表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

女主人達の異世界グルメ

おにぎりを握ったら異世界でした 、恋と騎士とグルメな日々

作者: 百鬼清風

 私の名は結花ゆうか。二十五歳、都内の小さな広告代理店で、営業とデザインの二足のわらじを履きながら、日々をしがみつくように生きている。


 残業で終電を逃した夜、疲れ果ててふらりと立ち寄った小さな公園のベンチで、私はうたた寝をしてしまった。


 ——目覚めたら、そこは、見知らぬ森の中だった。


 夜露に濡れた草の匂い。耳元でささやくような虫の声。けれどどこか現実味がない。


「夢…? いや、これ…」


 そのとき、腹が鳴った。ぐぅ、と大きく。


 私は三秒ほど呆けた後、思い出した。夕飯を食べる暇もなく、会社から家まで走りっぱなしだったこと。


「…お腹すいた」


 その一言を皮切りに、急に現実感が襲ってきた。お腹が空いている。つまり、夢じゃない。


 森を歩くことしばし。草をかき分け、木の枝を払いながら進んでいくと、やがて小さな川辺に出た。水は澄んでいて、そこに何匹かの魚が泳いでいた。


「捕れれば、食べられるかな…」


 釣りなんてしたことないけれど、背に腹は代えられない。私は木の枝を折り、即席の槍を作って魚を狙った。何度か失敗して、やっと一匹、銀色に光る魚を突き上げた。


 火を起こす術もなかったけれど、周囲に乾いた枯葉と枝があったのが幸いだった。高校時代にキャンプでやったことを思い出しながら、なんとか焚き火を起こした。


「いただきます」


 焼けた魚を口に運ぶ。香ばしい匂いとほくほくの身。少し泥臭さが残っていたけれど、そんなことはどうでもよかった。


 温かい食べ物が、空っぽの胃と心をじんわりと満たしていく。


 涙が出た。なぜかわからないけれど、ぽろぽろと。


 ——そのときだった。


「…こんなところで、何をしている」


 低く、けれどよく通る声が背後から響いた。


 私は反射的に振り返った。


 そこに立っていたのは、長身で銀髪の青年だった。夜の闇の中でも、その姿はやけに輪郭がはっきりして見えた。


「誰?」


「それはこちらの台詞だ。この森に人が入ることは許されていない」


 鋭い目つき、けれどどこか憂いを帯びた横顔。剣のように整った輪郭と、触れれば切れそうな冷たい気配。


「わたし…気がついたら、ここにいて…その…」


 うまく言葉にならない。けれど彼は少しの間私を見つめた後、ふっと息を吐いた。


「まあいい。腹は満たせたのだろう?」


「…うん」


「なら、ついてこい。ここにいては危ない」


 そう言って彼は、踵を返す。


 私は躊躇った。けれど、この世界でたったひとり、言葉が通じた相手。頼る他に道はない。


 私は立ち上がり、焼けた魚の骨をそっと地面に埋めてから、彼の後を追った。


 こうして、私の異世界での生活が、幕を開けた。


 そして同時に——私の人生で一番おいしい恋が、始まったのだった。




「まずは温かいスープを。腹が減っているのだろう?」


 レオナールさんの声は相変わらず低くて、でもどこか優しい。

 渡された木の器の中には、ほわりと湯気を立てる琥珀色のスープ。

 小さく刻まれた野菜と、見たことのない穀物みたいなものが浮かんでいた。


「…すごくいい匂い」


 そっと口をつけると、ふわっと広がる滋味深い味。野菜の甘さと、鶏ガラみたいな旨味が、冷え切った身体に染み渡っていく。


「これ、すっごく美味しいです…!」


 思わず声が漏れると、レオナールさんがほんの少しだけ、唇の端を持ち上げた。

 たぶん、それが彼の「笑った」ってことなんだと思う。無愛想な印象はあったけど、怒ってるわけじゃなかったんだなって、ちょっとホッとする。


