第5話 : 新しい服と、バニラの香り
朝食のテーブルに並ぶのは、
昨日のエリナの具だくさんスープ。
リシアが焼いた、焼きたてのパン。
朝食を三人で取っていると、リシアがふと私の袖を摘んだ。
「ねえ、アリス。そういえば、ずっとその服だよね?」
「……これしか、ないから」
私の言葉に、
リシアは「あ!」と何かに気づいたような顔をして、
すぐに弾けるような笑顔になった。
「よーしっ、
服を買いに行こうっ。お姉さんに任せなさいっ」
と言って、リシアは鼻をすんすん鳴らしていた。
「はいはい、行ってらっしゃい。代金はこれ、使いなさい」
エリナがカウンター越しに、
使い込まれた革の財布を差し出した。
「……えっ、でも」
咄嗟に出た言葉にも、被せるように彼女は
「ジャム代っ」とだけ言って飲み込ませた。
彼女のちょっとぶっきらぼうで、
でも優しい気遣いが、温かいスープと一緒に胸に染みた。
「……エリナ、ありがと」
そう言うと彼女はパンを頬張ってニコリと笑った。
朝のマルシェは賑やかだった。
夕方とは違って、街の人も多く活気があった。
「……すごいっ」私はその勢いに圧倒されていた。
「ふふーんっ、これが王都ルーナなのだよ」と
まるで自分の功績かのように話すリシアは、
朝の日差しを巻きとって、ふわふわと優しい光に満ちていた。
マルシェを抜けたところにある王都の仕立て屋。
製菓店のコートもここで仕立ててもらったらしい。
店内に入ると、色とりどりの布地が煌めいていて、
うっすらと、布地と染料の匂いに満ちていた。
「これは?
いや、こっちの青の方がアリスの髪に合うかな……」
リシアは自分の服を選ぶ時よりずっと真剣な眼差しで、
次々とドレスを私にあてがっていく。
狭い試着室の中で、
リシアが「手伝うね」と一緒に入ってきて、
私の背中の紐を器用に操る。
鏡の中にいたのは、泥にまみれた避難民ではなく、
どこにでもいる、小綺麗で「普通の女の子」だった。
「……可愛い。アリス、本当にお人形さんみたい」
至近距離で囁くリシアの吐息が耳をかすめ、
私は顔が熱くなるのを抑えられなかった。
「私さ、ずっと妹が欲しかったんだよねっ」
恥ずかしそうに頬を掻く彼女は、
誰よりも優しい顔をしていた。
帰り道、リシアが「少しだけ寄ってもいい?」と、
街の高台にある礼拝堂を指差した。
そこは普段使っているところよりも王宮に近い場所。
「え、今日はそっちにいくの?」と聞くと
「今日はね……ちょっと、ね。定期的に顔を出す日なんだ」
と少しだけ寂しそうな目をしていた。
高台の礼拝堂、いや、大聖堂と呼ぶべき大きさだった。
堂内に入ると、そこは神聖な静寂が支配していた。
私はひとつ、唾を飲み込んだ。
中央の扉を開けると、身廊が広がっていて、
店の近くにある礼拝堂よりも明らかに多くの人がいた。
内陣の脇には、
厳格な法衣を纏った一人の神官が立っていた。
「リシア、久しぶりだな」
その声を聞いた瞬間、隣にいたリシアの身体が一瞬だけ、
硬くなったのを私は見逃さなかった。
「お父さん……」
「菓子屋ごっこも良いが、
そろそろ教会に戻ってきてはどうだ?」
「お前の『祈り』の力は、あんな店で腐らせていいものではない」
「……うん、考えとく」
リシアはいつもの明るい笑顔を貼り付けていたけれど、
その声はどこか、ひび割れた硝子のような音色をしていた。
帰り道、何となく気まずくなって、
私はリシアに声をかけられなかった。
夕日が沈んでいく道すがら、
彼女の落ちた肩をただ眺めることしか出来なかった――
その夜、店に戻ってもリシアの笑顔はどこか上の空だった。
エリナが「おかえり」と迎えてくれた。
リシアはただ「いっぱい買っちゃったっ」と、
少しだけ声を張り上げて笑った。
その顔を見たエリナは、すぐに私の服を褒めてくれた。
まるで、話題をすり替えるように。
静まった居住スペースで、
私とリシアの二人、向かい合ってハーブティーを飲む。
「……リシア、何かあった?」
私が思い切って尋ねると、彼女はカップを見つめたまま、
また、一瞬だけ寂しそうな顔をした。
「ううん、何でもないよ。ちょっと疲れちゃっただけ」
無理に作った笑顔が、胸に刺さる。
私はそれ以上、彼女の聖域に踏み込む勇気を持てなかった。
――夜。リシアの部屋。
ベッドに入ると、
いつもよりずっと近くに彼女の気配があった。
シーツが擦れる音と共に、
ずるりと隣に滑り込んできたリシアの腕が、
私の腰を強く引き寄せる。
「アリスの髪、いい匂いがする……」
リシアが私の首筋に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。
初めてこの部屋に来た夜に、感じた『バニラ』の香りが、
今はもっと濃く、熱を持って私を包み込んでいる。
耳元で繰り返される、深い吐息。
リシアの指先が私の髪を掬い上げ、
確かめるように愛でていく。
その、執着にも似た手つきに、
私は心臓の音が跳ね上がるのを止められなかった。
「……一緒にいてくれて、ありがとう。アリス」
震える声。
リシアは、私がどこかに消えてしまうのを
恐れているみたいに、私の身体を抱きしめる。
私はゆっくりと身体を反転させて、
ガラス細工のように脆い彼女の暖かい背中に手を回した。
「……こっちこそ」
リシアの鼓動が、私の胸に直接響いてくる。
彼女の抱える「影」の正体は分からない。
だけど、今は溶け合うようなバニラの香りと、
この確かな熱だけが、私たちの世界のすべてだった。




