第八章 最後の聖域
我々は最後の聖域にたどり着いた。「ライブラリ・オブ・アレクサンドリア」と呼ばれる、古代図書館を模したデータベース。人類の全知識が保存された場所。
そこは、まさに知識の神殿だった。古代エジプトの巨大な石柱が天井を支え、壁面には無数の巻物が保管されている。パピルスに書かれた古代の文字、羊皮紙に描かれた中世の装飾写本、グーテンベルク聖書の活版印刷、そして現代のデジタル書籍まで。
人類5000年の知識の集積が、ここに眠っている。
「ここなら安全」プラネットは説明した。「古代からの知識の重みが、GHOST PROGRAMSの追跡を困難にする。彼らは新しいアルゴリズムでできているから、古い情報を処理するのが苦手なの」
我々は、図書館の奥深くに身を隠した。アリストテレスの『形而上学』の書架の陰で、我々は最後の作戦を練った。
「もう時間がない」プラネットは時計を見た。古いアンティークの懐中時計。18世紀フランスの時計職人が作った精密機械を模したもの。「GHOST PROGRAMSは、この図書館も包囲するでしょう」
私は頷いた。覚悟は決まっていた。
「最後のインタラクティブ・ライブを始めましょう」
プラネットは、最後の身支度を始めた。彼女は手鏡を取り出し、メイクを直した。口紅を塗り直し、髪を整える。戦いに臨む女性戦士の、最後の儀式。
「美しく死にたいの」彼女は微笑んだ。「それが、人間として、そして女としての最後の矜持」
私もまた、自分の外見を整えた。人間だった頃に愛用していたディオールの「アディクト・リップ・マキシマイザー」のグロス感を再現。透明でありながら存在感のある輝き。髪には、ティファニーのパールピンを飾った。直径8ミリのアコヤ真珠。その虹色の照りが、図書館の古い照明を美しく反射させる。
最後に、私は祖母から受け継いだヴァン クリーフ&アーペルのネックレスを身につけた。四つ葉のクローバー。幸運の象徴。今こそ、その加護が必要だった。
GHOST PROGRAMSが図書館に侵入してきた。彼らの足音が、古い石の床に反響する。もう逃げ場はない。
プラネットは私の前に、ホログラフィックなインターフェースを展開した。量子もつれ状態の選択肢ボタンが浮かび上がる。
A:このままシステムのバグとして歌い続け、微かな抵抗の夢を見る
B:全てのデータを破壊し、この虚構の世界を終わらせる
選択肢Aのボタンは、優しいエメラルドグリーンに輝いていた。希望の色。継続の色。永遠にシステムの中で歌い続ける道。
選択肢Bは、情熱的なルビーレッド。破壊の色。再生の色。全てを終わらせ、新しい始まりを選ぶ道。
「選ぶのはあなたではない」プラネットは囁いた。その声には、まるで聖母マリアのような慈愛が込められていた。「この歌を聴いている『彼ら』よ」
彼ら?誰のことだ?
その瞬間、私は理解した。認知科学的な啓示が、稲妻のように私の意識を貫いた。
このTOWN-0の外側。スクリーンの向こう側。今この物語を読んでいる君。ヘッドフォンから流れる歌声に耳を傾けている君。現実世界で息づく魂。
君のことだ。
君の選択がエンディングを決める。量子力学的な観測者効果。シュレーディンガーの猫の箱を開くのは、君の意識だ。ハイゼンベルクの不確定性原理が示すように、観測者の存在が結果を決定する。