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第1話:落ちた日


 悪いことをしたら地獄に落ちる。

 嘘をついたら閻魔大王に舌を抜かれる。


 俺たち兄弟を叱るとき、両親はいつも地獄の話をした。現世で悪いことをした人間は、死んだら地獄に落とされる。地獄は大きく八つの階層に分かれており、いずれの地獄も人外魔境の異質な世界で、生前に犯した罪の重さによって行き先が変わるそうだ。


 閻魔大王の裁きによって地獄行き先となった亡者たちは、そこに巣くう獄卒と呼ばれる鬼たちと、ある意味本当の"鬼ごっこ"に興じることになる。捕まったら最後、消えない業火で身を焼かれたり、全身を貫かれたり、骨まで細かく切り刻まれたりするらしい。


 文字通りに死ぬほどの苦しみを味わったとしても、肉体がボロボロに朽ち果てようとも裁きに終わりがくることはない。地獄には現世のような物質的な肉体は存在しないため、しばらくすると身体は元通りになるのだ。泣いても喚いても何度死んでも赦されることはなく、甦った傍から獄卒たちに追い立てられ、死んでも死ねない苦しみが永遠に続く。死んで償うという言葉が一切の意味も価値もない世界、それが地獄だ。


 俺が思い出せる一番幼い記憶は、兄と二人で父親の膝に座って地獄について描かれた絵本を読み聞かせされている瞬間だ。


 子供向けということでキャッチャーな絵柄でポップに表現されているが、内容自体はマイルドとは言い難い。実は祖父が監修していた本だったと知るのは後のことになるが、母方の実家が由緒あるお寺だったとは言え、今思えば英才教育が過ぎている。


 元気が有り余り、両親の手を焼くほどにやんちゃだった俺たち兄弟は、大型連休がくる度に祖父母宅である九州地方のお寺に送り出された。般若のような強面の祖父に監視されながら、お寺の手伝いでもすれば、生意気さも影を潜め、少しは大人しくなるだろうとの事だった。


 とは言え、実の子たちには厳格な祖父も幼い孫には優しいもので、俺たらがお寺の境内で走り回ったり、お手伝いをサボったりしても怒らず、寧ろ元気があってよいと褒めるのだった。お盆休みや年末になると全国から親戚が集まってくるので、毎日がお祭り騒ぎだった。


 大人しくしているのは説法を聞いている時ぐらいだったが、大人たちが有り難がる話など、子供には退屈以外の何物でもない。すぐに飽きて集中力を欠いてしまう俺たちは、お寺に保管されている絵巻物を見せるように頼んだ。


 それはかつて、ご先祖様たちが経験してきた鬼や魔物との戦いの日々を記録した書物だった。実は国の重要文化財でもあるらしいのだが、そんな事も知らずに、俺たちは絵本や漫画を読むような気軽さで、畳の上に広げられた絵巻物を眺めながら色んな話を聞いた。


「これは何の様子?」

「地獄の鬼たちが現世に溢れてきた時の様子だよ」

「この人は?」

「私たちのご先祖様だよ」


 不思議な力に護られているらしく、戦時中の火災でも燃えなかったと言われる絵巻物の中には、地獄を管理する者たちと会談するために、ご先祖様が地獄に赴いた時の様子が描かれた物もあった。


「お爺ちゃんも戦ったことあるの?」

「もちろん。若い頃はね」と袖を捲った祖父は、戦いの時にできたという傷跡を見せてくれた。


 稲妻が走ったような火傷や酷い裂挫創の痕が残っており、脚が少し不自由なのも戦いの後遺症だと言っていた。


「鬼とかって本当にいるの?」

「いるよ。良い子にしていないと、襲いに来るぞ!」


 今思えば、兄弟の性格の違いは絵本の読み聞かせをせがむような年頃から既に出ていた。「鬼に襲われてもやっつければいいんだよ」とファイティングポーズを取る好戦的な兄に対し、「そもそも捕まらないように逃げればいいんだよ」と厭戦的な俺は、かけっこに夢中な子供に育った。


 両親たちが地獄について語るのは、人様に迷惑をかけないように身を正して生活してほしいという願いからだったのだろうが、幼い僕たちには脅しによる躾など全く利かなくて、僕らは各人の性格を真っ直ぐ反映させるように成長していった。


 地獄に落ちることがあっても鬼から逃げられるように。そんな子供の頃の思惑は、いつしか純粋に誰よりも速く、風のように走ることへの喜びや楽しさに置き換わり、小学生の頃から足の速さに自信があった俺は、中高一貫の私立に進学してからは陸上部に入った。


 早生まれの所為もあり、同級生たちよりも身体が小さかった俺は、周りに追いつこうと成長の遅れを練習量でカバーしようとした。明らかにオーバーワークで怪我を連発する俺に、顧問の先生は「お前は高校で開花するから焦るな」と助言した。その真剣な眼差しを信じた俺は、大会の成績よりも身体の成長に合わせて全身を鍛えることにした。


 中学時代では一つ一つ筋肉の付き方や効果的な身体の動かし方を徹底して学び、満を持して高校に上がった俺は、本格的に走る技術に磨きをかけるとその年のインターハイでいきなり県代表になることができた。


 だからこそ、自分の脚力に絶対的な信頼と揺るぎない自信があった俺は、夕方の大雨の中、道路の真ん中で立ち往生して今にも車に轢かれそうになっている黒い子猫を見つけた時、躊躇なく飛び出した。


