ショート:グルーミー・クラウディー・オーバーキャスト
頭が痛いって嘘ついて、学校を休んだ。
少しくらいお母さんが心配してくれると思ったけど、昼食は店屋物を頼みなさいといって、お金をわたしに渡す。聞きたくないのに、今日も帰りは遅くなるからと言って、家から出ていった。
少しの間、本当の病人みたいに、ふとんをかぶって目を瞑る。
チクタクチクタク。
いつもは気にならないのに、壁時計の音がうるさい。
チクタクチクタク。チクタクチクタク。チクタクチクタク。
その音から逃げるように、家から飛び出した。
ずる休みして遊ぶことができなかったわたしは、町から反対の方向へ歩きだした。立ち並ぶビルは見えなくなっていくのに、コンクリートの道はどこまでも続いていく。
見上げた空は青い。腹立つくらいに。
腹立つ? 空はそこにあるだけなのに、どうしてわたしの心をいらだたせるのだろう。いつもは、そんなこと思わないのに。
たぶん、空じゃなくて子猫だとしても、今はこんな気持ちになるに違いない。
楽しいときは、天井を眺めていても楽しい。
世界は、わたしの心次第でできているっていうことなんだろう。
だったら――うん、楽しいことを考えよう。
空を見上げる。
青い空。
憂鬱。
でも、好きになろう。どうやって好きになろう。
そうだ、名前をつけよう。犬みたいに。なにがいいだろう。
青空太郎。かっこわるい。
青空二郎。かっこわるい。
語彙も感受性もないわたしにはいい名前は思いつかない。
――青空三郎っていうのはどうだい?
だから、かっこわるいよ。え?
――この流れなら、それしかないし。三度目の正直っていうじゃない。
まわりを見渡した。誰もいない。
――ね、それでいいでしょ。オーケイ?
あうん。促されるようにうなずく。
――初めまして。お嬢さん。僕の名前は青空三郎。もちろん、男だよ。なにがもちろんなんだって、言われると困るけどね。しかし、なんでだろうね。女の人は、一子、二子、三子っていわないのに、男にだけそういうのがあるのは。やっぱり、女の子は愛されているからなのかな。だからこそ、一つ一つ名前をちゃんと考えくれる。そういえば、お嬢さんの名前はなんなのかな?
彼の問いに、わたしは答えることができない。マシンガンのように言葉を重ねられるのに馴れていないのもそうだけど、状況が全然把握できないないのが一番の理由だった。
いったい、なにが起こっているのだろう。
青空三郎? わたしはおかしくなったのだろうか。
――おかしくなったんだよ。ほんの少しね。でも、悲観しちゃだめだよ。悲観したら、言葉どおりにただ悲しくなるだけだから。さっき、決めたじゃない。世界の彩りを決めるのは、自分次第。ポジティブシンキングに行こうって。でも、受け入れる時間が欲しいよね。ちょうど、そこに公園がある。子どものころに戻って、ブランコに乗りながら考えよう。
あうん。
――あーだめだめ。自分の意志でうなずかないと。そうしないと、詐欺師にだまされちゃうよ。奥さん、この商品はいいですよ。買いますか。こくん。ありがとうございます。五十万円です。…………。え、買えない? 買うってうなずいたじゃないですか。もう、契約したからだめですよ。わかりましたか? わかりましたね。……こくん。ありがとうございます。こんな風にね。どうする?
公園に行く。今の自分を考えたいから。
でも、ブランコには乗らないよ。さすがに恥ずかしいし。
――了解。んじゃ、行こうか。
そして、公園のベンチに座った。一人くらいは遊んでいる子どもがいたっていいのに、わたしの他、誰もいなかった。それと、ブランコもなかった。あるのは、すべり台と砂場。そして鉄棒があるだけ。
はぁ、とため息が自然と出てきた。
わたしはおかしくなってしまったのだろうか。そうなんだろう。聞こえもしない声が聞こえてくるのは、明らかに異常。なんでこうなってしまったんだろう。前向きになろうといった瞬間、現実から逃避してしまうなんて。
――現実逃避がなにが悪いんだい? みんな、そうやって生きているじゃない。漫画や小説、映画、テレビ、それはすべて作りものさ。それにみんな心をいやされている。あー別に現実が辛いっていいたいわけじゃないよ。架空のものだって、辛い出来事が起こっている。お菓子は砂糖だけでできているわけじゃない。塩だって使うことあるからね。あ、疑っているでしょ。本当に、塩を使ったお菓子があるんだよ。
お煎餅のことでしょ。
――洋菓子でなんだけどね。ま、いいや。
ねぇ、青空三郎さん。訊いてもいい?
