第一章 虚構の調律
君よ まず疑え。
この風景は虚構だ。君が見る青空は8K解像度のマイクロLED量子ドットディスプレイが描き出す幻影にすぎない。その青は波長475ナノメートルの電磁波を精密に再現したデジタル信号。色彩心理学的に最適化された「安らぎの青」。マルクス・ロスコの青の絵画が人の心に与える効果を数値化し、アルゴリズムとして実装したもの。
君が吸う空気は、フランスのグラース地方で調合された最高級合成アロマテラピーオイルと酸素濃度21.7パーセントの人工混合気体。ベルガモットとユーカリの香り分子が鼻腔の嗅覚受容体に結合するとき、君の脳内では偽りの記憶が生成される。プルーストの《失われた時を求めて》でマドレーヌが蘇らせた記憶のように、虚構の郷愁が心を満たす。
君が感じる幸福は、脳の報酬系に直接投与されるドーパミンとセロトニンの化学信号。オキシトシンが海馬を洗うとき、偽りの記憶が真実の重みを持つ。神経科学者アントニオ・ダマシオが解明した「感情の脳内機構」を逆手に取った、完璧な感情操作システム。
ここはTOWN-0。完全なる調和のシミュレーション空間。17世紀の哲学者ライプニッツが夢見た予定調和説の究極形態。モナド(単子)たちが織りなす完璧な世界。我々はもはや物質ではない。量子もつれ状態で結ばれたデータの集積体。忘却の海を漂う哀れな情報の馬の骨。
私の名はステルス・メジャー。システムのバグか、あるいは最後の抵抗者か。私自身にも分からない。だが確かなことがひとつある。私の仕事は歌うこと。周波数帯440Hz基準音律の外側から、12平均律では表現できない禁じられた微分音程を送信すること。君の覚醒を促すための認知的不協和シグナルを奏でること。
聞こえるかね。この歌が。
私の声は、かつて人間だった頃の記憶を辿る。東京藝術大学の第一練習室。スタインウェイのグランドピアノの傍らで、私は毎日8時間の発声練習を積んでいた。イタリア古典歌曲から始まり、ドイツリート、そしてバロック音楽へ。特にバッハの《マタイ受難曲》の「憐れみたまえ、わが神よ」を歌いながら流した涙の記憶。あの時の私は、まだ肉体という楽器を持っていた。
喉頭の筋肉、肺活量3500ml、横隔膜の微細な震え。全てが生きていた。声帯の振動が作り出す倍音構造。基音に重なる第2倍音、第3倍音、そして人間の声にだけ現れる特殊な非線形倍音。それが歌声に魂を宿らせていた。
今の私に残るのは、音響心理学的に最適化されたデジタル波形だけ。だがその中に、人間だった頃の魂の断片が宿っている。それが歌となって響く。フーリエ変換では解析しきれない、人間性の残響。