仕置きを受ける年ではないが
あれ?なお話
呑み込まれた。
黒くて、昏くて、淀んだものの中に。
絡め取られ、縛られて引きずり込まれる瞬間。瞼を閉じたよりも暗い中へ入る前に、リアは意識を失った。
懐かしいほどに馴染む感覚、無いはずのそれがあると感じるということは、リアはここに混じれていないということ。
悠久の、時の概念から見放された虚の中。
そこへ引きずり込んだのが誰なのか、彼女は縛り付けられた刹那で理解した。
体を絡め取る影の腕から伝わる憎悪と焦燥。
今、洞の中にはなかったはずの光がある。
チカチカと、弱々しく。しかし唯一のそれは、リア自身だった。
あの馬鹿の中では、彼女こそが唯一の兆し。あの存在の全ての目的は、リアの元に帰結する。
ああ、何て重い奴。
この身にはあまりに重すぎる加圧だった。想いが重すぎて、リアには何も返せない。
ただ縛り付けられ、足掻き、応えることすら出来ないほどに。
シェヴァは忘れているのだろうか、彼女が何を選んだか。
以前は選択もすることなく、利己に生きていたリアが選んだものを忘れたのだろうか。
リアは、あの闇に交わることを選んだのに。
「最悪・・・」
「起きましたか」
目覚めは最悪だった。
四肢は重く、おまけに頭の中がどんより濁って心地悪い。
だというのに、その原因となった人物だけは飄々としていて。リアはそのことに眉を顰めた。
一体どんなつもりであんなことをしたのか。
そして何時の間にやら、家に戻ってきているし。
「いきなり、何」
「貴女が俺から逃げようとするからですよ」
逃げる?
何を言っているやら、リアが離れたのは厄介ごとからだ。それを引き連れて行軍してくるシェヴァに寄り付かせないようにするのは当然のこと。
何が不満だ、自業自得だろうが馬鹿、変態。
シェヴァが、その瞳に蕩けそうな憎悪をのせて微笑む。それを誰に向けているのか。
こちらの言い分など端から聞くつもりもない。ましてや、なんだかんだでリアの意志をなあなあにして煙に巻く。この馬鹿は普段からそんなことばかりやっている。
「最悪」
「何がです?気分がですか、それとも自分の判断を責めてらっしゃるんですか?」
「お前だ阿呆」
もういい、とそう思って体を起こした。
やはり怠い、身体中の神経がもたついている。
リアは自分の中の何か、いうなればあの虚と混じり合っていた部分が波打つように体内を乱すのを感じた。
のろのろと動き出し、寝台から出ようとする彼女の身体をシェヴァはしかし、再び寝台へと引き倒す。
当然のごとく呆気無く、寝台へと逆戻りだった。
「我が君」
「何」
「どうして、俺から離れました?」
「あの皇子が面倒だったから」
「影を切り離す必要がありましたか?」
「あったね」
「どうしてです?」
「あんたが居ると、皇子が寄ってくるから」
質問と尋問と、境目のわからないような問答をシェヴァと続ける。
リアは、重い頭で一言一言投げ捨てるように答えた。
起き上がれないように寝台に押し付けられた肩が痛い、絶対痣になることだろう。
そもそも、皇子が寄ってくるからシェヴァから離れて、再びそれが起こらないようにシェヴァ自身から離れるのは当然の措置だろうと思うのに。何故、この変態はここまで怒りを顕にしているのか。
「それに、いい加減・・・」
「いい加減?」
訊き返す微笑は崩れないまま、リアの中身を抉りとろうとしている。
リアは、深く・・・深く息を吐く。
それは諦めと呆れ、疲労を込めたものだった。
「邪魔だったんだよ。少し離れたかっt―――っ」
肩を締め付ける力が強くなり、鈍く痛みが伝った。
続けた言葉が、目の前の男の張り詰めたなにかを打った切ったとわかっていても。
「貴女は、自分のしたことをわかっていらっしゃらないみたいですね・・・我が君?」
言わずにはおれなかった、主張。
*****
沈黙が重い。
「わかっていない」と宣ってからこっち、シェヴァはただひたすらにリアを見つめてきた。
何かを探るように、視線が彼女の輪郭をなぞりその線を確かめているように見える。
姿勢をひくりとも変えないまま、視線だけがゆったりと、しかし忙しげに何かを確認していた。
「シェヴァ」
「何でしょう」
「何してるの」
「貴女の身体の内部の構成に解れがないか、確認を」
