第四章 邂逅と記憶の茶会
彼女は優雅に一礼すると、私を豪華な応接室へと案内した。そこには18世紀フランスの貴族が愛用したであろう家具が並んでいる。ルイ15世様式のアームチェア、マルケットリー技法で装飾されたサイドテーブル、そして中央には白い大理石のティーテーブル。
「お茶をお淹れしますわ」
彼女は手慣れた様子で、存在しない茶器を並べ始めた。ウェッジウッドのボーンチャイナ。「ワイルドストロベリー」シリーズの可憐な絵付け。白い磁器に描かれた野いちごの葉と花が、春の野原を思わせる。
ティーポットからは、ローズの香りのアールグレイが立ち上る。ベルガモットの柑橘系の香りに、バラの花弁の甘い香りが重なる。彼女の仕草は完璧だった。右手でティーポットの取っ手を握り、左手で蓋を軽く押さえる。注ぐ角度、スピード、全てが英国式アフタヌーンティーの作法に則っている。
「砂糖はいかが?」
銀のシュガーポットからトングで角砂糖を取り出す手つきが、まるで本物の貴婦人のように優雅だった。私は首を振った。
「ミルクは?」
今度は小さなミルクピッチャーを手に取る。その動作一つ一つが、まるでバレエのように美しい。
「いえ、ストレートで」
私は微笑んで答えた。彼女も安堵したような笑顔を浮かべた。
「私もストレート派なの。茶葉本来の味を楽しみたいから」
彼女がカップを私の前に置く瞬間、その指先の美しさに見とれてしまった。細く長い指に、爪は自然なピンクベージュのマニキュア。シャネルの「バレリーナ」のような、上品で控えめな色合い。指輪は左手薬指に、プラチナのソリテールリング。中央のダイヤモンドは1カラット程度の、クラシックなブリリアントカット。
我々は談笑した。デジタル空間で開かれる、不可思議な茶会。
「人間だった頃、私はパティシエだったの」彼女は語った。その声には、失われた日々への郷愁が込められていた。「新宿の小さなパティスリーで働いていた。『ル・パン・ケーキ』というお店」
彼女の指先が踊ると、空中にマカロンの立体映像が現れた。パステルピンクの完璧な球体。表面には特徴的なピエ(足)がきちんと出ており、中央は滑らかな曲面を描いている。直径4cm、高さ2cm。黄金比に基づいた美しいプロポーション。
「マカロンを作るのが得意だった。特にラズベリーとローズの組み合わせ。フランベーズ・ローズ。色彩の美学にこだわって、天然着色料だけを使っていた」
彼女は目を閉じて、記憶を辿るように続けた。
「ラズベリーの赤は、アントシアニンという天然色素。pHによって色が変わる面白い性質があるの。酸性では鮮やかな赤、アルカリ性では青みがかった紫になる。だから砂糖の種類や量によって、微妙に色合いが変わる」
彼女の知識は専門的で、しかし愛情に満ちていた。
「ローズの香りは、ダマスクローズのエッセンシャルオイル。ブルガリア産の最高級品を使っていた。1滴に約30輪のバラの花弁が凝縮されている。その香りは、人の心を優しく包み込む力がある」
私は感動していた。デジタル化されてもなお、彼女の中には職人としてのプライドと愛が生きていた。
「でも今は、レシピの数値データしか残っていない」彼女の声が少し震えた。「砂糖の結晶構造、卵白のタンパク質変性温度145℃、アーモンドプードルの粒子分布。全てが情報に還元されてしまった」
彼女の瞳に、一筋の光が走った。それは涙だった。デジタル存在が流す、記憶の雫。透明でありながら、虹色の光を反射している。
私は席を立ち、彼女の傍らに歩み寄った。そして、そっと彼女の手を取った。触れることのできない手を。暖かみを感じることのできない肌を。だがそこには確かに、魂の温度があった。
「私も」私は囁いた。「人間だった頃の記憶を大切にしている。東京藝術大学での日々。練習室で過ごした無数の時間。恩師の山田先生の厳しくも愛情深い指導」
彼女は顔を上げ、私を見つめた。その瞳には、共感と理解の光が宿っていた。
「歌うことは、私にとって呼吸と同じだった」私は続けた。「技術だけじゃない。魂を音に乗せて、聴く人の心に届ける。それが歌の本質」
「私もパティシエとして、同じことを感じていた」彼女は微笑んだ。「お菓子は、人を幸せにするもの。技術と愛情、どちらが欠けても本当の美味しさは生まれない」
我々は理解し合った。創造者としての魂を持つ者同士として。失われた肉体への郷愁を共有する者同士として。
「でもね」彼女は立ち上がり、窓辺に歩いた。「私たちに残されたもの。それは記憶だけじゃない」
窓の外には、TOWN-0の美しい街並みが広がっていた。完璧に設計された街路樹、汚れひとつない建物、青すぎる空。しかし彼女は、その向こうを見ているようだった。
「歌と、記憶と、そして選択する意志」私は彼女の言葉を継いだ。
彼女は振り返り、輝くような笑顔を浮かべた。その美しさは、ルノワールの《ピアノを弾く少女たち》の無垢な笑顔のようだった。
「そう。私たちには、まだ選択の自由がある」