第7話:黄金色の残響
朝食のテーブル。
エリナは、いつになく真剣な表情で私を見つめていた。
「アリス。昨日、ホイップクリームが
すごく上手くいったんですってね。リシアから聞いたわ」
その視線には、ただの優しさだけではない、
職人としての、そして店を切り盛りする経営者としての
鋭さが混じっている。
「もしあなたがカスタードも、シュー生地もこなせるなら……うちの店で出せる生菓子が一気に増えるわ」
「……それは、この店にとって大きなチャンスなの」
エリナの言葉は、売り上げを伸ばすための「戦力」として、
私を値踏みしているように感じた。
「やってみる価値はあると思うの。
……アリス、シュークリームに挑戦してみない?」
「シュークリーム……っ!」
思わず、自分の手を見つめる。
昨日、あのホイップを作った時の、
自分の意思を離れて動いた指先の感覚が、熱を持って蘇る。
隣に座るリシアが、私の手をそっと包み込み、
穏やかに微笑んだ。
「私も、アリスが焼いたシュークリーム、食べてみたいな」
「……きっと、優しくて、甘い味がすると思うから」
藍玉色の瞳を細めたカトルは、
私から一瞬も視線を外さなかった。
その前足の先で、尾が小さく一度だけ揺れる。
私は、値踏みされている。
そう理解した途端、心臓の鼓動が早まった。
厨房に立ち、ボウルと鍋を前にする。
レシピの手順を頭でなぞろうとするけれど、
どこか現実味がない。
その時、足元から「……フンッ」と、
短く鼻を鳴らす音が聞こえた。
緊張で浅くなっていた呼吸を、私は意識的に整える。
――その瞬間。
私の意識よりも先に、
膨大な「記憶」が脳内に直接流れ込んでくる。
(……あ、これ……知ってる)
まぶたの裏で、
ぼやけていた景色が急速に色づき、熱を帯びる。
銅鍋の中でバニラビーンズが踊る光景。
卵黄と砂糖をすり混ぜる時の、手に伝わる重み。
沸騰直前の牛乳を細く注ぎ込む、その一筋のライン。
私の意思とは関係なく、身体が勝手に動いていく。
まるで答えを知っているかのように。
強火にかけた鍋の底を、木べらが猛烈な速度で、
正確になぞり続ける。
ある瞬間、クリームがふっと軽くなり、
宝石のような艶を放つ。
「今」だと、指先が叫んだ。
焦げ付く寸前、滑らかさが頂点に達した瞬間に、
火から下ろし、氷水で急冷する。
一切の迷いがない、鮮やかすぎる手際。
鍋から立ちのぼる甘い香りが、少し遅れて鼻腔を満たした。
唾液が滲んだのに、
なぜか「食べたい」という感情だけが、湧かなかった。
それは私の努力の結果ではなく、
ただ、外から強制的に書き込まれた、
「完成された技術」のようだった。
「……ええ。よくやったわ。完成よ」
カトルの涼やかな声で、
私は深い陶酔から無理やり引き戻された。
目の前には、私のものではない記憶が作り上げた、
完璧なカスタードが輝いていた。
(なんだ……これ、どうなってるの……)
私は、私ではない別の誰かが作ったクリームを、
ただ呆然と見届けることしかできなかった。
指先に残る熱い脈動だけが、これが現実だと告げている。
エリナはその光景に、驚かなかった。
かつて、この地に異界から意志を継いで生まれ落ちる
生命があると聞いたことがある。
その多くは、古の伝承でこう呼ばれていた。
――異界の子、あるいは星渡り。
(そんな、まさかね……)
だとしても、
製菓の才を持つ星渡りなんて、聞いたことがない。
エリナは自身の思考を振り払うように、
わずかに首を振った。
「なるほど。……じゃあ、次はシュー生地ね」
「うん……やってみる」
……私は、再び深呼吸をする。
映像はもう流れなかった、
だけど、取り込まれた映像を元に「熱」と「粘度」の感覚を、
必死に自分のものとして手繰り寄せようとする。
鍋で水とバターを沸騰させ、
小麦粉を一気に加えて練り上げる。
鍋底に薄い膜が張る感触。
卵を少しずつ加え、木べらを持ち上げた時に生地が
「逆三角形」にゆっくり落ちる――。
その粘度と光景を、指先は確かに覚えていた。
「よし……っ」
天板に丸く絞り出し、オーブンへ入れる。
けれど、ここからは「記憶」だけでは通用しなかった。
最初は、表面だけが固まり、ひび割れた。
次は焼きすぎて、黒く縮んだ。
三度目は、生地が揃わず、形にならなかった。
感覚はあるのに、制御できない。
オーブンという道具が、私を拒んでいるみたいだった。
(……どうして。感覚は、残っているのに)
焦りで手が震え、
四度目の生地を前に立ち尽くしたその時。
「アリス、焦らないで。……大丈夫だよっ」
背後から、リシアの長くしなやかな腕が私を包み込むように重なった。
私より少しだけ高い体温。
柔らかな吐息が耳元に触れて、心臓がトクンと跳ねる。
「窓からじっと見てて。
全体がしっかり膨らんで、溝の奥まで色がつくまで」
「……扉は、私がいいって言うまで開けちゃダメだよ」
リシアの声は優しくて、温かくて、
私の焦りを魔法のように溶かしていく。
