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プロローグ:青天の霹靂


 いつもより早く目が覚めた朝。


 いつもより早く朝支度をして、いつもより早く家を出る。ただそれだけで、いつもと違う世界が広がっている。


 いつもの通学路に、いつもの時間ではすれ違うことのない人たちの姿。街は時間帯によってその色を変え、見慣れたはずの景色がまるで初めての場所のような新鮮さで目に映った。


 くらむような眩しさを誇る太陽を正面に、俺を運ぶ軽快な足取りはいつもと同じ通学路を進んでいく。街を渦巻く喧騒、その中に響く誰かの甲高い笑い声。遠くで雷鳴が轟き、木の葉のさざめきで木漏れ日が踊る。


 この街は平凡そのもので、『退屈』という言葉の凡例として辞書に記されていてもおかしくはない。しかし、その平凡さがどれほど愛おしく、どれほど恵まれていた場所であったかということを、俺は数時間後に痛感することになる。


……


 それまでの生活は、とにかく代わり映えのない毎日だった。


 毎朝同じ時間にけたたましく騒ぎ立てる目覚まし時計に「たまにはサボったらどうだ」と拳骨を喰らわせることから俺の一日は始まる。


 二度寝、三度寝を見越して家を出る一時間前に設定しているので、今日もこのままもう一眠りしたいところだったが、今朝は勢い良く殴り過ぎた所為で、机の上から吹き飛んでしまった。


 窓の下まで転がった目覚まし時計は、「カーテンを開けろ」とでも言わんばかりにアラーム音を響かせている。


「うぁあああ、うるさいなぁ……」


 とどめを刺すために起き上がると、コツコツと窓ガラスを叩く音がした。そのままカーテンに手を伸ばすと、向かいの家で飼われている黒猫が窓を開けろとノックしている。


「なんだよ、朝からうるさいぞー」


 言われた通りに窓を開けてやるが、部屋に入ってくることなくそのまま立ち去ってしまった。一体何がしたかったんだ。


 そのまま視線を窓の外に向けると、どこにでもある住宅街の平和な光景が広がっている。今日もまた同じような一日を過ごすのだと思うと、このまま家にいても一緒じゃないかと思う。


「学校面倒くせぇ。爆発しねえかな……」


 と呪詛を唱えた俺は、既に高い位置にある太陽を一睨みして瞼を閉じる。そのまま暫く日光浴をしていると、見えていなくても感じる日光の強さと温かさで不思議と目が覚めていった。


 ふと視線を感じて目を開けると、向かいの家の窓が開いていた。その部屋では、幼馴染のお姉さんが黒猫を抱いていて、目が合った。気まずさにぎこちなく頭を下げると、彼女は一瞬反応したようだったが、そのまま背を向けてしまう。


「あっ……」


 妙な胸の高鳴りで二度寝する気が無くなった俺は、たまには早く学校に行くのもありかとリビングに降りた。

 両親は既に朝食を済ませており、珍しく早起きしてきた俺に驚いている。


「おはよう」

「あら、こんな名時間に珍しい。テストでもあるの?」

「雷でも落ちるんじゃないか?」

「それを言うなら雪が降るでしょ」


 と笑いあっている両親を適当にあしらい、俺は用意されているサラダを口に運んだ。BGM替わりに流されているテレビでは、ちょうど今日の星座占いをやっている。


 双子座の運勢は最高で、衝撃的なイベントが起こるかもとのことだった。ラッキーアイテムは手紙で、ラッキーカラーは黒だという。


「ごめん、ちょっと焦げちゃった」

「全然いいよ」


 と母から受け取ったトーストに、バターを溶かして齧りつく。我が家の朝食メニューは365日同じで、「たまには違うものが食べたい」なんて贅沢なことを口にしようものなら、俺の1日のルーティンから朝食というイベントは無くなってしまうだろう。今日もありがたく朝食を頂戴し、食後の珈琲まで楽しんだ。


「いってらっしゃい、気をつけてね」

「うん、行ってきます」


 着慣れた制服に身を包んだ俺は、若干過保護な両親に見送られて家を出る。いつも決まった時間のバスに乗って、決まったルートで学校に行く。決められた教室の決められた席で、決められた時間割に沿って教科書に沿った授業を受ける。


