迷迷迷子の暴露譚
漂う空気を吸った。
塩辛い涙と、腹から出された怒鳴り声が高所のビルから溢れる。
交差点。区別もつかないほどたくさん、靴がアスファルトを踏む音。
千鳥足で衣服からお酒のにおいをまき散らすスーツの男。
がやがや、賑わう怒声や涙すら飲み込む夜を、私は吸った。
すうっと壁に溶け込んでいた体を切り離し、空気に混ざる。
道行く人々は私に気づかない。視認することも難しいだろう。
漂っているなら霊の類か? と問われたならば「失礼な」と返す。……まあ、問いかけてくる者は滅多に現れないのだろうけど。
私は一匹の妖精だ。
人々が住まうこの目まぐるしく騒々しい日常を時折こうして物やら空気に混じって眺める。姿形は意のままに変形できる。今は。
私は一人の少年へとフォーカスをあてた。この喧騒と夕餉のにおいを漂わせる「夜」に全くふさわしくない、それはそれは幼い男の子だ。
もちろん、私は「夜」だけしか知らないわけではない。「朝」も「昼」も「夕方」もたまには覗くし、観察する。ただああいった小さな人種が人込みの町へ出没するのは「朝」か「夕方」が定番。まれに、生みの親に手を引かれて歩く姿は目にするものの、たった一人で立ち止まっている姿を見るのはこれがはじめてだ。
私は注意深くこの男の子を観察することにした。
まず少年は今、耳元に携帯を当てて口を大きく開いている。電話というもので、あの携帯を通じて人間と話をしているんだろう。
傍を横切る人々は私と同じように物珍しそうに彼を一瞥するが結局足を止めることはない。
私はそっと男の子の会話を盗み聞く為に再び付近の壁へ移動する。もちろん、男の子が夜に一人でいることも興味深いがもっと私の目を惹いたのは彼の背後に漂う紫色の空気だ。
まれに同じ色の空気を漂わせながら歩く人を見かけるが、あれには注意を払わなければいけない。一種の呪いだからだ。前世でよほど酷いことをした者でなければあんなモノ背負ったりなどしない。呪いを象徴する色ということもあり一目で分かった。呪詛の種類は未知数。私でなんとかできるもの、個人の心境の変化によって振り払えるもの、一生付きまとうもの……。
彼の背後の壁に溶け込んでみた。あーだめだこりゃ。可哀想に。最悪「死」すら呼ぶ恐ろしいほど強い呪いだ。一体前世でどんなことをしたのだろう……。
そしてこういった人種にだけは私もおとなしく口を噤んでじっと気配を消さなくてはならない。彼らには、霊や私のような日常からかけ離れた類を視認する力がある。見つからないようにしないと。
「ぜんっぜん、迷子じゃないし! 今、ちょっと寄り道してるだけだから! 晩飯は食わせてもらったからいらないし! じゃーね!」
男の子はこう言い、携帯を耳から離して短ズボンの中に押し込む。
なるほど。迷子か。それなら私も知っている。道に迷って家へ帰れなくなった子供という意味だ。彼は迷子じゃないと言い張ったけれど、首を左右に忙しなく振りキョロキョロしてばかりでは説得力もない。
彼がいつも見ている「朝」もしくは「夕方」の景色に比べて「夜」はかおりも音もガラリと変わってしまうのだから道を見失うのはまだ仕方ないと思う。
どうして夜に一人でいるのかの理由も今の会話の内容で分かったけれど、迷子じゃないなんて嘘をついて彼は一体これからどうするつもりだろう。呪いのことも気がかりで放ってはおけない。
そんなこんなでしばらく様子を見ることにしたのだけれど――――。
この少年、数十分近く周囲をウロウロして同じところへ戻ってくるのを飽きずに繰り返している。いやいやいやいや少年。一体キミは何がしたいんだ? 道に迷ったのなら素直にお店の人やお巡りさんに事情を話してしまえばいいのに。もしくはもう一度携帯を開いて「さっきのはジョーダンなんだ」とでも笑えばいいだろうに。
