夜嵐の幻舞曲
以前から訪れたいと思っていた山陰地方へ出かけました。砂丘を見て、出雲大社で縁結びのお願いをする計画です。しかし、台風が予報よりも早く接近し、途中の駅で下車せざるを得ませんでした。予約していたホテルには泊まれませんでしたが、幸運にも降りた駅近くに小さな民宿を見つけました。濡れ鼠のようになりながらたどり着いたその宿は、暗く寂れた漁港近くにひっそりと佇んでいました。
看板には剥がれかけた塗料で「民宿・昭和荘」と書かれていました。玄関は閉まっていて、呼び鈴を押しても音がしないので、大きな声で呼びました。
「すみませーん!」
すると、玄関にぼんやりと明かりが灯り、ガタガタと音を立てて引き戸が開きました。中からお婆さんが顔を出しました。見たところ、80歳は超えているようです。
「……すみません、赤坂です。今日はお世話になります」
お婆さんはかすれた声で言いました。
「なんじゃ、お客かえ。まあ、入りゃ」
商売っ気のない人だと思いながら中に入ると、その宿には昭和の香りが漂っていました。薄暗い裸電球、小さなタイル張りの三和土、木製の下駄箱、そして造花が飾られた花瓶が目に入りました。お婆さんは古びた黒い針金製の履物立てから、薄汚れたビニール製のスリッパを取り出しました。
「ウチはな、ずっと昔から宿をやっとる。今日みたいな嵐の日は、トソク様が現れるって言い伝えがあってな。玄関を閉めておくのが習わしなんじゃ。……まさか、あんたトソク様じゃなかろうな」
「トソク様って、なんですか?」
お婆さんはそれに答えず、雨に濡れたノースリーブの私の腕をじっと見つめてつぶやきました。
「……ああ、あんたはちゃうわな」
なにが違うのかよくわかりませんでしたが、きっとこの地域の言い伝えなのでしょう。台風の日はちゃんと戸締まりしないとダメだという教訓が含まれているのかもしれません。
「部屋は二階じゃ。他に客はおらんから、鍵はいらんじゃろ。……風呂は沸いとるで、勝手に入ってくれたらええ。夕食は急いで8時には出せるように言うとくわ」
鍵をもらえないことに驚きましたが、宿の人には合鍵があるでしょうから、鍵を掛けてもあまり意味はありません。夕食は到着が遅くなった私に合わせて準備してくれるようで、ありがたいと思いました。
***
階段には照明がなく、玄関のかすかな明かりを頼りに一段一段慎重に上がりました。一歩ごとに、ギイギイと古びた木の踏み板が軋む音が響きます。上り切ると、半畳ほどの小さな板の間があり、その奥に木製のドアがありました。目の高さに横長の擦りガラスがはめ込まれています。レトロ風ではなく、本当に古いのです。二階の部屋は一つだけでした。ドアを引くと蝶番がギィィィという音を立てました。部屋は真っ暗です。壁を手探りで撫でると、スイッチが見つかりました。プッシュ式ではなく、レバーを上げ下げするタイプだとわかるまで少し時間がかかりました。
パチッ。
天井の蛍光灯がジーッと小さな音を立て、ワンテンポ遅れて点灯しました。硬貨を入れるタイマー付きの小さなブラウン管テレビが床の間にあります。今でも使えるのでしょうか。部屋の隅には扇風機と、薄い布団が一式畳んでありました。テレビはなくても問題ありませんが、エアコンがないのは困ります。料金が格安である理由がわかりました。
お風呂に行こうとして気づきました。ホテルと違って、民宿には歯ブラシやパジャマがないのです。仕方がないので、この服のままお風呂に行って、明日着るつもりだった服を着て部屋に戻ることにしました。
一階に降りると、古びたお風呂場がありました。薄暗い脱衣所には湿気がこもり、古い木の匂いが漂っています。擦りガラスのドアを開けると、ホーロー製の小さくて深い浴槽が目に入りました。湯気が立ち込める中、私はそっと浴槽に身を沈めました。
「ふう」
温かいお湯の気持ちよさに思わず声が漏れました。タイル敷の洗い場には、石鹸とシャンプー、それにリンスがきちんと備えられていました。リラックスできると思ったその瞬間、突然明かりが消えました。心臓が飛び跳ねるような驚きで、私は一瞬凍りつきました。
(えっ!)