 ここで得た知識が一体何になるのだろうと思いながらも、人生を賭してやりたいことのない俺は、大人しく椅子の上で時間を潰す。


 自由になるのは放課後ぐらいだが、手のひらの選択肢としては部活に行くかサボって友人たちと遊ぶかぐらいで、結局型にはまっている。休日は大抵、部屋に籠って読書か映画を見て過ごす。


 手持ち無沙汰になったらネットの海の波に乗り、疲れたら夢の世界にダイブして、気付けば一日が終わっている。遊びに出るのは誘われた時ぐらいで、連休中でも、一歩も家から出ずに過ごすことはざらだった。


 昨日と同じ今日など一つもないが、概要だけを取り出してみたら、いつも同じような一日を過ごしている。


 こんな感じであっという間に一週間が過ぎて、五回繰り返せば月が替わる。春夏秋冬、季節が廻れば学年が上がって、教室やクラスメイトも変わる。でもそれは、単に、俺が演じる舞台のセットや演出、出演者が新しくなっただけで、話の大筋が変わった訳じゃない。


 俺はこうやって、誰かの青春の焼き増しみたいな、ありふれた人生を歩んでいくのだと思っていた。よくある平均的な人生を、レールに沿って走る電車のように。


 いつもより早く着いた学校は、通学ラッシュの時間帯ではない所為か、閑散としていて余所余所しい雰囲気に満ちていた。


「今日、休みじゃないよな」


 不安を訴える心を誤魔化すように、足音を響かせながら学生玄関に向かう。靴を脱ぎ、自分の名札がついている靴箱を開けると、何かがかさりと零れ落ちた。しゃがみ込んで手に取ると、どうやら封筒の様だった。一瞬の沈黙、出会うことのない珍獣を目撃した時のような衝撃に動きが止まる。


 これはもしかして……。


 今朝の星座占いが頭を過った。隠す様に慌てて胸に抱えると、一先ず深呼吸をした。きょろきょろと辺りを見渡してみるが、早朝の学生玄関に俺以外の気配はない。それからゆっくりと、手にした封筒に視線を落とす。どうやら手紙のようだ。身体が熱く、汗が頬を流れたのは、夏の日差しの中を歩いてきた所為だけではなかった。


 早起きは靴箱にラブレター。


 俺の辞書はそう書き換えられ、男なら一度は憧れる夢のシチュレーションに図らずも遭遇した俺は、舞い上がりそうになる心をポーカーフェイスの檻に閉じ込めて、何事もなかったかのように教室に急いだ。

 早く中身を確認したいと先走る気持ちが、廊下に響く足音のテンポを上げる。


「おお神谷、珍しく早いな!」

「おはよっ!」


 声をかけてくる他クラスの友人を適当にあしらい、俺は教室に駆け込んだ。どうやらクラスには先客がいるようだったが、それが誰なのか気に留める余裕はない。


 左から二列目の後方にある自分の席に座った俺は、机の下に隠しながら慎重に封を破った。中に入っている白い紙をゆっくりと取り出すと、そこには短い文が一つだけ書かれていた。


『今日のお昼休み、理科棟の屋上で待っています。』


 ただ、それだけが書いてあった。


 手紙を持つ手が震え、自分の意志に反して口角がつり上がっていった。「ついに俺の時代が到来したか」とほくそ笑むのも束の間、ぬか喜びをさせないように冷静な声が頭の中に響いた。


 ひょっとして、誰かが俺を陥れようとしていないか。


 モテない人生を歩んできた故の被害妄想だ。友人たちが二ヤリと笑う卑しい顔が、容易に想像できた。ピュアな男子高校生の心を弄ぶとは、なんと最低な奴らだろうか。地獄に落ちろと思いながら、もう一度文字を見てみる。


 女子特有の丸っこい字で書かれた文字は、どこか見覚えのある筆跡だった。紙もルーズリーフやノートを破った物ではなく、きちんとした便箋が用意されている。あのがさつな男たちが、ここまで準備するとは思えない。それに、何だかいい匂いがするような気もする。


 決定打には欠けるが悪戯ではないと考えると、差出人は誰だろう。裏を確認してみても、封筒には『神谷君へ』としか書いていなかった。ふと視線を感じて頭を上げると、教室の前方で動きがあった。


 慌てた様子で席を立ち、教室を出て行く一人の女子生徒。靡く艶やかな黒髪に、すらりと伸びた白い四肢。がたりと音を立てて揺れている机は間違いなく、学校のマドンナである鏡美波瑠の席だった。


 もしかして、差出人は鏡美さんなのか……?