そのうち彼のお腹はぐうと鳴った。夕餉をごちそうになっただのと話していたことも、嘘なのかもしれない。
私はとうとう痺れを切らした。このまま見続けてもきっと進展はないだろう。仕方なく、壁から身を切り離し、地に足を下す。
「ねえ」
声をかけてみる。振り向く少年の瞳をめいっぱい覗き込んだ。
映っている容姿は彼と同じ――いや少し低いツインテールの小さな女の子だった。
★
振り向くと小さな女の子が立っていた。
背丈は僕よりも低くて、二つ結びをしている子。赤いジャンパーと、黒のミニスカート。太ももが大胆にも見えている。
一歩挟んだ距離にある女の子の顔に僕は慌てて飛び退く。
「うああっ、な、なんだよお前! ど、どどどっから!?」
壁すれすれのところに立っていたのに、全く気づかなかった。
女の子は腕を組んで僕をじーっと見つめて、次第に眉を八の字にする。
「おどろかせてごめんね」
「はっ、はぁ!? べ、別に驚いてないし。ぜんっぜん!」
バクバクとうるさい鼓動を無視して僕は腰に両手をつけて胸を張った。
女の子はじーっと僕を見つめる。恥ずかしくてドキドキしてしまう。
「な、なに」
「こんなところで何してるの?」
「えっっ」
「もしかして、迷子?」
炎でも出そうなほど顔が熱くなった。
「ちっ、ちげーし!! ぜんっぜん!? 迷子とかじゃないし!」
「じゃあ、帰ろうと思えばすぐ帰れるの?」
「あったりまえじゃん!」
胸を張る。何も迷子になるのは今回が初めてではない。僕はしょっちゅう道に迷ってしまう。
だけどいつも自分一人で何とかしてしまえるから、今日だってきっと大丈夫だ。それに、友達の家へ遊びに行く時は迷わなかったのだから。暗くなったからといって、道は同じ。ふん、と鼻を鳴らすと「へ~~そうなんだぁ」女の子は気の抜けたような返事を返す。ちょっと焦った自分がバカみたいに思えてムッとする。
「じゃあ、黒猫探すの手伝って」
「えっ!?」
「家から出て行ったきりずっと戻ってこないの……」
小さな女の子は地面に目を落として言う。そんな不安そうな声を出されると困る。
でも、どうしよう。ズボンの上から携帯を触る。
本当は早めに帰っておかないといけない。姉ちゃんがバイトを終えて家に戻ってくる前には家にいないと大変なことになる。絶対に怒られるし、ゲンコツが降ってくるかも。あれは超イタイ。
だけど――――。
「もちろん。ぜんっぜん余裕。大丈夫。猫くらいすぐ見つけられるし」
「ほんとに?」
「ほんと! ほら。で? 猫、どっち方面に行ったとか分かんないの?」
「えっとね、……こっち」
僕の口は、時々思っている事とは全く真逆のことを言う。
そのせいで、悪い方に話が流れやすい。でも自然とそうなるんだし仕方ない。
きっとみんなだって同じはず。
僕は女の子の後に続いて歩みを進めた。
電灯が少ししかない、真っ暗で細い道。暗闇は怖いしすごく嫌いだ。
「大丈夫? お兄ちゃん、暗いの怖くないの?」
「ぜ、ぜんっぜん。よゆー」
ホラー番組だってすぐ毛布の中に隠れてしまうくらい怖がり。だけど、そんなこと言えない。すごくかっこわるいし。逆に女の子は平気なんだろうか。ついていきながら様子を伺う。足取りもしっかりしてるし、怯えているようには見えない。つ、つよいな。
真っ直ぐ進み続けていく内に、コンクリートだった床が芝生になって、落ちていた小石も宝石に変わっていった。
どんどん知らない場所へ来ているみたいで、少し不安になる。でも、今更『やっぱり無理』は声に出せない。余裕って言っちゃったし。
「大丈夫? 顔が怖いよ?」
「ぜ、ぜんっぜん。へーきへーき」
無理矢理口角を上げる。女の子の視線が心配そうというよりは何かを探るような目になった。
