第6話:胃の中の俺、この世界を知らず
日没後の異世界は、恐怖以外の何物でもなかった。幸い、訪れた夜の世界には暗闇にぽっかりと穴でも開いたかのような満月が浮いていて、その月明かりで辺りを認知することはできる。
しかしここは、俺が慣れ親しんだ世界の理から外れた異世界だ。鞭振るう女王様に、酔狂する変態たち(ここだけなら元の世界にも居そうだが)、炎に包まれても中々死なない鶏に、人を丸飲みにできるほどの巨大な怪鳥。
俺は今、女王様と再びはぐれ、命がけの逃避行を継続している。
時は二時間ほど前に遡る。
……
「神谷君、風が気持ちいいだろう?」
「なんですかぁぁあああ?!!!」
「この土地は蒸し暑くて仕方ないからねぇ。こうしてバイクを飛ばしている時が、一番開放感がある。そうだろ?」
女王様が運転するバイクは赤土の荒野を越え、砂丘のような場所を爆走していた。荒涼とした乾燥地帯、吹き付ける風によって巨大な砂の波紋が幾つも連なり、天然のビックウェーブが形成されている。
「ぅぉあああああ!」
バイクと俺を繋ぐ鞭の長さは30メートルほどだ。波の間を縫うように走るバイクに牽引されているため、その動きを追従するように右へ左へと振られる。その結果、金色のゲレンデをサンドボードのように滑走する俺は、プロ顔負けのジャンプをいくつも披露した。
「神谷君、なかなか上手いじゃないか!」
「どりゃぁああああ」
体力の消耗を避けるべく極力飛び上がらないようにコントロールしていたが、波打つ砂丘が崖のように崩れているポイントでは予期せぬ大ジャンプを披露する羽目になる。当然、風景を楽しむ余裕などない。開放感どころか、文字通りに何度も空へと舞い上がっていた。
バイクを運転している女王様には、俺が大きな波に向かうように進路をわざと誘導している節がある。強制的に引き出された意外な才能に喜ぶ間もなく、上達への近道は練習あるのみとでも言わんばかりに、次から次へとテイクオフさせられた。
習うよりも慣れろ。嘗てこれほどまでに、この言葉を実感したことはない。そして、慣れて気が弛んだ時にこそミスが起きるということも。
「あっ、やば」
空中で姿勢が崩れることは度々あったが、その度に死ぬ気で着地を決めてきた。しかし、今回はダメだった。大ジャンプする直前、地面に岩でも埋まっていたのかボード先端が突然埋没し、次の瞬間、前のめりに高速回転しながら空中へと放り出された。
「っ?!」
見ると、遥か眼下に女王様のバイクが見えた。その後には、黒い紐がどこか哀愁を漂わせながら引きずられている。慌てて身体を確認すると、俺とバイクを結んでいた鞭が解けている。
「うっそぉおおお?!」
動きを支える鞭がないため、身体を捻っても回転を止めることができなかった。ハンドスピナーのように側転するような格好で空中を舞う俺に、次なる不幸が空から襲い来る。
猛スピードで迫る影、その存在に気づいたのは、ドライブ回転の高速スピンがガチッと急停止した瞬間だった。
目を回しながらも何事かと足元を見ると、大きく開かれた怪鳥の口にボードが縦方向で挟まっている。絶賛捕食され中なので全貌を確認することはできないが、セスナ機程の大きさはあるのではないだろうか。
「チュビチュビッ!!」
「何だコイツッ?!」
俺を丸飲みにできなかった怪鳥は、意地でも食べようとその口に力を込め始めた。軋むボードはミシミシと音を立て、限界まで湾曲している。
「ヤバいヤバい、ヤバいヤバい!」
このまま怪鳥の胃袋に入るよりはマシだろうと、ボードと脚を固定していたアンクルストラップを解いた。その瞬間、風圧によって再び大空へと放り出されてしまう。
獲物が逃げ出したことに気づいた怪鳥は、嘴にボードを挟んだままで素早く旋回すると、勢いをつけて飛びかかってくる。
「チュビーッ!」
「おわぁあああ……!」
身体を丸めて小さくなったところに、挟まっているボードが勢いよく迫りくる。ぶつかった勢いでつっかえが取れると、俺はボード共々胃の中へとダイブすることになった。
「喰われてたまるかぁああああ!」
何とか喉元で引っかかろうと抵抗したが、激しい嚥下に負けて丸飲みされてしまった。ぶよぶよとした質感のチューブの中を滑り落ち、ふくらみのある空間に落ち着く。
「はぁ、嘘だろ。マジで食われた?!!」
一切の光が届かない真っ暗闇の空間。太鼓のようにこもった音が響き、粘性のある酸っぱい体液で満たされている。そう、完全に胃袋の中だ。
人を丸のみにできる鳥なんて聞いたことがない。見た目や大きさは、もはや普通の鳥類なんかではなく、図鑑や化石でしか見たことがない翼竜のようだった。