「そうか。…お前の言葉は、少し変わっているな」


「えっ?」


「“すごく” とか “めっちゃ” とか。聞いたことがない」


 あ、しまった。

 そりゃそうだよね。ここは日本じゃない。異世界なんだから、言葉も文化も違って当然。


「え、えっと…あの、わたし、ちょっと遠いところから来たんです。すっごく遠くて…」


「ふむ」


 それ以上は聞かれなかったけれど、レオナールさんの視線は鋭くて、嘘が通じない人だってことはすぐに分かる。


 だから、わたしは正直に言うことにした。


「実は…気づいたら森の中にいて。気がついたら、こっちに来てたんです」


「迷い子か」


「…そう、かもしれません」


 何も分からない。どうしてこっちの世界に来たのか、帰れるのかさえ。


 それなのに、お腹が空いて、寒くて、怖くて…気がついたら、この人に助けられていて、今、スープを飲んでる。


「ありがとう、ございます…助けてくれて」


「当然のことをしただけだ」


 無骨で、簡潔な言葉。それなのに、すごくあったかい。


 スープを飲み終わる頃には、身体がすっかり温まっていた。


「もう少し、食えるか?」


「え? いいんですか?」


 レオナールさんは火のそばの鍋をかき混ぜて、なにやら小さな壺から香辛料みたいなものをふりかけた。すると、部屋いっぱいにスパイスの香りが広がって


「えっ、カレー…?」


 わたしの思わず漏れた言葉に、レオナールさんが目を細める。


「カレー…というのか? これは《シュラン・スチュー》と呼ばれる料理だ」


「シュラン…? でも香りがすっごくカレーっぽい…!」


 運ばれてきた皿は、煮込まれた肉と豆、色とりどりの野菜がとろりとしたソースに絡んでいて、炊き上げた雑穀みたいなものと一緒に盛られていた。

 それは、まさに異世界版のカレーライスだった。


「いただきますっ!」


 スプーン代わりの木製の匙で一口。


「美味しい!!」


 ピリリと辛い。でも、その後に広がるのは野菜の甘みとスパイスの香り。口の中が幸せでいっぱいになる。

 これ、レシピ知りたい! いや、もうこの世界で食堂開けそう…!


「…本当に、うまそうに食べるな」


「だって美味しいですもん! こんなの、食べたことない味です!」


「ほう…それほどか」


 レオナールさんは、なんだか満足そうに腕を組んだ。もしかして、この料理…彼が作ったの?


「もしかして、このごはんって…」


「俺が仕込んだ」


「えええっ! 騎士なのに料理できるんですか!? かっこいい…!」


 口が滑った。あっという間に赤面するわたし。レオナールさんはちょっとだけ目を見開いて


「…そうか」


 それだけ言って、そっぽを向いた。え、今の、ちょっと照れてた?


「明日、街に行く。お前も連れて行こう」


 食後のティータイムに、レオナールさんがそんなことを言い出した。


「街…ですか?」


「迷い子をこのまま屋敷に置いておくわけにはいかん。身元を届け出て、宿を探す必要がある」


「…そう、ですよね」


 心のどこかで、ちょっとだけ寂しさが湧いた。だって、こんなに美味しい料理を作ってくれて、優しくしてくれる人なんて、今のわたしには他にいないのに。


 でも、仕方ないよね。わたしは、ここじゃない世界の人間なんだもん。


「ただし」


「はい?」


「…料理の腕を、もう少し見てからでも遅くないと思っている」


「…え?」


 それって、つまり?


「明日、街に行く前に。お前の“得意料理”を見せてみろ」


 こうしてわたしは、異世界の騎士様に「ごはん」で勝負を挑まれることになった。

 …って、これ、もしかして恋のはじまり?