台風のせいで停電したのでしょうか。しかし、擦りガラスの向こうの脱衣場には、ぼんやりとした明かりがついていました。停電ではなく、電球が切れたのかもしれません。明るいときは気づきませんでしたが、なんだか少し生臭い匂いもします。海が近いからでしょうか。外のビュービューという風の音が聞こえます。
じっとしていると、だんだん不安になってきます。大きな声で誰かを呼んで電球を交換してもらおうかと考えましたが、もし男性だったら入ってこられるのは嫌です。結局、脱衣所の明かりだけで入浴を続けることにしました。
浴槽から出て髪を洗おうとしたとき、このお風呂にはシャワーがないことに気づきました。仕方がないので、洗面器で浴槽のお湯を頭から被り、シャンプーを泡立てます。そして、泡を流そうと浴槽からお湯を汲もうとしたときに、洗面器を壁にぶつけて落としてしまいました。
「あっ」
洗面器がゴロゴロと音を立てて転がります。泡で目が開けられないので、手探りで洗面器を探します。そのとき、すぐ背後からになにかの気配を感じました。
「ひっ!」
思わず頭を抱えて身体を竦めます。じっとしていると魚臭さも漂ってきます。足先になにか触れていることに気づきました。ビクッと脚を引き、そっと薄目を開けると、それは洗面器でした。
(なあんだ……。ここにあるじゃない)
背中に感じた気配は消えています。いったいなんだったのでしょうか。
(きっと疲れてるんだ。台風で大変だったし)
そう自分に言い聞かせ、私は急いでお風呂を済ませました。
***
部屋に戻ると8時前だったので、すぐに食事へ向かいました。ビニール製の花柄のテーブルクロスのテーブルには、すでに夕食が用意されており、新鮮なイカの活造りを中心に、イカ刺し、イカの塩焼き、イカ焼売、イカ墨の塩辛と、豪勢なイカづくし料理が並んでいます。
お婆さんがご飯をよそってくれました。美味しそうな料理に手を付けようとすると、お婆さんは手を上げて止めました。
「ちょっと待ちいね」
宿のご主人でしょうか、お爺さんが台所からあらわれました。お爺さんはシェフのような白くて長いコック帽を被っています。少し場違いな感じもしましたが、料理はお爺さんが作ったのでしょう。そして、お爺さんが白い手袋をしていることにも気が付きました。ここは漁村の民宿です。もしかしたら、漁の事故かなにかで指を欠損したのかもしれません。
「今日は、特別な日じゃから、よう聞いてくれ」
お爺さんはしわがれた声で伝承を語り始めました。今日の荒れた天気はトソク様が怒っているせいだと言います。私は尋ねました。
「トソク様って、なんですか? この地域の言い伝えですか」
お爺さんはうなずき、イカの活造りを示しました。
「イカの姿をした荒ぶる神の化身じゃ。こんな日はトソク様を敬わねば、祟りがあると言い伝えられとる。だからな、このイカもありがたく頂かんとバチがあたるで」
私は、敬う対象を料理にしていいのかな、と疑問に思いながら食べ始めました。そして、海外ではイカが「デビルフィッシュ」と呼ばれて忌み嫌われていることや、イカの肝臓は液晶にできるらしいけど、それで二階のブラウン管テレビを新しくしてくれないかな、と罰当たりなことを考えてしまいました。
活造りで切り刻まれたイカにレモンを絞ってかけたとき、切り身が反応して動くさまを見てつい笑い、スマホで動画を撮影してしまいました。足が波打ち、まるで生きているかのように蠢く様子が面白かったのです。動画を撮り終えたそのとき、お爺さんの顔がこわばっているのに気づきました。
「すみません、初めて見たので……」
私は言い訳して、無言でご飯を食べました。
***
食事を済ませ、部屋に戻ります。しばらくスマホを眺めた後、パジャマがないので、下着だけで寝ることにしました。蛍光灯を豆電球に変え、布団に潜り込みます。薄い敷布団を通して畳の硬さを感じます。
風の音が強くなり、少し心細くなります。目を閉じ、今日あったことを思い返しました。……トソク様。イカは十本足だからそう言うのかな。あれは足じゃなく腕らしいけど……。そんなことをとりとめもなく考えていると、いつの間にか眠りに落ちました。
夜半に寝苦しくて目が覚めました。天井の豆電球が目に入りました。蒸し暑さで、少し汗をかいています。エアコンのない生活はしたくないと思いました。外の嵐は強まっているようで、窓がガタガタと揺れる音が響いています。ゴロゴロという雷の音が聞こえ、時折、窓の外がピカッと明滅します。雷は苦手です。布団を被り再び目を閉じました。すると奇妙な音が聞こえてきました。
「キュッ……、キュッ……」
音は窓の外から聞こえているようでした。風でどこかが擦れているのでしょうか。鳴き声のようにも聞こえます。