やっぱりここは、俺の知っている世界ではないようだ。しかし、女王様はバイクに乗っていたことから、しっかりとした文明がある事は推察できる。
異世界系の創作では、便利な魔法が普及しているばかりに科学文明の発達が疎かになっているという設定も多いが、ここはそうではないらしい。
「って、今はそんなこと考えてる場合じゃない!!」
ここは異世界である前に、化け物の胃袋の中だ。
こうしている間にも、胃酸による体の分解が始まっているかもしれない。そう思うと、全身を襲うヒリヒリと痺れるような感覚が気になってくす。両腕をさすると、温泉に入った時のようなもっちりとしたツルスベ肌になっていた。
「ひっ、皮膚が溶けてるっ?!」
これはヤバいやつだ……。
理科の実験中、水酸化ナトリウムが手についた時のことを思い出した。「ぬるぬるするんだな」と友人に呑気な感想を言っていると、「皮膚の表面が溶けてるんだぞ」と先生に言われ、慌てて水洗した記憶が走馬灯のようにフラッシュバックする。
あの時はそもそも希釈した水溶液だったし、すぐに流水で洗ったから大事には至らなかったが、ここではもうどうしようもない。このまま全身がドロドロに溶けてしまう妄想が止まらず、声にならない声が出る。
「あばばばばばば」
完全にパニックになった俺が、胃液に浮かびながら右往左往していると、すぐ耳元で控えめな声がした。
「あのー……」
「うわあああああ!!」
驚いて飛び上がった俺は、すぐに背後の胃壁に跳ね返されて戻ってくる。
「あわわわ、大丈夫ですか?」
「うへぇえ、だれっ、誰っ?!」
「驚かせてしまって、すみません!!」
まだ声変わりしきっていない少年のような声が、暗闇の中で響く。。
「人!?、人っ?!」
「はい、人です! あの、決して怪しい者じゃ」
と落ち着かせるように語りかけてくる声の主は、「こっ、これで見えますか?!」と暗闇の中で何やらゴソゴソし始めた。
すると、淡い緑の蛍光色がゆっくりと目の前に広がり、胃袋の中の様子が少しだけ明らかになる。光源の方を見てみると、暗闇に青白い顔が浮かんでいた。
「っ幽霊?!」
「違います、生きてます」
蛍光塗料や蓄光塗料でも塗った物質を持っているのだろうか。ペンライトを振るように手のシルエットが顔の前で左右に揺れる。
「だっ、大丈夫ですか?」
「うん、君は……」
「自分も食べられてしまって」
「ああ、そっか。まあ、そうだよね。じゃないとこんな所に」
優しく灯る光の向こうで、大きな瞳がパチパチと瞬きをする。まさか自分以外の人間がいるとは思わなかった。取り乱していた自分が急に恥ずかしくなる。改めて相手の顔を見ると、吃驚するほどの美少年だ。
俺よりも5歳若いぐらいだろうか。見た目はまだ幼いが聡明な顔立ちで大人びた雰囲気があり、青い瞳は深い知性を感じさせる。
瞼を縁取る長いまつげは繊細な印象を与え、子供から大人へと変わりゆく期間の絶妙な美しさをバランスよく演出している。。
「落ち着きましたか?」
「うん、ありがとう。ごめん、つい取り乱してしまって。如何せん初めてのことだから」
「あはは、食べられ慣れてる人なんていませんよ」
「それもそっか……」
明らかに動揺を隠せていない俺は、少年の手には収まる光る不思議な物質に話題を移した。
「それは、キノコ?」
「はい、ヤコウタケの一種です。外部から刺激を受けると特定のたんぱく質が分泌されて、化学反応を起こして蛍光するんです。発光色は生息域によって異なるんですけど、こうやって―」
と少年が松茸サイズのキノコを握り締め上下に撫でようとしたところで、「まあまあまあ」と慌てて制止する。決して変な意味じゃない。
「あぁ、ヤコウタケね。なんか聞いたことあるような気がする。でもこんなに大きいものだっけ?」
「そうなんですよ。これはこの辺りに生える珍しい種類で、一般的なものよりも大きい上に、長く光るんです。しかもですね―」
目を輝かせながら嬉々と説明を始める少年は、子どものような無邪気さで年相応の可愛さがある。
「すみません、長々とつまらない話を」
「いやいや、お陰で落ち着いたよ」
「自己紹介がまだでしたね。僕はアステリオと言います」
初手からずっと大人の対応を見せられている俺は、不甲斐ない自分にもどかしさを感じた。ここは一つ、年上としてしっかりとした姿を見せたいところだが、生憎、人生経験は普通の人よりも浅いのだ。
「アステリオか。俺は神谷、よろしくな」とせめて大人っぽい声で自己紹介してみる。
「神谷さんというんですね。よろしくお願いします」
と手を差し伸べてくるアステリオ。俺はぎこちなくその手を握った。緑色の蛍光下だからわかりにくいが、目の大きさや肌の質感、恐らく黒ではない髪色から純粋な日本人ではなさそうだった。日本語が話せるということは、ハーフなのだろうか。
