話が違う契約は破棄できるか否か
***警告
変態が出現します。
漂う、漂う
何もない空間を只々ひたすらに。
時間も何もない、ただそれだけの虚の中。
ひんやりとした流れが市生の体を押し流し、どこかへと連れて行く。
ひんやりとした――
いや待て、それはおかしい。
あの虚の中は、気温なんて無かったはずだ。なんとも言いがたい空間に、形容がつくのはおかしい。
それは、あの場所ではあり得ないこと。
心なしか息も苦しい。
心なしかどころではない。
苦しいのだ。
驚いて口を開ける。すると、一気に大量の空気が外へ出ていってしまった。
苦しい。苦しさが増して、いよいよこめかみの辺りが絞られるような感覚がしてくる。
無意識に腕を動かし、周囲の水をかいた。
水
水、そうだ。自分は水の中にいる。
しかも深い。体の全てが水に浸かっているのに、まだ足がそこにつかない。流れこそそう早くはない、口から入った自らも変な味はしない。
これが溝川だったら、助かっても体の不調からは逃れられないだろう。
いよいよまずい、どれだけ足掻いても肺に酸素のない体は沈んでいく。
当然苦しい――苦しいっ!!!!
このままでは死んでしまう。別にそれ自体はどうでもいい気がするが、溺死のこの苦しさだけは勘弁して欲しい。
無理だ、こんな苦しい死に方だけは無理だ。
絶対に嫌だ。
そう思いながらも、苦しんで意識を失ったのは・・・最悪だった。最悪の感覚だった。
*****
どこかで誰かが喚いている。そして
『――・・・るじ・・・・・・じ?・・・生きてらっしゃいますか?』
体を揺すられている。しかも、かなり激しくだ。
「主っ、目を開けてください!主!」
煩い。とても煩い。ぼやけた思考の中にやけに響く声だ。忌々しい。
必死そうではあるが、こちとら瞼は重いし体も重いし、指先一本動かすだけでも重労働だろうに。そして異常に寒い、とにかく寒い。
『主・・・っ』
とうとうというか、瞼を閉じたままの市生を揺すっている人物は泣き始めた。
死んだとでも思ったのだろうか。
少なくとも心臓は動いているはずだ。自分はこうして意識があるし、非常に・・・非常に重労働ではあるが、体だって動かせる、はず。
擦り付けられる頬?が温かい。相手にはしっかりと体温というものがあるらしい。
意識を失う前、自分は冷たい水の中で溺れていた。
なるほど確かに、死人に相応しい体温だろう。
もしこのまま、死人と間違われて土に埋められたりしたら事だ。
溺死寸前の次は生き埋めと来た。
それは遠慮したい。とても遠慮したい。
「し・・・んで、なぃ・・・・・・けど・・・?」
『・・・っ!主・・・っ』
「ぁ・・・るじって、なに」
私の名前はアルジなんてもんじゃなかったはずだ。市生・・・これは姓だが、それっぽいものをこの十六年ほど呼ばれていた記憶はある。
『死んでしまったかと思いました。もう少し早くにお助け出来れば・・・このように冷えて・・・・・・傷ましい』
可哀想に・・・と、やけに感傷的な声が脳内に響いたと思えば、抱き上げられていた体勢からさらにきつく抱かれる。力がやったら強い。
「ちょ・・・っと、くるし」
ついさっきまで溺死寸前だった人間の貴重な酸素補給活動を奪うな馬鹿。この阿呆。
というか何で
「は、だか・・・って」
私も相手も裸らしい。触れ合う肌の面積が嫌に多いし・・・それに、その・・・当たっているのだ。アレが。
どうやらこちらをギュウギュウと抱きしめている人物は異性。市生は生物学上は女のはずだから相手は男。
どうだろう、この状況。
『主、主・・・我が愛しの君』
・・・アルジ、は名前じゃないことが発覚。
そして何だそれ、その、鳥肌がたってどうしようも無くなりそうなサムい表現は。
「はなせ、阿呆」
『ああ、お怒りなのですね。早くお助けできなかった俺を責めてらっしゃるのですね』
「ちがう、悟れ」
違うんだよお馬鹿。もっと根本的におかしいことがあるだろうが馬鹿。お前は救いようのない馬鹿だな馬鹿。
『無理にお言葉にせずとも、思ってくださるだけで構いませんよ我が君』
そしてスルーか。いい度胸だ。
『・・・異性同士である二人が布一枚隔てない状態で抱き合っている状況を貴方はどう思う』
『かまいませんよ?俺と我が君であれば』
『・・・とにかく放せ』
何をのうのうと宣うのかこの男は。
しかも一向に離さないし、「主」だの「我が君」だのと形容しておきながら命令違反とはいい度胸だ。
『お体がとても冷えていらっしゃいます。俺が熱を分けなければ』
死んでしまいますよ・・・?