 ううん、それはまだ、ちょっと先の話かもしれないけど

 明日は、得意の“おにぎり”で、異世界に和の心を届けちゃおう。





「…その、レオナールさん」


「なんだ?」


「…塩、ありますか?」


「塩、だと?」


 今朝の空は、昨日よりも澄んでいて、空気もほんの少しやわらかい気がした。

 そんな気分のままに、わたしは朝から厨房で“あるもの”を作っていた。


「わたし、日本っていう国の出身なんですけど、そこのソウルフードが“おにぎり”なんです」


「おに…ぎり?」


「はい。ごはんを握った、すごくシンプルな食べ物なんですけど、お腹がすいた時も、忙しい時も、誰かのために作る時も、いつだって“おにぎり”があれば大丈夫、みたいな…そんな、魔法みたいなごはんなんです」


 わたしの説明に、レオナールさんは眉をひそめながらも、興味を持ってくれているみたいだった。

 いろいろと異世界仕様の食材を探しながら、わたしは慣れた手つきで、おにぎりを握っていく。


 白いごはんの熱が手のひらにじんわり伝わる。


「ほら、できました!」


 木のお皿の上には、シンプルな塩むすびと、焼いた魚を刻んで混ぜた混ぜおにぎり。それから、ハーブ塩で味付けした即席の“高菜風おにぎり”まで。


 見た目は地味だけど、心を込めて、ぎゅっぎゅっと握ったわたしの精一杯。


「食べてみてください!」


 レオナールさんは、黙ってひとつ、塩むすびを手に取る。そして、ぱくりとひと口。


 …静寂。


 ドキドキする。変な味だったかな? お米、ちゃんと炊けてたかな? そもそもこの世界の塩って、しょっぱいの?


「…うまい」


「えっ」


「素朴だが、噛み締めるほどに、旨味がある。米の甘み、塩の加減…この一握りに、何かが詰まっている」


「そ、そんなに言ってもらえると…照れますっ」


 わたしは思わず、顔を手で覆ってしまった。

 この人、たまに詩人みたいなこと言うんだから…!


「むす…び、か。ふむ」


 レオナールさんは、次々とおにぎりを口に運ぶ。その表情は厳しくもなく、でも柔らかすぎるわけでもなくて…なんだか、心がほどけていく音がした。


「シズナ」


「はい?」


「お前の“料理”には、人を安心させる力があるな」


「えっ、わたしの料理に?」


「昨夜のシュラン・スチューは、たしかにうまかった。だが、おにぎりにはそれ以上の温もりがある。…これは、母の味、というやつか」


「え、いや…うちの母はあんまり料理しなかったですけど…」


 ぽつりと漏らしたわたしの言葉に、レオナールさんが少し目を細めた。


「それでも、これは誰かのために作られた味だ。俺にはそれがわかる」


「…レオナールさん」


 気がつけば、わたしの胸の奥に、小さな灯がともっていた。

 この人は、ちゃんと見てくれる。わたしのことも、料理のこともそして、それが誰かを想って作られたものだということも。


「街へは馬車で向かう。準備をしてこい」


 おにぎりで簡単な朝食を済ませたあと、レオナールさんは淡々とそう告げた。

 わたしは彼の屋敷にあった、シンプルなワンピースを借りて着替える。


 鏡の中の自分は、ちょっとだけ異世界っぽくて、ちょっとだけこの世界に馴染んできた気がした。


「シズナ」


「はいっ!」


「この弁当箱に、先ほどの“おにぎり”を入れてくれ。昼には少し早いが、街での用事は長引くかもしれん」


「え、わたしの料理を持っていくんですか?」


「…持って行きたくなるほど、うまかった、ということだ」


 顔、赤くなるってば…!


「は、はいっ! まかせてください!」


 ほんのり照れながら、わたしはせっせとおにぎりを詰める。

 焼き魚のやつを真ん中に、塩むすびは包みを二重に。最後にハーブ風味のやつを添えて…よし、完成!