さらに先へ進むと、僕の背丈を超える芝がたくさんで、進むにはわざわざ掻き分けて歩かないといけなくなってしまった。まるで体が縮んだかのようだ。不思議の国のアリスを思いだす。
飛行機みたいに大きな蝶々が頭上を渡る。空にはオーロラがかかっていて、光の粉のようなものが雲を横切っていく。僕は突然の夢みたいな光景に突っ立った。
「こんなの見たことないでしょ?」
先を歩いていた女の子の声に視線を戻すと、黒猫を抱いて微笑んでいる。
僕は慌てて左右に首を振った。
「べ、別に。見たことあるし。ゲームで」
もちろん嘘だ。ゲーム機なんて高い物はうちに無い。だから今日だって友達の家に上がり込んで一緒に遊ばせてもらったんだ。でもその時でも空にオーロラとか蝶々が飛行機並に大きいとかいうのは見なかった。
僕の発言に、ふと女の子から笑顔がべりっとはがれる。ちょっとぞわっとして僕は慌てて黒猫を指した。
「ほら、見つけたんなら戻ろうよ」
「待って」
声も急に冷たいような。僕はおそるおそる女の子の顔を見る。
「あのね、大事な話があるの」
「……大事な話?」
会って間もない子に大事な話なんてしていいの?
疑問を覚えつつ聞かない理由も特に無かった。女の子はこの景色にビクともしていない……というより慣れているようだ。僕が知らないだけでちょっと特殊な遊び場だったりするのかな。でも空にオーロラって日本でも見れるのかな。もしかして実は既に建物内にいるだけだったりするんじゃ……?
「まず、お兄ちゃん。名前は? 私はカルラ」
「な、名前!?」
「うん。……えっ、もしかして名前ないの?」
「そんなわけないだろ! ぜんっぜん、フツーにあるし!」
初めましての人間に触れて欲しくないところナンバーワンに当てはまる名前だ。
正直なところ名乗りたくない。まあ、本当の名前を教えなければいいだけなんだけど。
「僕はカズマだよ」
腕を組んで名乗ると、女の子の目の温度が底冷えするほど下がった。
「……、私は本当の名前を教えたのに、自分の本当の名前は言えないんだ?」
「はっ!? 本当にカズマだし!」
「あーなるほど。恥ずかしくて教えられないとか? 友達にも隠してるとか?」
「は、恥ずかしくないし……隠してないし」
というよりは隠せない。学校ではどんなに嫌がっても本名を書かないといけないから(先生が知ってるし)、友達にはその名前でからかわれてしまう。自分より年下っぽいこの子にまで笑われるのは嫌だ。
「ぜーったいのぜーったいに笑わないって言うなら教えてやるよ」
「笑わないよ」
基本的にこのセリフを信じたことは一度も無い。でも他の名前を出したところでまた怪しまれたらそれこそ恥ずかしい。
僕はぎゅっと目を瞑って口に出した。
◆
「マ、マイゴ」
きっとみっともない表情となってしまっただろう私の顔を見てさらに少年は顔を赤らめながら今度は声量を上げて伝えてきた。
「マイゴ!! 僕の名前だよっ!!」
「あっ、あ~~! そ、そうなんだ……!」
勢いで頷くも、表情を取り繕えているか自信はない。
名前がマイゴなら、ただ店の人に自分の名前を言うだけでもこの窮地を乗り越えられそうじゃないか。『僕、マイゴ』『あっ、ボクちゃん迷子なんだね』で万事解決だ。考えると口の端が震えて止まない。
「笑ってんじゃん!!」
「えっ、そ、そう……?」
いけない。咳払いを一つ。気を取り直して少年の――マイゴくんを見つめる。
向こうもこちらの正した姿勢に気付いて顔が強張った。
「マイゴくん。私は妖精。ここはキミの生きている世界とはまるっきり違う世界なんだよ」
マイゴくんの顔にはてなのマークがいくつも見える。
「黒猫の話はキミをここに連れてくるための嘘だよ。ここまでずーっと一緒に歩いてきたね。見たことのない景色が増えて、不安になったんじゃない? それなのにキミは何も言わずただ黙ってついてきたね。それは危ないんだよ」