――なにをだい、お嬢さん。
さっき言ったでしょ。女の子は愛されているって。それって本当なのかな。わたしはお母さんに愛されているなんて思えない。
頭が痛いって言っても心配してくれなかった。
仕事に行ってしまった。
テストがいい点数を取ったときも喜んではくれなかった。
点数が悪かったときも怒ってくれなかった。
――お母さんは、君を愛しているよ。
それを判らせてよ。
――空が青いのは、なんでだと思う?
え?
――それは人の瞳が空を青く見せているんだ。でも、色付きのサングラスをかければ別の色彩を写し出す。そうなると空は青くない。それをお母さんに当てはめてみよう。お母さんは君を愛していない。心の持ちようで、お母さんを愛していると思えるかもしれない。逆に、本当はお母さんは君を愛しているのに、君の心が勝手に愛していないと思わせているのかもしれない。そんなのは判らない。だから、お母さんは君を愛しているんだと言えるんだ。判らないなら、なんだって言える。君は、お母さんに嫌いって言われたの? 言われてないだろ。だったら、愛しているかもしれないだろ。だったら、愛しているって思おうよ。そうすれば、君が幸せになれるんだから。
それって――
ただの勘違いかもしれないじゃないか。
――結局は勘違いさ。勘違いしながらみんな生きている。愛だって、友情だって、お金だって、みんな勘違い産物さ。本当は確かめようもないのに、二人は永遠の愛を誓う。いつかは別れて、思い出すことすらなくなるかもしれないのに、堅い握手をする。国が利便性を求めて造った紙切れでしかないのに、人はそれを価値のあるものだとして利用する。違うかい?
なにも言えなかった。何年も一緒にいる人のことも判らない。
友達がなにを考えているのか判らない。
それなのに、平然と生きている。
それなのに、わたしのことを判ってくれないと悲しみにくれる。
わたしも相手のことを判っていないのに
――違うよ。そんなことはない。世界は勘違いだけでできていない。
え?
――もちろん、きれいなイコールで結ばれるようなことはないけど、確かに愛情はあるんだ。君が生れたとき、お母さんはなにを思っただろう。君がお腹にいる間、お母さんはなにを思っただろう。お父さんと結ばれたとき、お母さんはなにを思っただろう。そこに、それまでに、一瞬でも感情が重なったときはなかったのかな。ないわけがない。だから愛情はあるんだ。たしかにあるんだ。それは勘違いじゃない。勘違いなわけがない。絶対に愛情はあるんだ。君は愛されているんだ。
そうなの?
――それも勘違いなんだ。勘違いと思うのも勘違いなんだ。勘違いを勘違いと思うのも勘違いなんだ。勘違いの勘違いを勘違いと思うのも勘違いなんだ。
袋小路だね。
――その通り、頭で考えている以上はそこから抜け出すことはできなくなる。でも、間違いなく空は君の上にある。ペンキで塗ったような青い空が広がっている。白いカーテンのように雲が浮かんでいる。涙を流すように雨が降り注いでいる。抑えきれない衝動のように嵐が襲い掛かる。なんだっていいよ。グラデーションに色づいた空でも、綿菓子のような雲でも、バケツをひっくりかえしたかのような雨でも、アイドルとは違って笑顔をみせない嵐でもさ。空は空。僕は僕。そして、君は君。それだけは勘違いできない。
――なら、君はどうする?
そのとき、突然、空から落ちてきた水の雫が頬の撫でた。見上げると、青空は灰色に塗り替えられている。思考を巡らせていて、空が陰りはじめていたことに気づかなかったらしい。
青空三郎さん? 青空三郎さん?
問いかけても彼は答えなかった。雨雲二郎さんがわたしの心から彼を追い出してくれたのだろうか。
それとも、ただ口をつぐんているだけなのだろうか。
それとも、もともと青空三郎なんていなかったのだろうか。
判らない。答えは目を凝らしても見つかりそうもない。
次第に、雨が激しくなっていく。
それでもわたしは腰をベンチからあげることはなかった。
傘も差さずに、服が濡れて重くなるのをただ感じていた。
このまま、この場所にいれば、本当に風邪をひいてしまうかもしれない。
だけど、まあ、どうでもいいや。
なんだか清清しい気分だ
心の中が晴れ渡っていくみたい、なんて言葉が思い浮かんだときに、わたしは気づく。
こんな気持ちにしてくれたのは、青空三郎さんがかけてくれた魔法なのだと。