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第6話:白い波紋、揺れる記憶



朝、隣にリシアの気配はもうなかった。



洗面台で顔を洗い、

肌を刺す水の冷たさに冬の足音を感じる。



一階へ降りると、

リシアとエリナが並んで朝食を摂っていた。



「あら、お寝坊さん。おはよう」

エリナがくすりと笑う。



リシアは焼きたてのパンに、

あの日作った真紅のジャムをたっぷりと乗せていた。



私も慌てて席につき、温かなスープとパンを胃に収める。



「そうだっ……今日は、お菓子作り、やってもらおうかな」



カモミールが香るハーブティーを飲み干した頃、

リシアが私を真っ直ぐに見つめた。



「……え、いいの?」



お世話になり始めてから、

どう働けばいいのか見当もつかなかった。


まさか、私がこの手で誰かのためにお菓子を作るなんて。



「アリスが作るお菓子、食べたいからさ」

リシアはそう言って、屈託なく笑った。



「やってみな。言ったでしょ、働いてもらうって」

エリナも静かに頷く。



決まり、とリシアが手を叩き、

私たちは並んで厨房へと向かった。



厨房の空気は適度な湿度と温かさを保ち、

どこか背筋が伸びるような神聖さがあった。



――ここは、リシアの聖域だ。



「調理器具は魔道具を使うんだよ。……まずはね、

基本のクリームの泡立てから練習してみようか」



リシアが冷蔵魔道具から生クリームを取り出し、

ボウルに氷を当てる。


砂糖を計り、

ホイッパーを手にする動きには一点の淀みもない。



「あとは泡立てるだけ。角が立つくらいまで、やってみて」



リシアが手本を見せるように少しだけ泡立ててから、

私にホイッパーを託した。



彼女の瞳には「最初は難しいよね」という、

年下を労わるような色が浮かんでいる。



その時、足元でカトルが低く鼻を鳴らした。



 ――まぶたの裏に、突然、映像が浮かぶ。



煤けた厨房、磨き上げられた大理石の台。

知らないはずの場所。


私はその映像に手を伸ばそうとするけれど、

それは陽炎のようにふわっと消えてしまった。



(なんだったんだろう……今の)