 珈琲のカフェインが効いてきたのか、俺の脳細胞はかつて無いほどにフルスロットルで思考を回し始めた。考えてみれば、昨日は警備員に追い出されるまで友人たちと教室でスマホゲームをしていた。恐らく学校を最後に出たのは俺たちであり、帰る時には靴箱には何も入っていなかった。ということは、この手紙が靴箱に入れられたのは今朝であることに間違いない。


 丁度黒板には、昨日の日直である鏡美さんの文字が残っていた。今日の日直の欄に、彼女の筆跡で俺の苗字が書かれている。その筆跡を比べてみると、トメやハネの癖が一致しているように思えた。それに手紙の匂いは鏡美さんと同じような気もする。


「……マジか」


 思わず心の声が零れた。

 まさか鏡美さんも、今日に限って俺が早く登校してくるとは思っていなかったのだろう。送り主と受取人が、教室の中で二人きり。彼女の心中を想像するだけで逃げ出しそうになる。


 鏡美さんはきっと、その気まずい雰囲気に耐えられなくなったのだろう。もの静かであまり感情を見せず、高嶺の花のお姫様のような印象を持っていたのだが、彼女もやはり、普通の女子高生と変わらないのだ。


「ふーぅ、なるほどね……」


 深い息を吐いて背もたれに寄り掛かった俺は、やれやれといった表情で彼女の去った机を眺めた。初めて貰ったラブレター。その余韻に浸りながら、約束の時間が来るのを今か今かと待ち続けた。



 時間はまるで俺を弄ぶかのように、はっきりとした意識を持って頭上を通り過ぎていく。早く昼休みになれと待ち焦がれる俺の気持ちとは裏腹に、一、二限目はゆっくりと焦らすように流れていった。まるで「会えない時間が二人の気持ちを強くするんだぜ」とでも言われているようで、無性にそわそわとする。


 授業中の鏡美さんは、手紙を出したことなんて無かったかのように凛としていて、いつも通り可愛かった。対する俺は、授業に集中できるような精神状態になく、窓の外を眺めてばかりだ。


 縁取られた青空には薄く雲が伸び、遥か上空を舞う鳥が優雅に黒い影を躍らせている。今の俺には、開け放たれた窓から流れ込む生暖かい微風すら心地良く、中庭に植えられた木々は祝砲の如く枝葉を震わせているように映った。


 いつもなら疎ましい真夏の強い日差しさえ、これから幸せを手にする俺へのスポットライトのようで誇らしかった。


「神谷君、話があるの」

「うん」

「私ね。私、ずっと神谷君のことが……」


 その言葉の続きを聞くよりも先に、俺は鏡美さんを強く抱きしめる。そして、緊張で震える彼女の背中を優しく撫でながら、俺がその言葉の続きを囁く。


 うん、間違いない。


 脳内シミュレーションは完璧だった。そこには疑いようのない幸福に包まれる二人の姿があった。彼女の告白を受け入れる準備は十二分にできており、あとはシナリオ通りに演じるだけだ。


 告白は互いの気持ちを確認する作業、決して押し付けるものじゃない。


 いつかの友人の言葉が頭をよぎる。互いの気持ちを確認した後はどうしようか、そのまま屋上でお昼を一緒に食べるのが良いかもしれない。放課後はどうしよう、デートにでも行こうか。プリクラは外せないし、一つのデザートをシェアして食べたい。その前に五限目の体育だな。格好良いところを見せなければ。


