第7話:初めての火起こし体験
「がはっ!」
ふわふわの腐葉土がクッションとなり、最後の衝撃を吸収してくれたようだ。地面に横たわり空を見上げると、樹間に覗く夕暮れ時の赤い空に、飛行する大燕の黒い影が見えた。四方八方に伸びている枝葉が邪魔をしてここまで降りて来られないだろうが、気づかれないようにそっと立ち上がって辺りを見渡す。
「アステリオ、近くにいるか?」
声を潜めて呼びかけてみるが返事はなかった。まさか、雛鳥に食べられてしまったとか?
見上げた木は首が痛くなるほど背が高く、先端にある巣の位置は遥か上で下からでは見つけることができない。登ろうにも太い幹の表面は凹凸が少なく、手足をかけられそうな場所はなかった。
どうしようか悩んでいると、旋回していた大燕が何かを見つけたようで、一直線に向かっていった。アステリオかもしれないと俺は、その後を必死に追いかけたが、伸びた枝葉に邪魔されてすぐに見失ってしまう。元の場所に戻ろうにも、来た道がわからなくなってしまった。
……
時刻は19時を優に過ぎ、太陽はすっかり山際に沈んでしまった。迫り来る夜の暗闇から逃れるように、スケールの大きな植物が群生する森を歩き続ける。
胃液を浴びた体からはいよいよ悪臭が漂い、溶け始めているのではないかと心配になる。今すぐに水場に行って全身を洗いたかった。
宛もなく彷徨っていても仕方がないので、とにかく斜面を下っていくことにした。標高が低い山でも谷になっている場所には、水が湧き出ているのではないか。俺はその可能性に賭けることにした。
山で遭難したら尾根に上がれと言われるが、それは救助を期待する場合の話だ。そもそも異世界に来た俺を捜索している人などいるはずもなく、視界が開けているという事は寧ろ、天敵に見つかりやすいのと等しい。状況を冷静に鑑みた結果、俺は水場を求めて下り始めた。
「はぁ、お腹空いた……」
さっきからずっとギュルギュルと腹の怪物が暴れ始めている。こんな子守歌を聞かされる卵も迷惑だろう。時計は20時半を示していた。気付けば、朝から何も食べていない。昼休みは弁当も食べずに屋上へ向かったし。女王様に焼き鳥を貰っておけばよかったと嘆いても、今更遅い。
女王様から預かった地獄鶏の卵も何とか手放さずにいるが、これって食べられるのだろうか? 無精卵ならまだしも、暖めておくようにと言われたからには、きっと有精卵だ。となると割るのは忍びない。中で何かが動いているような気配はないが、大丈夫なのだろうか。
「あの人は多分、気づいていないんだろうなぁ」
大燕に浚われた直後に見たのは、砂煙を巻き上げながら疾走するバイクの後ろ姿だ。本当ならば今頃、女王様の領地に帰り着き、一緒に焼き鳥を食べていたはずなのに…。
「何でこうなるんだ……」
異世界の山中に一人きり。独り言を呟きながらでなければ、恐怖で頭が可笑しくなりそうだ。微風で揺れる木の葉のさざめきにさえ、びくっと身体を震わせる。草影から今にも怪物たちが飛び掛かってこないかと、恐ろしくて堪らない。
今頃、皆はどうしてるのだろうか。俺がいなくなったことで、学校中が騒ぎになっているかもしれない。いや、「神谷のことだからどこかでサボっているんだろう」とか、「無断で早退したんじゃないか」ともでも思われている可能性も否定できない。
午後から姿が見えなくなっても、そうそう心配されない生徒の立ち位置に収まってしまった普段の行いが、猛烈に悔やまれる。
それでも、流石に鏡美さんは驚いているだろう。何せ、突然目の前から俺が居なくなったのだから。そう言えば……。
「……あの時、何て言われたっけ?」
落雷の衝撃によって記憶が飛んだのか、それともその内容に精神的なショックを受けたからか、屋上での出来事はよく思い出せなかった。
ただ、意識を失う瞬間まで見つめていた彼女の表情は、どこか寂しげだったということだけが残っている。
……
空腹を訴えるお腹をさすり、時折独り言を発しながら、山を下り続けた。植物の生息域が変わったのか、ジャイアント・セコイアのように巨大だった木々が徐々に姿を見せなくなると、一回り小さい植物たちが段階を踏むように現れては消えていく。
気づけば、枝葉は次第に頭上から数メートルのところまで迫っていた。そこに隠れている生物が上から襲いかかってくるのではないかと肝を冷やす。耳を済ませて警戒していると、時折聞こえる何かの鳴き声の間に、小さなせせらぎが聞こえた。
「川だ、水が飲める!」
そのキラキラとした音に誘われた俺は、棒のような足に鞭を打ち、歩みを速めた。硬い地面にゴツゴツとした岩石が目立つようになり、徐々に歩き辛くなっていく。
やがて苔のような植物が群生した岩肌が多くなると、周りの空気に湿り気を感じ始めた。土の地面に拳程の大きさの岩石が目立つようになると、いよいよ清流の方向がはっきりしてくる。辺りは明らかに涼しくなり、求めていた清流のせせらぎが耳に届く。その瞬間、俺は夢中で駆けだしていた。