はっとした顔。表情や仕草はこんなにも分かりやすいのにその口がなぁ。
呪いの源はマイゴくんとここまで歩いてくる中の質疑応答でハッキリつかめた。
あの口は苦難を呼ぶ。禍の門とはよくいったものだ。
「驚いてても怖くても嘘を吐きまくる、迷子になっても素直に助けを求めない。それじゃあ恐ろしい目に遭うよ」
私の言葉を、ゴクリ、と飲み込んだマイゴくんは、強張った顔のままで左右に首を振った。
「ぜ、ぜんっぜん。怖いモンなんかないし、平気だし!」
額に手をつく。口だけが彼を逸れた道へと誘う。仕方の無いこと。それは分かっている。
もちろん、この注意ごときで呪いをなんとか出来るだなんて、思っちゃいない。
「……いい? マイゴくん。意識だよ。今すぐキミに素直になれだなんて言わない。そうできないことも分かってる。ただね、この言葉を忘れずに。意識だよ。意識のあるなしで、だいぶ違うんだからね」
じっと彼の瞳を見据えてやると、ふいと逸らされた。それに一歩、彼は足を退いている。
やむを得ない。随分と渋っていたが、私は上着のポケットに手を突っ込んだ。このまま放っておけないし。まあ、少しくらいなら力を貸しても、上の誰かに咎められることはないだろう。
★
さっきより少し膨らんだズボンのポケットを片手で抑えつつ、僕は元来た道を引き返していた。
女の子は僕が嘘をついていることを見透かし、素直になるようにと注意をしてきた。そうしないと危ないって。でもイマイチぴんとこない。どういう意味なんだろう。
もちろん、嘘をつくのは場合によっては良くないことだし、それは姉ちゃんや先生からもキツク教えられた。時には誰かを傷つけることにもなるし、悪い嘘だってある。『オオカミ少年』の男の子だって嘘ばっかりつきすぎていたから、誰にも信じられなくなってしまったわけだし。
……だけど、人生で一度も嘘をつかない人なんていないと思うし、本当の僕はかっこ悪いから見せたくない。それに、きっとみんなだって嘘はついているはずだ。僕だけじゃない。それに嘘をついてきて、今まで危ない目に遭ったことなんて一度もないんだ。怒られること、ケンカになったことはあったけど……。
ちょっと思いだして溜息が出る。膨らんだポケットに自然と目を向ける。
急に年上のお姉さんみたいな喋り方に変わったあの女の子、僕が『帰る』と言うと、丸くて小さな薬を三つ、押し付けてきた。いつもはサラサラした粉のような薬を風邪ひいた時に飲むくらいで、丸いのはもっと大人になってからじゃないとダメなんだと思ってたのに。まるでビョーキ扱いされてるみたいでちょっと嫌だな。
彼女は、僕がどうしようもなく怖い目に遭った時、誰かに助けて欲しいってなった時に薬を一つ飲むようにと言った。
「絶対使ってやるもんか」
こんなものに頼らなくたって、来た道をまっすぐ戻って、帰ればいいだけなんだから。
「あっれ、珍しいな。こんなところに人間の子供だって!?」
「こらこら大声出したら驚いちゃうだろ~?」
顔を上げると少し先の方に男の子が二人、立っていた。うち一人は体型が丸っこい。二人とも、もの珍しそうに遠慮なくジロジロ見つめてくる。
二人の背中に黒い羽が生えていることに気付いて僕はビックリして足を止めた。肌が白くて、背は同じくらい、もしくは少し高いくらい。どこかの学校にいても不思議じゃないのに、羽が背中にあるだけでどこを探しても会えなさそうだと思った。
「ねーどうやって迷い込んだのー!?」
肩に腕を回されて、びやっと声を上げかける。ぐっと堪えた。
「そ、そんなの知らねーよ! フツーに来ただけだし!」
「えーフツーにきて辿り着ける場所じゃないでしょ! なんで嘘つくのー!?」
「そうだぞ~、悪い子だなぁ~」
両サイドから挟み撃ちにされる。頬をぷにぷにと突かれた。うぐぐ、まるでオモチャ扱いだ!