「キュッ……、キュキュッ……」
目を開けると、窓ガラスの向こうに、なにか白い影が動くのが見えた気がしました。ですが、ここは二階です。嵐の日の夜中に人影が見えるはずありません。きっと、風でなにかが飛ばされたのでしょう。
「キュキュッ……、キュキュキュッ……」
その音はだんだんと大きくなってきました。窓は木製で擦りガラスが嵌められています。そのガラスには大量の水滴が付いており、風が吹くたびにガタガタと音を立てています。台風に対してこの窓は少し頼りないと感じました。雨戸があれば閉めたほうがいいでしょう。私は思い切って立ち上がり、窓へと近づきました。
ガラスの外側に付着した雨粒は横向きに流れています。風上ではないので大丈夫だろうと、鍵を外して窓を開けました。外からビュウビュウと激しい雨風が吹き込み、髪が乱れて顔に張り付きます。その瞬間、空が激しく閃光を放ち、ドーンという凄まじい雷鳴が轟きました。そして、あろうことか窓の外から何本もの長いなにかが侵入してきたのです。
「ひいっ!」
驚愕のあまり叫び声が漏れました。それは、ヌメヌメとした光沢を放つ白く半透明の膜で覆われ、細かな赤茶色の斑点が蠢く触手でした。巨大な触手が窓枠を越え、部屋の中に這いずり込んでくる様子はまるで悪夢のようでした。
窓から伸びた触手が床へと達すると、次に円筒形の胴体が窓から現れました。胴体には大きな目が二つ、ギョロギョロ動いていました。そして大きな三角形の頭部が現れ、ついに天井にまで届きそうな巨大なイカの全身が室内に侵入したのです。
明滅する雷光と激しい雷鳴を背景に、イカは断続的に「キュキュッ……」と不気味な音を発しています。この音はイカの鳴き声だったのです。化け物は感情の感じられない冷たい黒い目でこちらをじっと見つめています。その目には薄暗い光が宿っていました。
(もしかして、これがトソク様……)
その瞳が私を捉えると、トソク様はこちらへ前進を始めました。クネクネと波打つ触手の動きはまるで無数の小さな蛇が絡み合っているかのようです。触手が動くたびに、チュルチュルと音がします。カサカサと微かな擦れる音や、ボタボタと粘液が床に落ちる音が不気味に響きました。イカ特有のツンとした生臭さが鼻を突きます。
「いやぁぁぁぁ!」
私は後ろに尻もちをつきました。背中に冷たい汗が流れ、全身が震えます。尻を付いたまま畳の上を後ろ手でバタバタと後ずさりしました。化け物は、私を捕まえようとするかのようにユラユラと迫ってきます。後ろへ後ろへと私は逃げ続けました。すると、頭の後ろがなにかに当たりました。部屋の壁です。もう逃げ場はありません。二本の触手が私に伸びてきました。その粘膜のような触手はテラテラと光っており、尖った先端からツーッと粘液が糸を引いて、畳に滴り落ちました。
「キュキュキュッ!」
「来ないでっ!」
無我夢中で脚をばたつかせましたが、冷たくヌルヌルする触手が両足首に巻き付きました。吸盤の異様な感触が伝わってきます。逃れようと必死に蹴っても、ギュッと締め付けられ、まったく動けなくなりました。
「離してっ!」
動けない私に、残りの触手が迫ってきます。身を捩って逃れようとしても、無駄でした。ぬめる触手が腰に巻き付き、身動きが取れなくなりました。
「あああっ、そんなっ」
両肘にもおぞましい触手が伸びてきました。臭くヌラヌラの透明な液体が素肌にべっとりと付着しました。
「嫌、嫌、嫌っ!!」
巻き付いた触手で腰と両手を同時に掴まれ、私はトソク様の顔の前に身体ごと持ち上げられました。
「ひぃぃぃぃぃっ!」
至近距離に化け物の目が光っていました。ヤツは品定めするかのように、その無機質な目で私をじっと見て、再び唸り声を発します。
「キュキュキュッ!」
グチュグチュと不快な音を立てながら、冷たい触手が私の皮膚を滑っていきます。触手は胸や首に巻き付き、その冷たさと粘り気に身の毛がよだちました。
「ひぃぃいっ! いやああっ、もう無理っ! 助けて!!!」
声を振り絞り叫んでも、トソク様は止まることなく迫り来ます。触手がさらに締め付け、私は逃げ場のない恐怖に包まれました。冷たい粘液が肌に絡みつき、吐き気を催すような生臭さが漂います。そして、ひときわ長い触手が私の目の前に伸びてきました。表面には無数の吸盤がびっしりと並び、それぞれが小さな口のようにクパクパと開閉していました。触手の先端は鋭く、細かい毛のようなものが生えており、その細毛がチロチロと動いています。
「お願いっ、やめてぇぇぇえぇー!!!!」
思わず目を瞑ると、その触手はブジュブジュと泡立つくらい私の顔を舐め回しました。冷たい粘液が肌にまとわりつき、不快な感触が全身を走ります。
「うぶっ!げぶっ!」
(もう耐えられない、舐め回さないでぇっ!)