(……この人と一緒なら)
リシアのアドバイスを頼りに、じっと窓を覗き込む。
やがて、生地は力強く隆起し、
香ばしい色が隅々まで行き渡った。
「……焼けた!」
取り出したのは、少し不格好だけれど、
しっかりと空気を抱き込んだシュー。
何者かが与えた「技術」と、リシアが私を導いた「経験」。
二つの光が重なって、
ようやく「シュークリーム」が形になった。
――でも、それが「私ひとりの力」ではないことだけは、
はっきりと、分かっていた。
カトルが満足げに前足をひと舐めする。
「……ええ。定着したようね」
その藍玉色の瞳は、成功を喜ぶ私の影が、
リシアの静かな抱擁に深く溶けていくのを、
静かに見つめていた。
窓の外、天高く昇った陽光が街路を白く照らす。
カランカラン、と乾いたドアベルの音が店内に響く。
「あら、エリナ。今日もいい香りね」
「あ、いらっしゃい。ちょうど焼き上がったところよ」
エリナは作業の手を止め、
馴染みの客へ柔らかく目を細めた。
いつもの席に、いつものように、ご案内する。
「今日は少し趣向を変えてみたの。アリス、お出しして」
エリナに促され、
私は小さなテーブルへシュークリームを運ぶ。
不格好な形を隠すように皿を置いた私に、
夫人は「あら、今日のは少し個性的ね」と、
楽しげに微笑みかけた。
夫人がフォークを入れ、一口、ゆっくりと味わう。
私は配膳トレイを胸に抱えたまま、
その様子を逃げることもできずに見守っていた。
「……まあ。なんて優しい味。クリームが、こんなに滑らかだなんて。まるでプロがつくったみたいね」
私は一瞬、返す言葉を探して、
小さく息を吸った。
「あ……ありがとうございます」
そう言って、一度だけ会釈をして、
トレイを胸に抱えたまま、静かに厨房へ戻った。
表の看板を下げ、今日の営業を終える。
リシアは「女神様へ報告してくるね」と告げ、
いつものように淡々と礼拝堂へ向かった。
彼女が家を空けている間、
私は厨房でエリナの夕食作りを手伝う。
無駄のない動きで野菜を刻み、
アルミの鍋を操るエリナの背中。
そこには、私の頭の中に強制的に流れ込んできた、
あの映像とは違う、長い年月をかけて積み上げられた
本物の重みのようなものがあった。
私はその背中を盗み見るように、
ただ静かに手伝いを続けた。
やがてリシアが戻り、
テーブルにはトマトとガーリックの香りが漂うパスタが並んだ。
「アリス。本当によく頑張ったわね。」
パスタを取り分けながらエリナは呟くように話す。
「……あれだけの短期間で、あのレベルのクリームを
仕上げるなんて、並大抵の才じゃないわ」
エリナはフォークを置き、私をまっすぐに見つめた。
「ねえ、アリス。
あなた……本当に、誰にも教わっていないのよね?」
「……うん」
嘘はついていない。教わったのではない。
私はただ、あの瞬間、
何かに「書き換えられて」しまっただけなのだ。
エリナはそれ以上追及せず、
「ん、そっか」と、ただ一度だけ、深く頷いた。
「アリスの手は、もう職人だね。
うちのお店に欠かせない人になっちゃったねー」
戻ってきたリシアが私の手首に指先を滑らせ、
うっとりと呟く。
リシアの言葉に、エリナは何も答えなかった。
カウンターで丸まっているカトルだけが、
藍玉色の瞳で、この奇妙な沈黙を愉しむように眺めていた。
食事の後は、決まってリシアとお風呂に入る。
一日の幕を下ろす為の儀式のひとつ。
浴室の湯気の中に、リシアの甘い香りが満ちる。
「アリス、今日も髪を洗ってあげる」
背後に回ったリシアの指先が、
私の頭皮を優しく解いていく。
「アリスのシュークリームさ、
私、世界で一番好きだったよ。……形は面白かったけどね」
クスクスと笑うリシア。
「アリスをここに連れてきて、本当によかった」
この一言は、何気なく彼女が言ったはず。
けれど、私の心には、一滴のインクを落としたように
深いところに居座って、澱みを作ろうとしていた。
彼女の腕が、吸い付くように私の肩を抱く。
「ずっと、ここにいて。……ずっと、私のそばで、
私のためにお菓子作って欲しいなぁ」
包み込む彼女の温もりは、どこか熱すぎて、
肌を刺すような違和感が残る。
それは、オーブンの前で感じた「救い」と、
表裏一体の「鎖」のようだった。
暗闇の中、リシアの穏やかな寝息だけが聞こえる。
私は布団の中で、自分の指先をじっと見つめていた。
あの時、何かが私の内側で弾け、勝手に身体を動かした。
火加減、温度、リズム。
私の身体を通り過ぎていった、誰かの記憶。
(……この手は、本当に私のものなのかな)
この急激な上達は、私自身の努力の結果ではない。
何者かの意図によって塗り替えられ、そして……、
リシアの祈りによってこの場所に縫い留められていく。
「おやすみ、アリス……」
眠りの中でも、リシアは私の腕を離さない。
私はその温もりに不安を溶かされながら、
黄金色のクリームが波打つ、夢の中へと落ちていく。