「考えたって無駄。手を動かしなさいな」


カトルが笑うように鳴く。

私は深く息を吸い込み、冷やされたボウルに向き合った。



 ――まただ。


指先が道具に触れた瞬間、

意識が肉体から離れ、知らない誰かの記憶に、

この指を貸しているような感覚に陥る。



手首の角度、空気を巻き込む速度、

ボウルの底を叩くリズム。



私の意思とは関係なく、筋肉が最適解をなぞっていく。



液体だったクリームが、刻一刻と表情を変える。



緩い波紋が、

次第に重みを帯びたうねりへと変わり、やがて――。



気がつくと、ボウルの中には、

完璧な八分立てのホイップが出来上がっていた。



ピンと角が立ち、それでいて先端がわずかに折れる、

宝石のような艶を纏った白いクリーム。



「えっ……と、アリス。どこかで、作ったことある?」

リシアが驚きに目を見開く。



「昔……母と、少しだけ」



そう答えたけれど、自分でも分かっていた。


そんなレベルではない、もっと深くて昏い場所にある

「違和感」が、私の心に微笑みかけている。



「ふん。匂いが少し、濃くなったわね」

カトルは満足げに前足を一度だけ舐めると、

厨房を去っていった。



その日は、何度もクリームを泡立てた。


店の営業中も、厨房の隅で一人、七分、八分、全立て……

異なる硬さを指先に叩き込む。



経験なんてないはず。なのに、感覚だけで分かる。


一度レシピをなぞれば、

まるで何年もその道具と共に過ごしてきたかのように、

身体が馴染んでいく。



その確信に似た疼きは、

今の私にとって唯一の「光」であり、

同時に正体の分からない「毒」のようでもあった――



営業が終わり、やがて静かな夜が訪れる。


王都ルーナ・ノッテの名の通り、天上に掲げられた月が、

石畳の街並みを青白く照らし出していた。



昼間の喧騒が嘘のように静まり返った店内に、

月光が窓から細長く差し込んでいる。



そんな静寂とは対照的に、奥の居住スペースの食卓には、

エリナが手際よく仕上げたトマトとフレッシュハーブの

パスタが並んだ。



リシアが手伝って打ったという太めの麺は、

噛むたびに小麦の香りが弾け、酸味の効いた特製ソースが

絶妙に絡んでいる。



パスタを一口運んだ瞬間、私は思わず動きを止めた。


「……え、待って、これ。美味しい……」



思わず零れた本音に、エリナが反応する。



彼女はフォークを置き、

ずり落ちたメガネを指でクイッと押し上げた。


その拍子にレンズが部屋の明かりを白く反射して、

彼女の瞳を隠すように煌めいた。


「フフフ……うちの新入りを満足させられたかしら?」


レンズの奥でニヤリと不敵に笑う彼女は、

いつもの厳しい店主というより、

どこか茶目っ気のある職人の顔をしていた。



そんなエリナを差し置いて、

リシアは今日の出来事を共有する。


「アリス、すごかったんだよっ。

初めてなのに、完璧なクリームを作れちゃって」


「製菓のセンスも、きっと私よりあると思う」


リシアが弾んだ声で今日の成果を報告すると、

エリナの視線が再び鋭さを取り戻す。



「……ふーんっ、才能。あるんだ」



単なる賞賛ではなく、何かを確かめるような視線。

彼女はそれ以上は何も言わず、また静かに食事を再開した。



カウンターの端では、白猫のカトルが

藍玉色の瞳でじっとこちらの様子を伺っていた。



夕食を終えて、リシアと二人でお風呂に入る。


気がつけば、こうして二人で湯船に浸かるのは

当たり前になっていた。


たまにエリナも加わり、三人で肌を寄せ合うこともある。



(これって……普通なのかな)



ふと、そんな疑問が頭をよぎる。

けれど、私には比べるための基準がない。



私には姉妹なんていないから、

きっとこういうものなのだろうと自分に言い聞かせた。



「髪っ、洗ってあげるよ」

リシアが私の背後に回り、丁寧に指を通していく。



「アリスの髪、綺麗だよね。触ってると、落ち着く」

「……リシアこそ、長くて綺麗だよ」



お返しのつもりで言った言葉に、

背後でリシアが息を呑む気配がした。


彼女の腕が、私の肩を包み込むように回される。



「ねえ、アリス……」



いつもより低く、湿り気を帯びた声。



「ずっと、ここにいてね」



その言葉は、

優しい願いというより、逃げ場を塞ぐ呪文のようだった。


私の心に深く、鋭く打ち込まれる祈りに似た楔。



「……うん」



小さく頷くと、私の肩に触れるリシアの指先が、

微かに震えているのに気づいた。



まるで、大切な何かが指の間からこぼれ落ちるのを、

必死に食い止めようとしているみたいに。



包み込む温もりは、どこか熱すぎて、

肌を刺すような違和感が残った。




ベッドに入ると、リシアがいつものように私を抱き寄せた。


けれど、その腕に込められた力は、

いつもよりも明らかに強かった。


「今日、頑張ったねっ」

「……うん」



リシアの体温が、薄い寝巻き越しに伝わってくる。



「ねえ、アリス。ずっと、一緒にいてね」



お風呂の時と同じ言葉の繰り返し。

それはもはや囁きではなく、

私をどこへも行かせないための呪いのように聞こえた。



「……うん。いるよ」



そう答えると、

リシアの腕が私の腰をさらに強く引き寄せた。


肌が密着し、鼓動が重なるその強さは、

逃れられないと思うほどの重さが滲んでいた。


今日、指先で感じたあの疼き。



それは私にとっての光であり、

同時に自分を蝕む「毒」でもある。



そして今、私を包むリシアの抱擁もまた、

安らぎでありながら自由を奪う「毒」に思えた。



私は二つの毒に挟まれたまま、

意識を深い眠りへと沈めていった。


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