「アステリオはどうしてここに?」
「父の出張についてきたんですけど、珍しい植物を探しているうちに迷子になって、高い木の上に登って辺りを見渡していたらパクッと」
「なるほどね」
確かに、夢中になると周りが見えなくなるタイプだとみた。白衣っぽい格好をしていることからも科学が好きなのだろう。植物や鉱物の採種をしていたようで、覗く鞄の中には色んな道具が入っている。
「神谷さんは、どうして?」
「ああ、俺はね―」とここまでの簡単な経緯を話す。
「えっ、それじゃあ神谷さんはひょっとして……」
「うん、そうだな。こうしてアステリオと話をしていて確信したけど、俺はどうやら異世界に来てしまったらしい」
「異世界……。確かに神谷さんがいた世界とは違うでしょうけど」
「うん。でも、どこか似た雰囲気ではあるんだよなぁ」
「ちなみにそのお腹は?」
「ああ、これ? これはさっき話した地獄鳥の卵」
「これがあの?!」
どうやら地獄鶏の卵は相当珍しいようで、アステリオは興奮気味にその希少性と魅力を語り始めた。その姿はまるで学者というよりも、限界を超えたオタクのようだ。
卵や地獄鶏の生態に関する話はヒカリタケの発光が終わるまで続き、胃袋の中は再び真っ暗になる。
「取り敢えずめっちゃ貴重ってことはわかったわ」
「すみません。また暴走してしまいました……」
「それより、ヒカリタケってもう無いの?」
「はい、さっきのが最後の一本でした。他に明かりを灯す手段がない事もないんですけど……」
「ああ、火とか爆発系?」
「そうなんです。水気も多いし、ここではちょっと使えないかなと」
水気という言葉で思い出す。飲み込まれてからそれなりの時間が経過している。
「アステリオはさ、どの位ここにいるの?」
「そうですねぇ、神谷さんが来るまでにちょうどヒカリタケを五本使ったので、恐らく四十分ぐらいですかね」
「四十分も?!」
人間の場合、食べ物が胃で溶けるのにはどのくらいの時間がかかるのだろうか。高校では化学と物理を取っており、生物は学んでいなかった。くっそ、こんなことになるなら勉強しておけば良かった。
「呑気に話してたけどさ、ここって胃の中だよな。溶かされるんじゃ……」
「そうですね。でも、噛み潰されていないんで大丈夫だと思います」
胃液に浸される表面積的な問題だろうか。それとも他に何か? 好奇心旺盛なアステリオは、むしろこの状況を楽しんでいそうでもあった。何でそんなに落ち着いていられるんだ。
胃壁にボードを叩きつけてみるが、返ってくるのはくぐもった反響音とゴムのような手応えで、力いっぱい足蹴にしてみてもびくともしなかった。
「無駄ですよ、神谷さん。大燕の胃袋は、とても頑丈なことで有名なんです。それに……」
「いや、アステリオ。諦めたらそこで試合終了だぜ。俺たちは必ずここから脱出するんだ」
良い格好を見せるチャンスだ。このまま大人しく消化される気など更々ない俺は、フィンガーリングを使って内側からダメージを与え始めた。鬼に食われた一寸法師もこんな感じだったんだろうか。
「うおぉおおおお」
雄叫びを上げながら手当たり次第に無我夢中で刺しまくる。
「喰ったことを後悔させてやるぜっ!」
「ピジューッ!!」
胃袋に異変を感じたのか、大燕は一際大きな鳴き声を上げて乱高下し始めた。バシャバシャと胃液が波打ち、酸っぱい液体が口の中に入ってくる。
胃の中は大波に揺られる漁船の船内のようで、溺れないようにバランスを取りながらアステリオに声をかける。
「ぶはっ! アステリオ、大丈夫か?!」
「はい、神谷さん。気を付けてください!」
その直後、飛んでいる時の浮遊感が無くなった代わりに、押し付けられるような重力を感じた。どうやら着地したらしい。
それから胃袋の向きが垂直になると、えずく様なぜんどう運動が始まり、徐々に胃から口へと持ち上げられていく。
これで外に出られる!
舌の上を這って嘴の外へ出ようとした時、「ピーピー」と鳴き声を上げる大きな雛鳥の姿が目に入った。アステリオが妙に冷静だったのは、雛の餌になる可能性に気づいていたからか。
「まだピンチじゃねぇか!」
そのまま勢いよく吐き出された俺は、手にしたボードを盾にして雛鳥の啄みを何とか回避すると、勢いそのままに巣の外へと転がり落ちた。
「うぉおあおあ……」
大燕の巣は巨大な木の上に作られており、地面は全く見えなかった。何かに掴まろうと慌てて手を伸ばすが、勢いがつき過ぎていて枝葉に弾かれてしまう。
大きな葉っぱやキノコの上で何度もバウンドを繰り返した後、俺はようやく地面に投げ出された。