そして、そのヌメヌメとした先端は、強引に私の口をこじ開け、内部に侵入してきました。吸盤と粘液の感触が口内に広がり、強烈な異物感と生臭さに、激しくむせてしまいます。
「ぐふっ、ぐむぅ!」
(中に入ってくる!)
息が苦しく、声が出せません。触手は私の口内を舐め回し始めました。無数の吸盤を開閉し、細毛を蠢かせながら、舌、頬の裏、歯茎の裏まで、くまなく余す所なく縦横無尽に暴れるのです。
(そんなに擦らないでぇ、かき回さないでぇぇ!)
先端から分泌される生臭い粘液が、口の端から溢れます。
「じゅぶっ!ぐじゅぶっ!」
そして、ついに触手は喉にまで侵食を始めました。その先端が徐々に深く差し込まれます。
「ぐむぅぅぅ!ぐぼっ、ぐぼっげぼぁ!」
(奥、奥はダメ、そんなに深く突っ込まないでぇぇっ!)
私は苦しみ、激しくえずきますが、トソク様がその手を緩めることはありませんでした。触手の先端からドプッと大量の粘液が吐き出され、プルプルとした柔らかく弾力のある得体のしれない感触が喉を通り過ぎると、意識が遠くなりました。
(私、ここで死ぬのかな……)
***
「……はっ!」
私は飛び起きました。肩で息をしており、動悸も激しいです。全身ひどい汗でした。
「夢?」
外は明るく、嵐の音もやんでいました。悪夢と共に台風は去ったようです。エアコンがないためか身体がベタベタになっていました。寝苦しい上に、トソク様……イカの祟りの話を聞いたので、変な夢をみたのでしょう。
(ひどい夢だった……)
布団の中で、今日の予定を立てようと、スマホを手に取りました。ところが、いつもと感触が違います。汗かと思い布団で手を拭ってみましたが、滑ってうまく操作できません。
(あれっ?)
窓から差し込む光に自分の手をかざすと、指の腹にプチプチとしたものができていました。
(できもの?)
よく目を凝らしてみると、それは無数の小さな吸盤でした。夢で見たイカの触手と同じ形の吸盤が指の腹に広がり、ヌルっとした粘液が染み出しているではありませんか。
「ひぃぃぃぃぃ!」
(私の身体……、まさか、トソク様の祟り?)