「やった、水だ!」
月光を反射する川の流れは穏やかで、天の川を目の前で見ているように美しかった。そっと手をつけると氷のようにヒンヤリと冷たく、指の先から熱を奪っていく。両手で掬ってそっと口につけると、よく冷えた液体が体の中を通っていくのがわかった。
卵を草むらに置いた俺は、服を着たまま川の中へとダイブした。弾ける気泡が全身を包み込んでいく。渦巻く水流は洗濯機のようで、全身の汚れが洗い流されてサッパリとする。と同時に、滲みる傷口の痛みに改めて怪我の多さを認識した。
「くぅ、傷が沁みる……」
どこかに消毒として使えそうな植物はあるだろうか。こういう時、異世界モノだったらやり込んだゲームの知識が役立つのだろうが、果たして俺の場合はどうなのだろう。マンドラゴラやアグラフォーティスといった魔法植物の知識が披露されることはあるのか。
「やっぱりアステリオと合流するべきだったかな……」
彼なら野草やサバイバルといった知識にも造詣が深そうだ。あいにく俺の辞書には、春の七草ぐらいしか載っていない。とは言え名前だけの記載で写真はないので、それらしき野草を手に取ってみても、口にする勇気は出なかった。
変なモノを口にしてお腹を壊したら、最悪、脱水症状で死ぬこともある。見知らぬ土地で生死を分けるのは、強力な攻撃呪文とか超人的な肉体とかではなく、怪我してもすぐに直せる治療能力なのかもしれない。
空腹はやがて痛みに変わる。水を飲んで誤魔化すのにも限界があるし、煮沸消毒なしに大量に飲む気にもなれない。この身一つで大自然の中に放り出された瞬間、どうすれば良いのか何一つわからず、ただお腹を鳴らしているだけの自分が情けなくなってきた。
俺は生きるための術を何も持っていないし、何も知らない。いや、正確には知ろうとしてこなかったのだ。
これまで当たり前だと思っていた安心安全であらゆるモノに溢れた生活が、どれだけ恵まれていたのかということを、この世界に来てからの数時間で嫌という程実感している。
嘆いても仕方はないが、空腹と心細さは思考をマイナスに走らせるものだ。癒しがあるとすれば頭上に広がる満点の空で、ラッコのように仰向けで水に浮かんだ俺は、熱を持つ火傷の痕を冷やしながら夜空を眺めた。
「あっ、流れ星……」
満月の光は眩しいが、それでも十分過ぎる数の星が瞬いていた。こうやって星空を見上げたのはいつぶりだろうか。知識があれば、星座の位置から現在地を割り出せたり、やはりここは地球上ではないことを知ることができたりしたのだろうが、俺にはさっぱりだった。せめてスマホが生きていれば……!
「やべっ!?」
急いで川から上がった俺は、すぐにズボンのポケットへと手を伸ばした。取り出したスマホから水が滴り落ちてくる。落雷で死んでしまっていたとは言え、水没させたことで完全にとどめを刺しただろう。
「ぐあぁぁあああ、バックアップ取ってないデータがあるのに……」
必死に水気を切ってみるか、頑なに沈黙を貫く姿勢は変わらない。肩を落としながらも、濡れた衣類をきつく絞った俺は木の枝に干していく。やはり火がないと乾きにくいだろう。それに、少し肌寒くなってきたような気がする。暖をとる用意もなしに川に飛び込んだ自分をぶん殴ってやりたくなった。
「火起こしなんてしたことないぞ」
と文句を言いながら、何となくそれっぽい木材を集めてみる。取り敢えず、燃えやすそうな木の皮の上に良い感じサイズ感の真っ直ぐな枝を立て、動画で見たことのある動きで勢い良く摩擦を起こす。
手のひらを擦り合わせる動作は、少し離れた所から見れば、切羽詰まった表情で必死に拝んでいるように見えるだろう。確かに、火がつきますようにと祈りながら動かしているが、実際にやってみるとこんなに大変な作業だとは思わなかった。体温がどんどん下がっていくのを感じる。これはまずい。
「うぉおおおおお!」
始めはこれでもかと手のひらを擦り合わせ、間に挟んだ枝を回転させることで木の皮と摩擦熱を発生させていたが、それよりも鉛筆のように持って前後に擦る方が力が入りやすかった。
キュキュキュと摩擦音を鳴る中、やがて焦げ臭くにおいと共に白い煙が出始めると、すかさず枯れ草を近づける。そこにそっと息を吹きかければ、ぽっと小さな火がともる。
「来た来た来たっ!?」
ここまで来るのに、一体何度失敗しただろうか。少しずつ材料を変え、ようやく火種を作ることに成功した俺は、震える手を抑えながらヤシの実のように繊維質な植物に移した。更に空気を送り込むと、一気に火がつき炎が揺らめく。
「よっしゃぁああああ」
こうして火起こしに夢中になっていた俺は、すぐ背後に危険が迫っていることにまるで気が付かなかった。悪寒を感じたのは、すっかり体温が下がってしまったからだけではない。
……っ?
雷紋の走る背中に刺す様な視線を感じた俺は、動きを止めて辺りを窺った。せっかく立ち上がった炎が、段々と小さくなっていく。