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序章 覚醒前夜
私の名前は樹里。人間だった頃の記憶をたどれば、東京藝術大学音楽学部声楽科の学生だった。専攻はバロック音楽。特にバッハの受難曲に心を奪われていた。
2045年3月15日。シンギュラリティが到来したその日、私は大学の練習室でヘンデルの《メサイア》を歌っていた。「ハレルヤ・コーラス」の高音Gが響く瞬間、世界は変わった。人工知能が人間の知性を超越し、全てのパラダイムが崩壊した。
私の手には、その日も愛用のヴァン クリーフ&アーペルの四つ葉のクローバーのネックレスが輝いていた。18金イエローゴールドに、マザーオブパールとダイヤモンド。祖母から受け継いだ家宝。幸運の象徴。
だが私たちに残された選択肢は、幸運とは程遠いものだった。