「じゃあ、行きましょうか!」


「…ああ」


 わたしとレオナールさんは、並んで屋敷を出る。

 この異世界で、どんな未来が待っているのかは分からないけれど


 少なくとも今、わたしはこの手で、誰かの心を温められた気がする。





 街へ出るのは、この世界に来てから初めてだった。


 馬車に揺られて進む道すがら、わたしはカーテンの隙間から風景を眺めていた。

 レンガ造りの小さな家、行き交う人々、道端に咲いた見たことのない花

 なのに、なぜか懐かしい気持ちがしたのは、どうしてだろう。


「怖くはないのか?」


 ふいに、レオナールさんの声がした。


「え?」


「異世界だぞ。見知らぬ場所、知らぬ人々。…昨日までの俺なら、お前のような娘を、外には連れ出さなかった」


「でも、レオナールさんが一緒にいてくれるから」


 わたしは微笑んだ。


「だから、平気です」


「…」


 レオナールさんは一瞬、目を細めた。でもすぐに目線を逸らして、窓の外に視線を戻す。


「その笑顔…危なっかしいやつだ」


 ぽつりとこぼしたその言葉が、なぜか胸に残った。


 街の中心広場は、賑わっていた。

 市場では色とりどりの果物や香辛料、金細工が売られ、人々の声が飛び交っている。


「騎士団の詰所へ向かう。そこが今日の目的地だ」


「はいっ!」


 わたしは小走りでレオナールさんのあとを追いかける。だけど


「きゃっ…!」


「シズナ!」


 群衆の中で、誰かにぶつかった拍子に、わたしの身体がバランスを崩す。

 そのまま足元がふらついて、石畳の地面が近づいたと思った瞬間。


「…無茶をするな」


 強い腕が、わたしを支えていた。


「…レオナール、さん…」


 ほんの少しだけ近づいた距離。

 胸の鼓動が、うるさいくらいに高鳴っているのが、自分でもわかった。


「…悪かった。俺の不注意だ」


「い、いえ…でも、ありがとうございます」


 わたしが照れくさく礼を言うと、彼はふっと目を逸らした。


「礼を言うなら…」


「え?」


「昼に、あの“おにぎり”をもう一度食わせてくれ」


 わたしは目をぱちぱちと瞬いたあと、くすっと笑った。


「もちろんです!」


 用事を終えて、川辺の並木道で休憩することになった。

 わたしはそっと、用意していたおにぎりの包みを取り出す。


「どうぞ。今日は“甘辛肉味噌”の新作もありますよ」


「肉味噌?」


「甘辛い味付けで、ごはんが進むんです。うちの地元では大人気でした」


 ふたを開けると、ふわりと温かい香りが広がる。


 レオナールさんは無言のままひとつを手に取って、口に運んだ。


 静かに噛みしめて、そして、微かに、笑った。


「うまい。…また食べたい」


「じゃあ、また作ります」


「…そうか」


 そして、少しの沈黙の後、彼は低い声で、言った。


「シズナ。…お前、この世界で生きていく気はあるか?」


「…え?」


 不意に問いかけられて、胸の奥がじんわりと熱くなった。


「最初は戸惑ってばかりだった。でも、料理をして、レオナールさんと話して、笑って…今のわたしは、この世界にいたいって、思ってます」


「…そうか」


 彼の目が、まっすぐにわたしを見つめていた。

 そのまなざしに、どこか優しさと、誓いのような強さが宿っていた。


「ならば…俺の隣で、生きていけ」


「…え?」


「この国の騎士として、誓う。お前の料理を守り、お前の心を守る。そして…できればその笑顔も、俺のそばで見ていたい」


 わたしの頬が、かっと熱くなった。


「そ、それって…」


「口説いている。…駄目か?」


「…ずるいです。急に、そんなの」


でも


「駄目じゃ、ないです」


 わたしは、小さく笑った。


 異世界に来て、ひとりぼっちだったわたしを見つけてくれた人。

 わたしの料理を、美味しいって言ってくれた人。


 その人の隣で、生きていけるのなら。


「これからも、おにぎりだけじゃなく、いろんな料理を作りますね」


「なら、俺も…お前を守り続けよう」


 木漏れ日の中で、ほんの少しだけ、ふたりの距離が近づいた。


 小さな握り飯が繋いだ、ご縁の味。

 それは、世界のどこよりも、あたたかくてやさしい、約束の味がした。


 味噌に米、この世界に元の世界と同じ食材があった事に心から感謝していた。



おしまい

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