
近くにあったミルク色をしたベンチに座って、一口目をがぶり。生クリームとあんこの甘さがちょうどよくてとても美味でございます!口をモグモグさせながら見上げたお空の色は紺色に近い夜空。一番星はどこに隠れているんだろう。
「春ちゃん、こんなところで何してんの?」
急に映りこんだのは、まぬけ面のわたしを見下げる整ったお顔。少し頬が赤いのはお酒を飲んでいた証拠だ。
驚きのあまり両手でぎゅうっと握りつぶしてしまった生クリームあんぱんからは中身がぶにゅうっと溢れてしまった。あ、靴ひもがほどけたまんまだ。このままだと、頭から転んでから回る可能性大。
もちろん靴ひもを結びなおすひまもない。わたしが慌てている間に坂田くんは、「すーぐ戻るって言ったのに、ウソついたー」と、口を尖らせながら自然な動作で隣に座ってわたしの泳ぐ瞳を覗き込んでくる。
「探しにきてくれたの?」
「んー…だって、春ちゃんが俺の目の前にいたのにいなくなるしーそんなん生殺しじゃんとか思ってさー」
「え?」
「もう俺の目の前から消えたらだめだかんな!もし消えたらつねるからっ!わかった〜!?」
「は、はい」
「うん。よしよし〜〜」
にこにこ笑いながら両手でわたしの頭をぐしゃぐしゃに撫で回してくる坂田くんは、わたしから見ても酔っぱらいさんなのが分かる。酔うと坂田くんはかわいらしくなるんだなあ。また貴重なものを見ることができた。
手はあんぱんのせいでふさがっているので抵抗することもできずされるがままの状態。満足したのか坂田くんがにしゃっと笑って手を止めた。
「春ちゃん、かわいい」
「あ、ありがとうございます…」
「へへ〜」
ふにゃっと笑う坂田くんにつられてふにゃっとなるわたしの心臓。かわいいのは坂田くんだよ。
「…食べたくなるくらいかわいい」
「食べ…?」
「へへ〜」
「じゃあ、食べる?」
「…え?」
もしかして、お腹が空いているのかもしれない。なんとなくそう思って、首を傾げる坂田くんの口元に遠慮がちにあんぱんをもっていく。ゆっくりと坂田くんがわたしを見上げた。
「…うん、食べる」
「じゃあ、はい。一口どうぞー」
「…いただきます」
あんぱんを持っているほうの手首をぐっと掴まれたまま、坂田くんの顔が近づく。目と目が一瞬だけ合う。そして、噛み付くようにして食べられたのだ。
…生クリームあんぱんじゃなくて、唇を。