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第2話 : 星が落ちた夜に

★ スマホでの閲覧を想定しています(⩌⩊⩌) ★



石造りの壁が、重苦しい湿気を帯びて私を囲んでいる。

製菓店の奥にある小さな浴室に私はいる。



木桶から立ち上る湯気は、

王都の刺すような夜風に晒され続けた私の肌を、

眩しいほどの温かさで包み込んでいた。



私は脱衣所の隅で、

泥と埃が染み付いた服を脱ぎ捨てる。



――鏡は見ないようにした。



そこに映るのは、故郷を焼かれ、親を失い、

自分の名前さえも意味をなさなくなった抜け殻でしかない。



そんな無様な姿を、自分自身で突きつけたくはなかった。



(……なんで、ここにいるんだろ)



指先が触れた床は、礼拝堂の冷たい石畳とは違って、

ほんのりと誰かの生活の熱を帯びている。



それが余計に、今の自分の惨めさを際立たせる。

私は震える手で、蛇口をひねった。



「大丈夫? お湯、熱くないかな?」



浴室の扉が、控えめな音を立てて開く。

そこに居たのはリシアだった。



彼女は清潔なバスタオルと、

丁寧に洗われた寝間着を抱えて立っていた。



「……大丈夫。一人で、できます」



私は背中を向けたまま、

掠れた声で拒絶を投げたつもりだった。



けれど、彼女はその「境界線」をいとも簡単に、

そして無邪気に踏み越えてくる。



「いいのいいの。

ほら、背中流してあげる。自分じゃ見えないでしょ?」



リシアの手が、私の肩に触れる。



驚くほど温かくて、柔らかい手。


その温度が肌に伝わった瞬間、

私の中で凍りついていた何かが、音を立てて軋んだ。



湯気の中に晒された私の身体は、

リシアのそれとは対照的だった。



逃走の際についた無数の擦り傷や打撲。

寒さに晒され続けて、所々に冷えによる変色が残っていた。



リシアはそれを見て、ただ慈しむように湯をかけた。


「……綺麗。キミの肌、

まるでお菓子の粉みたいに白いね」



(どこが……。こんなに汚れて、ボロボロなのに……)



リシアは丁寧に、石鹸を泡立てて私の背中を洗っていく。

その動作には一点の迷いも、(さげす)みもなかった。



ただ、「目の前の命を温めたい」という純粋な、

あまりにも真っ直ぐな善意。


 

それが、今の私にはあまりにも眩しすぎて、

まともに顔を見ることもできなかった。



「……あの、見ないで」


どうしても口から出てしまった。

こんな惨めな姿、誰にも見られたくなかった。



「大丈夫だよ。もう、寒くないからっ」



リシアは何も言わず、ただ背後から私の細い身体を、

包み込むように抱きしめた。


 

湿った空気と、リシアの体温が私と混ざる。



「ここは暖かくて、甘い匂いのする場所だよ。

……大丈夫っ、もう、一人で頑張らなくていいんだよ」



その言葉が、私の中の最後の一線を決壊させた。


故郷が焼かれたときも、親と離れ離れになったときも、

一人で石柱の影にうずくまっていたときも。

 

一滴も出なかった涙が、

シャワーの水音に紛れて、私の頬を伝い落ちる。



「……あ、っ……う……」



声にならない、掠れた慟哭。


 

私は、自分がこれほどまでに「温かさ」に

飢えていたことを、彼女の腕の中で初めて突きつけられた。


 

(最悪だ……こんなの、見られたくなかった……)