「は?」
内部の構成?なんだソレは。肝臓がどこにあるかとか、そういう事か。
訊き返したら、深い溜息が聞こえた。シェヴァが、呆れと安堵を込めた息を吐いたのだ。
「取り敢えず、問題は無いようですね・・・良かった」
肩に置かれた掌が退かされて、体が楽になる。さらには労るようにそこに口づけられて、混乱した。
「本当に、危なかった・・・もう少し遅ければ」
肩から背に回った腕、もう片方が腰に回されたと思えば、あっという間に膝の上に抱き上げられた。
「ちょっと、苦しい」
「黙ってください」
圧死の次は絞め殺すつもりなのか、体に回された腕の力は矢鱈滅多に強い。
抵抗できないのは、腕も一緒に体と纏められてしまっているからだ。
力が強すぎるせいか、錯覚か、その腕が震えているような気がした。
震えて、確かめるように目で追って、抱き締める。
そんな確認動作をする場面を知っている。
「もしかして、影を切り離すと――」
「死にます」
やっと気づきましたか、と責めるようにさらに抱く力を強くされた。
既に鯖折り状態に突入中である。
「泣いてるの」
「いいえ。ですが我が君、俺が・・・どれだけ恐ろしかったかおわかりになりますか?」
「知らない」
「知ってください、そして二度と、二度とあのようなことは・・・っ」
懇願するシェヴァの言葉を、締め付けられる痛みを感じながら聞いていた。
知るか、そう思った傍から掻き消えるように別の感情が湧いてくる。
死の可能性を突きつけられた畏れと、僅かな期待。
「楽に死ねるとはお思いにならないでください。身を引き裂かれる痛みで発狂するハメになりますから」
釘を指すように言われた言葉に、即座に期待が消えた。
痛く苦しい死に方だけは御免だ。つい最近経験した溺死だけで、もう腹いっぱいである。
「ねえ、苦しい」
体を捩ると、今度は普通程度にまで力を弱められた。
体が下へとずれて、胡座をかいた膝の上に座る形になり、視線が合う。
先程まで見えなかった表情は、今見れば苦痛を訴えるように歪んでいた。
普段飄々かつ慇懃無礼な男が、情けない顔を晒している。それでも見苦しくないのは、美形補正のせいかはたまた、それに心を打たれたせいか。
「貴女は、俺と存在の一部を共有しているんです」
しなければならない、と言ったほうが正しいでしょうか。
唐突に始まったシェヴァの説明。
場を濁すように、静かな声が自室に響く。
「俺が根源として、貴女はその一分を存在に取り込んでいます。支配権を切り離す、ということは貴女の一部分を切り離してしまうに等しいんですよ」
「だから、切り離せば死ぬって?」
「死ぬのではなく、消滅ですよ。あやふやなまま個を保てず、掻き消えます」
消える、とは・・・。
シェヴァにとってもそれは、きっと恐ろしいことなのだろう。それがリアならば尚更のこと。
しかし、それに何も思えない心はどうなってしまうのか。
何も、外界のことを求められないリア自身は。
目の前の男がどれだけ何かを求めようと、リアはそれに対する欲求を持つことなど出来ないだろう。
それが、とても理不尽に感じる。
シェヴァとの離別が存在の消滅を表すというならば、それを選んでしまいそうな彼女自身をどうすればいい。
それを哀しくおもう。
執着という言葉を知らない自分を、流されるままのこの身を愛していたはずなのに。
「リア」
「・・・何」
何を考えていらっしゃいます?
思考が途切れたせいか、ぼんやりとした間があった。
何を思っているのかと訊く顔が、焦燥を宿していることも、それを見て想う心が騒ぐことも。
全てはきっと、この男と繋がっているせいなのだろう。
そうすることで、納得したかった。
自分の中に何かが生まれたわけではないと。
何かの要素が入り込んできただけだと。
リアは、ともすれば抱返してしまいそうな自分の腕が恐ろしくて。
ただ只管に、彼女自身の内にあるという、何かがそうさせているのだと云い聞かせるしかなかった。
羽が降るような口づけに
暖かく、あやすように撫でる掌
身の内の熱に狂ったような時間
結局のところ、それらを一度として拒めなかったのも
きっと、そのせいだろう。
彼女のおもいと、ついでに何か。
何がどうしてこうなったかは、きっと誰にもわからない。