「ねぇ神谷、随分と嬉しそうだね。何かいい事でもあった?」

「えっ?」


 そう声をかけてきたのは、先ほどの金言を俺に授けてくれたクラスメイトの西方寺摩耶だった。彼女は教科書に扮したハードカバーの小説から視線を逸らせることなく、まるで独り言のように話しかけてくる。


「な何で、そう思うの?」

「さっきから波瑠の事ばかり見ているから」

「いや、それは」

「それに、さっきまで悩み多き乙女のような表情で窓の外を眺めてたし」

「はっ?」


 俺は慌てて真顔を取り繕った。


「そんなに気になるなら、声かければいいのに」

「ちょっと声が大きいよ!」


 西方寺とは小学生の頃からの付き合いで、今日までずっと同じクラスという恐ろしい腐れ縁だった。これまで俺がどんな人生を歩んで来たのかを知る唯一の生き証人であり、彼女の機嫌を損ねようものなら、枕に頭を埋めて足をバタバタさせたくなるような黒歴史を学校中に広められてしまう危険性がある。


「別にそんなんじゃないから」

「その手紙、私が渡してあげようか?」

「はっ?」


 彼女はそう言って、ノートの上に置いてある手紙にちらりと視線を寄越した。


「いや、いいよ」

「遠慮しなくても、中を読むような野蛮な真似はしないよ」

「そう言うことじゃなくて」


 どうやら西方寺は、俺が鏡美さん宛にラブレターを書いていると思っているらしい。しかし、残念。実際には俺が彼女から貰ったのだ。心の中でそう誇ると、何も知らない西方寺は言葉を続けた。


「それで、何て書いてあるの?」

「別に何も」

「何も書いて無い訳はないでしょ」

「だから、そうじゃないんだって」


 手を伸ばしてきそうな雰囲気だったので、俺は慌てて手紙をしまった。


「いつもとは違う感じで視線送ってるから、遂に決心したのかと思ったんだけど」

「だから、別にラブレターを書いてる訳じゃないんだって」

「誰もラブレターなんて言ってないじゃない。まさか、手紙で告白する気? どこかに呼び出したりするんじゃないの?」

「んっ?」

「まあ確かに、今の時代は古風なのも逆にいいかもね。エモいわ。一層のこと、短歌でもって詠んでみるってのはどう? あの子、古典とか好きだし、かなりキュンて来るんじゃないって、どうした?」

「あっ……」


 冷静さを取り戻した三限目。授業を受ける彼女の後ろ姿と手紙を何度も見比べながら、俺はふと、一つの可能性に気付く。


「ねえ、聞いる? 折角、女子目線のアドバイスをあげてんのにさー。もしもーし」


 てっきり、この後は屋上で彼女から告白されるのだとばかり思っていた。しかし、その内容が俺の望む物であるとは限らないのではないか?


 漫画やアニメを見過ぎた所為か、早朝の靴箱に入っている手紙=ラブレターという式が、何の疑いもなく頭を支配していた。


 まだこれがラブレターと決まった訳じゃない。それどころか、愛を伝える文章なんて一つも書かれていない只の呼び出し文ではないか。俺は一体何を舞い上がっていたのだろう。


「どうしたの、大丈夫?」

「うん」

「まさか、渡す前からそんなに緊張してるの?」

「だから……」


 もはや、誤解を解く元気もなかった。


「そんなんじゃ、告白する時には死んじゃうね」

「そうかもね……」


 前方に座る鏡美さんの背中を見つめながら、俺は自虐的な笑いをこぼした。彼女の呼び出しが、単なる桃色恋心の告白ではないという非情な可能性に気付いた途端、不安が急に大きくなった。すべては俺の希望的観測であり、彼女が俺のことを好きである証拠は何処にもないのだ。


 確かに、視線が何度も合うことはある。しかしそれは、単に俺が見つめている時に彼女が偶々振り返った結果なのかもしれない。視線が合う度に、彼女は悪戯を見つかった子供の様に恥かしそうに顔を逸らすが、それが恋心による羞恥とは限らない。


 今日俺を呼び出したのは、「ちらちらと私を見るのは止めてくれない?」、と嫌悪宣告をする為なのかもしれない。一度ネガティブな考えが頭を支配し始めると、それは渦巻きながら加速していく。淡々と過ぎ行く時間が、一変してどうしようもなく惜しくなった。