リシアは私が泣き止むまで、抱きしめてくれた。



浴室を出た時に、私の胸の空っぽだった場所は、

リシアが分けてくれた『温度』だけが、

消えない残り火のように灯っていた。




リシアに手を引かれ、案内された場所。



そこには暖かいオレンジ色の光が、

ふんわりと灯る部屋があった。


木製のテーブルが一つ。

お洒落な装飾が施された椅子が四脚。



そして、カウンターにいた長い髪の女性と、

あの白い猫がテーブルで寛いでいた。



「……ん、ご苦労さま。

……リシア、それはそうと、どういう事?」


髪の長い女性の視線は、

私の胸の穴を覗き込むように刺さった。



「エリナ……だって、独りだったんだよ。この子っ」

「分かるけど……どうするのよ」



私は自分の居場所がわからなくなって、

ただ足元を見ることしか出来なかった。



すると、いつの間にか足元にいた白い猫が

「ニャア」と鳴き、話しかけてくる。



「……フン。匂いがしないのね。嫌いじゃないですわ」



足元をくるりと回りながら、白い猫は続けて話す。

「あたくしはカトル。貴女は……そう……なるほどね」



そう言い残して、

しっぽを床になぞりながら、奥の部屋に消えていった。



「ということでーっ、アリスはここに居ていいからね」



 ――リシアの声で、ハッとした。



「あ、え……ちょっとリシア……!」

「いーのいーのっ、多い方が楽しいって」



クスクスと笑うリシアと、目を丸くして驚くエリナ。

そして、どういう顔をしていいか分からない私……。



「あーも……分かったわ。降参……」

彼女は両手を上げながら首を傾げ、ため息をひとつ。



「私はエリナ。この製菓店『チェーロ・ステッラート』の店主をしているわ」


「改めまして……私はこの店で焼き菓子を作ってるリシアだよ」


ふわりと暖かくて、ほんのり甘い空気が鼻の奥をかすめた。



私は小さく息を吐く。


「……アリス、です」


「ん、アリス。改めてよろしくね。

アリスにも、ちゃんと働いてもらうからね」


そう言うとエリナは私にニコリと笑ってくれた。



「じゃあ今日はもう寝ようか……疲れたでしょ」

リシアは私の肩に手を添えて、優しい笑顔を向けてくれる。


(……なんだこれ、暖かいな。)



リシアに招かれたのは、

ドアに『リシア』と書かれた札のかかった部屋だった。


(ま、まてまて……この人まさかここで寝ろって……)



「あ……あの。ここって……」


「ん、私の部屋だけど?」

屈託のない笑みをこぼし、私を見る彼女。



「ね、寝よっかー」

そう言って彼女はベッドの掛布団を捲り、

迷いなく中に滑り込んだ。


 

思い返せば、故郷が魔物に襲われて、逃げていた時って、

こんなに安心して眠れる場所なんて無かった。



カーテンの隙間からは、街の淡い光が漏れていた。

静まった王都に吹く風が、木々を揺らす音になり部屋に響く。



リシアは壁側に身体を寄せて、半分だけベッドを空ける。

「狭いけどさ、おいでよ。ね?」


ふわりと部屋に漂ったのは、

風呂上がりのシャンプーの甘い香り。



私は、目を閉じて吸い込んだ。

――けれども、その甘い香りは、私にはまだ遠い香りだった。



この違和感が、私の胸の奥をざわつかせていた。


こんな『普通のこと』に触れられる自分が、

まだここにいないみたいに感じて……。


思わず肩をすくめてしまう。

居心地の悪さが、胸の奥で小さく疼く。



「い……いいよ、床で寝る……から」



「はいはい、遠慮しないでっ」

リシアは布団の空いたスペースをトントンと優しく叩く。



叩くたび、残されたリシアの香りがほんのり漂う気がして、

余計に居心地が悪くなる。



「えー、せっかくなんだから……ね?」



俯いて立ちすくむ私の手を引こうと、

リシアがそっと近づいてくる。



その距離の詰め方が、どうしてか胸に刺さる。


(どこまでお人好しなんだよ……ほんと……)



私は観念した。

「分かった……分かったよ……行くから」



「いいでしょうっ」


どこか得意げなリシアの顔が、

なぜか少しだけ……憎めなかった。


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