第3話 : ルルの実の輝き、鍵の音
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「……アリス、朝だよ。おーきーてー」
頬を撫でる、柔らかな感触で目が覚めた。
視界がゆっくりと広がっていくと、
すぐ目の前にリシアの笑顔があった。
カーテンから溢れた陽光を背負って、
彼女の輪郭が白く光っている。
ぼんやりとした頭で、ここが、どこなのかを思い出す。
私は昨夜、リシアに押し切られるようにして
彼女のベッドに入り、いつの間にか眠ってしまった。
「ほら、アリス。いつまで夢の中にいるつもり?」
「……おはよ。……リシア、近い。離して」
「えー、なんかいい匂いがするんだもん」
リシアはそう言って、強く私を抱き寄せた。
彼女の細い腕からじんわり伝わる熱で、
私の胸の奥にこびりついていた冷たい孤独を、
じわじわと溶かしていく。
逃げ出したいような、
このままこの熱に浸っていたいような……。
不思議な居心地の悪さを感じながら、
私はようやくベッドから這い出した。
一階へ降りると、香ばしい小麦の匂いと、
ハーブの清々しい香りが鼻をくすぐった。
厨房では、エリナがセカセカと手を動かしている。
「おはよ。アリス―? 製菓店の朝ははやいんだぞー。
いつまで夢の中にいたのかな?」
エリナはトレイに乗った焼きたてのパンを
テーブルに置きながら、いたずらっぽく笑った。
昨夜の鋭い視線とは違う、どこか包容力のある明るい声。
「ごめんねエリナ。
アリスが可愛すぎて、つい引き止めちゃった」
リシアはクスクスと笑う。
「ええっ!? はぁ……、まあいいわ……」
「はい、アリスも。しっかり食べなよ。
今日は勇者様のパレードがあるから、お店も忙しくなるわ」
私は、リシアの隣に座り、差し出されたパンを一口かじる。
温かくて、噛みしめるほどに甘みが広がるその味は、
私の空っぽだった場所に、
しっくりと収まるような気がした。
(パレード……)
その言葉を聞いた瞬間、私の指先がわずかに凍りついた。
カウンターの端で丸まっていた白猫のカトルが、
藍玉色の瞳で私をじっと見つめている。
その瞳には、すべてを理解しているような、
静かな怜悧さが宿っていた。
すると、外から、地響きのような歓声が聞こえ始めた。
窓の外、遠くから銀色の鎧が太陽を弾き、
華やかな音楽が街に満ちていく。
――勇者。
世界を救うと言われる、光の象徴。
リシアは「すごいね!」と窓際で身を乗り出している。
けれど、私に見えるのは、
彼らが歩んできた道の下に埋もれた、
数えきれない「救われなかった側」の絶望だった。
私の家を、家族を、すべてを奪っていったあの日。
パレードの輝きが強ければ強いほど、
私の内側の闇が濃くなっていく。
気づけば、拳を強く握りしめすぎて、
爪が手のひらに食い込んでいた。
怒りと、やり場のない悲しみが、喉までせり上がってくる。
視界が涙で滲んで、世界の輪郭がゆがむ。
このまま、この街の熱狂に押しつぶされて、
消えてしまいたい。
……そう思った時。
「ねえ、アリス」
ふわりと、私を包み込む甘い『バニラ』の匂いがした。
リシアが、私の顔を覗き込んでいる。
私の震えも、零れそうな涙も。
彼女は何も聞かず、ただ深い琥珀色の瞳で受け止めていた。
「勇者様よりもさっ、お菓子、作るの手伝ってよっ」
そう言って、彼女は私の頭を優しく、しっかりと撫でた。
遠くで鳴り響く歓声も、かつての悪夢も。
その手の温もりの陰に少しずつ隠れていく気がした。
今、私をこの場所に繋ぎ止めているのは、
顔も知らない勇者の光なんかじゃない。
この「お節介なほど温かい手」だけだった。
私は、震える肩をリシアに預けたまま、小さく頷いた。
リシアに導かれるようにして厨房に立つ。
石造りの壁には、
使い込まれた銅の鍋や木製のヘラが整然と並んでいる。