 時間は俺の中に溢れる不安や恐れを読み取ったのか、約束の時間まで一時間を切った四限目は、掴み所のない風の様に去って行った。


 そして、授業の終わりを知らせるチャイムが、無情に鳴り響いた。約束の時が来たのだ。俺はまるで死刑宣告を待つ囚人のような面持ちで、先に教室を出て行った彼女の後を追うように席を立った。


 明らか様子のおかしい俺を心配したのか、友人たちは一緒に保健室に行こうかと優しく声をかけてくれる。彼らのその労わりが、怯える心をさらに震わせる。


 泣くのはまだ先だ。そのまま逃げ出してしまいたかったが、そういう訳にはいかなかった。俺は決めたのだ。彼女の気持ちをしっかりと受け止めると。例えそれが、俺を拒絶する内容だとしても。


「神谷、大丈夫?」

「あー、うん……」

「なんか知らんけど、覚悟でもできたの?」

「覚悟、そうだね」

「そう。じゃあ終わったらさ、ついでに売店でパン買ってきてよ」

「普通さ、こういう時頼む?」

「あはは、いってらっしゃい」


 廊下を歩きながら窓の外を見ると、雲一つなく澄み切っていた青空は一転し、一体何処から湧いてきたのか、灰色の重い雲に覆われてどんよりとしていた。今にも雨が降り出しそうな様子で、「どちらが先に泣き出すのか競争だな」と小さく呟きながら階段を登る。


『今日のお昼休み、理科棟の屋上で待っています』


 右手に握り締めた手紙にはそう書いてある。差出人は誰もが憧れる学校の美少女からだ。俺は一体、何を聞かされるというんだろう。先生に呼び出された時とはまた違う不安が、階段を上がる足を重くする。


 屋上へと繋がるドアに鍵はかかっていなかった。ドアノブを回し、身体を使って重いドアを押し開けると隙間から強い風が流れ込んでくる。


「あっ、神谷君」

「うん」


 沈黙を埋めるように、落下防止のフェンスが風に煽られて音を立てた。彼女は俺の目をじっと見つめている。


「あの、来てくれてありがとう」

「うん」


 憧れている子に呼び出された昼休みの屋上。まるで漫画やドラマで描かれる青春の一ページの様だ。いつもより頬を赤く染めた鏡美さんは、かつてなく可愛くて、風で捲られないようにスカートの裾を握り締めている彼女の手は、微かに震えているように見えた。


「えっと、実は、話があって」

「うっ、うん」


 俺たちの頭上を覆った雲の隙間から、太陽の光が射し始めた。降り注ぐ薄明光線はスポットライトのように俺たちを照らしている。


 あれ? 結構いい感じの雰囲気じゃない?


 俺の不安が、そのまま杞憂に終わってくれたらいい。シミュレーション通りに事が進むようならば、彼女は手を伸ばせば届く距離にいる。あとは力強く抱きしめるだけだ。


「あのね」


 彼女がその言葉の続きを発しようとした瞬間、頭上で雷鳴が轟いた。雷か、と思った時には既に、辺りは白い光で包まれていた。


 度を越した祝砲のような爆発音の中に響く鏡美さんの声。それはシンプルな内容だったが、その言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。


 白い空間に溶けていく俺の意識が、彼女の言葉を何度もリフレインする。


「神谷君、一緒に地獄に落ちてくれないかな」


……


 昨日と明日を繋ぐ今日。


 代わり映えのない毎日。


 日付が替わって訪れた今日が昨日の続きであることを、俺たちはどうして盲信しているのだろう。


 平凡な日常が明日も訪れてくれる保証は何処にもないのに、俺たちはそれを疑うことなく瞼を閉じて眠りにつく。


 誰かの日常が崩壊するのは一瞬だ。


 そしてそれは、大抵、望んでいない時にこそやって来る。


 青天の霹靂とは、まさにこの事だ。


 靄がかかったような意識がはっきりした時、俺は地獄に飛ばされていた。





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