そう言って、半分脅しまがいの方法でこちらを黙らせようとする辺り強かな臭いのする男だ。そして鬱陶しいことこの上ない。
嫌いな性質だ、心底嫌だ。どっか行け、変人。
『火を焚ける?』
『はい、既に。ですが足りませんので』
『人目は』
『ございません。深夜ですし、獣の多い場所ですから』
強かだ、心底強かだ。こっちの否定材料を最初っから全部潰そうとする辺り、この男の基は――
『あんた、あの虚の中に居た奴らだ』
『よくお判りに』
『口調を変えれば誤魔化せると思ったんだ、阿呆』
『口調は・・・これは俺たちが混ざって出来た性質ですから?自然な状態ですよ』
『混ざった?』
『子細は後に、今は眠ってください。俺が温めますから・・・責任持って』
抱き上げられている場所が男の、恐らくは膝の上なのは、市生の体を地面に晒さないためか。ゆったりと揺らぐ光を瞼に感じる辺り、本当に火を焚いてあるらしい。
『脚』
『はい?』
ふと、自分が抱かれている場所が気になった。
『辛かったら、降ろしていい。後、よかったね』
草の上だろうが、平らな石の上だろうが、ひと一人の重さを抱えて座るのは辛かろう。次に立ち上がるとき、痺れて悶絶するのはまず間違いない。
『足は、大丈夫ですが・・・どうしてです・・・?』
しかし、彼が気になったのは後に続いた言葉のほうだったらしい。
『あそこ、出たかったんでしょ』
あの闇の意味。それがあるならば、「意味のないこと」が意味だったのだろうから。
そこで思考出来ていた彼等は、一体どんな思いだったのか。
私を引きずりこんで、そこで何を願おうとしたのか。
あそこは、とても禍々しくて、でも穏やかで。市生にとってはとても安らげる場所だった。『何か』である必要性のない、虚。
しかし彼等は意志があった、思考していた。茫洋と漂うことを望んだ、停止を望んだ自分と、恐らくは会話によって自己を保とうとしていたはずの彼等は違う。
『・・・・・・』
『――・・・違うか、消えたかったのか』
願いには他者が必要で、彼等には出来ないことで。あの停止した、時のない場所では不可能なこと。
外部との連結が可能だったのなら、足掻けば外界も望めたはずだ。
ならば、かれらは何を望んだ?
自身ではどうしようもないことを市生に望んだとしたのなら。
不可能を望んだのだとしたら。
それは死、存在の消滅だ。
時がなければ、過ぎ去る過去もやって来る未来もない。
死は訪れるものだ。
彼等は市生にそれを望んだのだろう。
ならば――
『な、ら・・・悪いことした』
結局、市生が願ったことも叶いはしなかったけれど。
それは彼等も同じで。
市生自身の他力本願よりも、彼等はより強く自分に縋っていたのだから。
『あたしは・・・べつにいい、あんたは好きにすれば』
熱があるなら、死ねるだろう。
冷たくなる、という選択肢が生まれたのだから。
彼等の願いは、きっと叶う。
後は好きにすればいい。
眠ってしまった・・・。
『ええ、我が愛しの君・・・好きにさせていただきますよ』
少し茶色がかった黒髪が、今は湿って黒に近い。
長いまつげに縁どられた瞼が今は降ろされ、時折ひくりと動きはするが、目覚めには至らない程度だった。
愛しの君。そう呼ぶ意味を、貴女はわかっているのだろうか?
それはある意味、呪縛の言葉でさえあるというのに。
安らかに寝息を立てる貴女はそれに気づきはしなかった。
否、わかっていて容認してくれたのかもしれないな。
無意識に、意識的に、彼女はそれを選択した。
彼女は、俺が必要な存在だとどこか深いところで解っている。
ここで生きるために。命を繋ぐために必要だと、知っているのだ。
俺達と混ざることを選び、同時に願いも叶えることを選んでくれた。
あそこから、あの留まった場所から出られなかった俺達を外へ引きずり出すためにその身を溶かし込み、奇跡的なタイミングで願いを叶えて、その対価である「外へ出る」ことを選択した。
どこまでも優しいひと、愛しい女。
女性独特の、円やかな頬を撫でる。
目を覚ましていたら顔を顰めるだろう距離まで顔を近づけて、匂いを嗅ぎ、この身の匂いを代わりに馴染ませる。
この体、実体を与えてくれた彼女に、この身を捧げるのは当然の事だろう。
もちろん、以前のように影に溶かし込む事は可能だが、今は彼女を温めてやりたいし、何より触れていたい。
俺の住処は彼女の生み出す影、その全て。
俺の支配下にあるのは、この世の全ての影、闇、夜。
黒と藍とに属する全てが俺の手足となりうる。
そして、その全ての権限は彼女のものになる。
俺が彼女のモノだから。この身はこの腕の中のひとへの捧げ物。髪の毛一筋、涙の一滴まで彼女のために費やす。
そう、それこそ悦んで。
この身を費やすことこそ至福、最上の快楽。
俺はこの女のためにあってこそ満たされる。
彼女は眠る寸前、「好きにしろ」と俺に言った。
俺の望むままに振舞えと。
ならば、好きにさせてもらおう。
どこまでもどこまでも彼女に尽くしてみせよう。
この女が愛するのが俺だけになるように。
俺だけが在ればいい、全てが足りると言ってもらえるように。
愛しの君のための完全を
この身の全てはただ、貴女のために。