そこには、エリナとリシアが積み重ねてきた時間が、
確かな手触りを持って存在していた。
「ルルの実のジャム、一緒に作ってみよっか」
リシアは、籠いっぱいに盛られた赤い果実をテーブルに置く。
――『ルルの実』。
この世界ではそう呼ばれるそれは、瑞々しく、
どこか懐かしい甘酸っぱい香りを放っている。
リシアが広げた古い羊皮紙のレシピには、
素朴な字で手順が記されていた。
「ええと、まずはヘタを取って、それから……」
リシアの言葉を聞き終える前に、
私の身体が、自分でも驚くほど自然に動き出していた。
――指先が、果実に触れる。
その瞬間、私の世界から雑音が消えた。
完熟した実の柔らかな弾力。
皮一枚の下に閉じ込められた、果汁の重み。
私は、レシピを見る必要さえなかった。
この実のどこが最も甘く、
酸味を隠し持っているのか、指先を通じて知っていた。
ヘタを落とすナイフの軌道には、一点の迷いもない。
断面からは、砂糖を思わせる柔らかく
爽やかな香りが溢れ出し、指に香りがまとわりついていく。
リシアとエリナが、息を呑んで私の手元を注視しているのは
視界の端で捉えていた。
けれど、今の私には、赤く染まっていく自分の指先と、
ボウルの中に溜まっていく果実の輝きしか見えない。
(……なんで? 私、これを知ってる……)
銅鍋に実を移し、火にかける。
パチパチと、小さな音がし始めると、
木製のヘラで底をなぞる。
ルルの果実が自らの熱で崩れ、
濃密な真紅の海へと変わっていく。
アクを取り除くタイミング、砂糖を加える一瞬の猶予。
煮詰まるにつれて変化する気泡の大きさと、
立ち上がる湯気の「粘度」。
私は、私ではない何者かの記憶に、
その指先を貸し出しているような感覚に陥っていた。
「……すごい」
リシアの呟きが、遠くから聞こえる。
鍋の中では、
ルルの実が単なる果実であることを諦めて、
宝石のような輝きを帯び始めていた。
香りはさらに深く、濃厚な甘いものに変化し、
厨房の空気を塗り替えていく。
カウンターの端で丸まっていた白猫のカトルが、
藍玉色の瞳を細めて私をじっと見つめている。
「……まだ、匂いが薄いわね」
小さな声で呟いたかと思うと、
カトルは前足を一度だけ舐めて、視線を逸らした。
その一言が、私の胸の奥に小さな波紋を広げた。
匂い……? 何の匂いだろう。
でもなぜか、その言葉だけは、妙に心に引っかかった。
「アリス、仕上げだね。
……おまじない、いっしょにいいかな?」
リシアが、私の手の上にそっと自分の手を重ねた。
彼女の温もりが、鍋の熱気と混ざり合う。
リシアが静かに瞳を閉じ、祈るよう息を吐く。
その瞬間、鍋の中から、ぽわりと淡い、
金色の光が溢れ出した。
それは魔法というにはあまりに静かな「祈り」の形。
リシアの純粋な「光」が溶け込んで、
ジャムの表面が鏡のように美しく透き通っていく。
完成したジャムをスプーンですくい上げると、
とろりと、それでいて鮮烈に輝きながら滴り落ちた。
「できた……」
私は、自分の手が作り上げたその輝きを、
自分自身が、信じられない思いで見つめていた。
その時胸の奥で、カチリ、と小さな鍵が開く音がした。
エリナは鍋の中を覗き込み、
信じられないものを見るように目を丸くしている。
「……信じられない」
「ただ煮詰めただけじゃないよね。アリス、貴女……」
エリナの言葉は、リシアの歓声にかき消された。
「すごいよアリス!
こんなにキラキラしたジャム、見たことないっ」
リシアは私の手をとり、子供のように飛び跳ねた。
私は自分の指先を見つめる。
赤く染まった指先は、まだ熱を帯びたまま、
無意識に次の工程を求めて疼いていた。
この疼きは、ただの痛みじゃなかった。
何か、遠くで眠っていたものが、
ゆっくりと近づいてくるような……そんな予感だった。