 危ないから止めておけと制止する友人に鞄と傘を託した俺は、「大丈夫だって」と残すとタイミングを見計らって車の行き交う五車線道路に走り出した。


 曇天で視界が悪く、弾丸のように打ちつける雨粒を無数のヘッドライトが映し出す中、俺は素早く道路の半分を渡った。


 立ち止まるのは危険なので、勢いを余り殺さないように減速しながら子猫を右手で捕まえると、そのまま反対車線を走りきる。けたたましいクラクションを背中で浴びながら、抱きかかえた子猫を確認する。


 冷たい雨に濡れて体温は下がっており、小さな身体を小刻みに震わせていた。外傷はないようだが、すぐに温かくして動物病院に連れて行った方が良さそうだ。向かいの道路で待っている同級生に合図を送ろうと振り向いた時、腕の中から小さな声が響いた。


「鳴瀬威風様、ありがとうございます」

「は?」

 

 何かの聞き間違いだろうか。子猫が喋ったことにぎょっとしながら手元を確認すると、青色と黄色のオッドアイと視線が交わる。


「喋った?」

「ええ、お迎えに上がりました」

「おぇ?!」


 はっきりとした流暢な日本語に目を見張った次の瞬間、閃光弾が炸裂したような眩い光に包まれた。視界は一瞬で真っ白に染まり、地面を震わせる重低音が俺を中心に鳴り響く。


 眩暈が起こるような耳鳴りの中、徐々に戻ってきた視力が再び像を結ぶと、目の前は異質な光景が広がっていた。


「え、なんで……?」


 唖然としながら辺りを見渡す。俺はいつの間にか、カナダのデヴォン島やチリのアタカマ砂漠のような、褐色に染まった荒涼とした大地に、たった一人で立っていた。


 見上げた空には雲一つなく、さっきまでの大雨が嘘だったかのような快晴だが、俺の身体は確かにびっしょりと濡れている。


 一体何が起こったのだろう。まだ朦朧とする意識の中、数秒前の出来事を思い返す。俺は確か、部活帰りに道路で轢かれそうになっている子猫を見かけて、と腕に抱いていたはずの黒猫がいないことに気づく。


 そう言えばあいつ、人語を話したよな?!

 何て言ってたっけ?


 頭を抱えながら混乱していると、それまで気に留めなかったが右腕に痺れるような感覚があることに気づく。


「そうだ。俺、雷に撃たれて……」


 改めて身体を確認すると、手の甲にシダの葉のような模様が赤く残っていた。恐らく皮膚に電気が流れた痕だろう。雷に打たれた傷痕である雷紋は、右腕から背中の方へと、入れ墨のように走っていた。


 もしかして、俺、死んだのか?

 いや、でも意識ははっきりしているし、感覚もある。


 身体に刻まれた雷紋の禍々しさに対し、着ていた制服は少し焦げた程度で原型を保っている。他の装飾品はどうか確認すると、幸いにも腕時計は生きていた。時間は十九時過ぎを示しているが、周りは昼間の明るさで太陽も頭上に昇っている。

 

 となるとこれが噂の異世界転生だったりして? 

 でも、姿は変わっていないから異世界転移か?


 なんて呑気な言葉が頭をよぎる。セオリー通りなら異世界人とのファーストコンタクトというイベントが自動発生するはずなのだが、いつまで待っても人っ子一人現れない。


「まさか、本当に死んだ後の世界とか……?」


 吹き荒れる大地のざらついた風に身を曝していると、子供の頃に読み聞かせられたら絵本の内容が思い出された。しかし、目の前に広がる光景は、話に聞いていたものやネットで見聞したものとは全く異なっている。天国と言うには殺風景だし、地獄というには穏やかな場所だ。


 確かに荒れ果ててはいるが、地球上を探せばどこかにありそうではある。天国や地獄と言うよりもむしろ、文明が崩壊した後の世界とか、火星に飛ばされたとでも言われた方がまだ納得できる。


 となると、落雷によって昏睡状態に陥り、夢を見ている可能性もあるか?

 その場合、目覚めるにはどうすれば良いのだろう?


 声に呼ばれる方に行ったら意識を取り戻したという体験談を聞いたことあるが、耳を澄ましてみても風の吹き抜ける音しか聞こえない。


 いずれにしても、この場に居続けたところで事態は好転しそうにない。取り敢えず適当に歩き進んでみたが、360度同じ様な景色が広がっていると、次第に真っ直ぐ進んでいるのかわからなくなってくる。常に四方八方から吹き付ける突風が、砂地に残る足跡をすぐに消し去っていた。


「なるほど、こうやって人は遭難するのか」


 立ち止まった俺は、他人事のように自分の状況を客観視する。何か目印になるような物はないだろうか。遠くに眼を凝らすと、遥か前方に位置する陵丘が白い帯で縁取られているように見えた。


「何だあれ……?」


 スマホのカメラでズームしようと思ったが、生憎、友人に預けた鞄の中に入れたままで持っていない。じっと目を凝らしていると、背後からバイクのようなふかし音が響いてきた。


 飛び上がるように振り返ると、数百メートル程後方にちらつく光の点が、土煙を棚引かせながらこちらに向かって一直線に走ってきているのが見えた。


「俺のこと見えてるよな?!」


 徐々に大きくなっていく光の塊は、真っすぐ俺に向かって進んできている。直撃を免れようと左へ右へと走ってみるが、バイクのヘッドライトはサーチライトのように俺を狙って逃さなかった。






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