私は、服を着ることも忘れて、下着姿のまま階段を駆け下りました。
「助けて……、助けてください!」
ドアの取っ手に自分の手から分泌された粘液が付着しました。しかし、そんなことにはかまっていられません。台所に飛び込むと、昨日と同じコック帽と手袋をつけたお爺さんが立っていました。
「どうしたんや、そんな格好で」
「こ、これ……」
差し出した私の手を見て、お爺さんはため息をつきました。
「祟り……やな。トソク様を怒らせてしもうたんや」
「そんな、祟りなんてあるわけ……」
「これ、みてみい」
私が言いかけると、お爺さんは白い手袋を外しました。粘液まみれの吸盤が、指先から手首までびっしりと埋め尽くしていました。
「ひっ……」
「あんたも、こうなってしまうんや」
お爺さんは手を私の顔に近づけます。指は異様に長く尖っています。そして、手首、手の甲、指から指先にまで広がる吸盤の口からは、生臭く光る粘液が染み出し、それぞれの口がクパクパと動いていました。
「うっ」
私は思わず嘔吐しました。ビシャ!っと床に吐き出されたのは真っ黒な墨でした。
「ああ、もう墨まで吐きよったか。ずいぶんと速えな。……これからな、あんたの全身に吸盤が広がっていく。指先から手首、明日には肘や肩まで届くじゃろう。そんで、指先がだんだん細うなっていくんじゃ」
「そんな……そんなあっ!」
「ワシも、若気の至りでこんなふうになってしもたんじゃ。それからはずっと長袖で手袋も外せん」
なんということでしょう。イカの活造りを面白がり、夜中に窓を開けただけで、私は化け物のような身体になっていくのです。
「それにな、頭もじゃ」
お爺さんはコック帽の縁に両手をかけ、ゆっくりと引き上げていきます。長い帽子の中には、なにかテラテラと光る滑らかな長いモノが収められています。お爺さんがバンザイの体勢まで両手を高く上げて帽子を脱ぐと、丸くロール状に巻き取られていた薄く大きな三角形の耳が、シュルシュルと広がりました。
「ひぃぃぃ!」
「こんなふうに、耳が伸びてくる。ほら、あんたの頭にも、もう生え始めとるわい」
驚いて頭に触れると、なにか薄いペラペラでヌルっとしたモノが手に触れました。しかも、それは手の感覚だけではなく、頭頂部のヌルっとしたモノの方にも、「触れられた」感触がありました。
「いやああぁぁあぁっ!」
衝動的に、台所の流しにあった包丁を手に取り、自らの喉に突き立てようとしました。しかし、お爺さんに強く腕を掴まれ、制止されました。
「バカなことするでねぇ!」
私が包丁を取り落とすと、お爺さんの触手のような手から力が抜け、私はその場に崩れ落ちました。
「ワシは、生きとる」
「そう……ですよね。でも、私、こんな身体で生きていけない……」
身体の多くの部分がおぞましく変化してしまっても、お爺さんは生きています。私のことを思いやり、力づけようとしてくれているのでしょうか。
「お前さんは、もうトソク様の分身じゃ。トソク様からじきじきに頂いたその身体を傷つけ粗末にしようもんなら、この地域に災厄が降りかかる。わしも、何度死にたいと思ったかわからん。じゃが、それは許されんのじゃ」
お爺さんは私のためではなく、人々のために私の行動を止めたのでした。私は自らが徐々におぞましい姿に変異していくとわかっていても、生き続けるしかないのでしょうか。
「死にたい。殺して欲しい……、でも……他の人たちにも災いが……」
お爺さんは私の目を見つめ、静かに言いました。
「一つだけ方法がある」
***
絶望の中で、私はその方法に唯一の救いを見出しました。自らを活け造りにしてもらうことで、この苦しみから解放されることを願ったのです。身体を無駄にせず、感謝の念を持って食べてもらえば、人々に災いは訪れないそうです。
「本当に、これしか方法がないんですね」
お爺さんは深く頷きました。
「そうじゃ、これしかないんじゃ」
お婆さんは私の身体を清め、フグ毒で麻酔をかけました。お爺さんは包丁を私の首筋に当てました。
「これで……、終わりですね」
お爺さんは無言で頷き、最後に私の目を見つめました。その目には、深い悲しみと決意が込められていました。
私は切り刻まれ、活け造りとして盛られました。不思議なことに、まだわずかに意識がありました。お爺さんは私を一口食べるごとに、「これで、お前さんは救われる」とつぶやきました。私の意識は次第に薄れ、最後には完全に消え去りました。
***
――山陰地方のとある漁港近くに、昭和の雰囲気を色濃く残した民宿があった。そこでは令和の時代になっても、ひそかに「女体盛り」が行われていたと言われている。その宿を守り続けた老夫婦が突然の食中毒で急逝し、建物は廃墟と化した。その屋内には、墨のような液体が至る所に付着し、半透明のプルプルした小さな卵のようなものが大量に転がっていたという。そして嵐の夜、雷鳴が轟き稲妻が光ると、風に揺れる廃墟の窓には巨大なイカの影が浮かび上がるとささやかれている。
「キュキュッ……」