「は、離せよ! 僕もう帰るから!」
引っ付いてくる二人をどうにか引きはがそうとしてもビクともせず、そうこうしている内に、まるで捕われの宇宙人みたいに両腕を捕まえられてしまった。
「まあまあ。せっかく来たんだから、もうちょっと一緒に遊んで行こうよ!」
「きっと気に入ってずっと居たくなるぞ~」
くるりとそのまま来た道を引き返そうとしだすので、僕は焦って首を振る。
「も、もう十分遊んだし! 飽きたから!」
足に力を入れてなんとか踏ん張ろうとした。それなのにお構いなしに強く腕を引っ張られ、転んでしまいそうになる。
「もー! なんでそんなに嫌がるの? ここって人間がいつでも気軽に来れる場所じゃないんだよ? 十分遊んだって、じゃあ何時間遊んだの? 飽きたってどのタイミングで? どうせちょっとキョロキョロ周りを見渡した程度なんでしょ? そんなの絶対もったいない!」
片側のひょろっこい子の目がきつく尖って、身震いした。
どうしよう、ちょっと怖くなってきたかもしれない。
そんな自分を叱って、頭を振る。
どうしようもなく怖い目に遭ったら、誰かに助けて欲しいって時に、使う薬。
でも、そんなのに絶対頼ってやるもんか。お医者の先生から貰ったわけでもない、自分より年下の、妖精とか言いだす女の子からもらった変なの飲んで、おかしくなったら嫌だし。
「もう、やだってば! 別に来れなくたって困んないし! こんな世界、興味ない! いらない! 大っ嫌い! だからもう離して!」
力を振り絞って暴れる。身を捩って、二人の手から逃れようとする。なのに離してくれないどころか、腕に爪が突き刺さった。痛い。骨にまで届くような、注射なんかよりもずっとズキズキする。やばい、涙でそう。
慌てて顔を上げると、二人の表情が氷みたいに冷たくなっていることに気付いた。
「何も知らないで大っ嫌いとかいらないとかって、酷くない?」
「そんなこと聞いたらここにいるみんな、怒っちゃうぞ~?」
温度の無い声音に肌を舐められたような寒気を感じる。
「仲良く遊んであげたかったけど、そんなこと言うなら大好きになるまでずっとこの世界から帰してあげない」
――ああ、もう駄目だ。
帰れないかもしれない、と頭によぎった瞬間、意地を張っていたことがどうでもよくなって、僕は項垂れる。
大人しくなったからか、丸っこい子が「大丈夫大丈夫~、きっとすぐに気に入っちゃうぜ~」なんて笑いかけてきた。そっちの方の腕を掴む手が緩んだことに気付いて、すぐにズボンのポケットに手を突っ込んだ。丸い薬を一個取り出す。
「あ!」と左右の驚く声を耳にしたけど、もう、何にも気にしない。帰れないのは駄目なんだ。どれだけ薬が苦くても、おかしくなっても、絶対帰らないと。
勢いよく口の中に放り込んだ。丸飲みなんて出来る気がしなかったから、噛み砕いて飲み込む。苦くも甘くもない、何も味がしなかった。
「今、なに飲んだの!?」
「危ない薬だったら大変だ~! 早く吐き出すんだ!」
なんて左右から揺さぶられるが、もう喉の奥を通ったし遅い。
ピカッと、急に目の前が真っ白になった。反射的に目をぎゅっと閉じる。
腕に込められていた力が消えて、尻餅をつく。頬を撫でる冷たい風と、耳に入る大勢の人のザワザワした声にはっと目を開いた。
「あれ……?」
見渡すと、もう空にオーロラはかかっていないし、飛行機並みの大きな蝶々も飛んでいない。
安心できるほど見知った屋台やビル、僕の知る街が広がっていた。
◆
間に挟んでいたはずの少年が消えている。二匹の妖精は息を詰めて困惑している様子だった。溜息を吐きながら私が目前に降り立てば「カルラ!」と二つの声はピッタリ重なる。
「……さっきの子、もしかしてお前が?」
「そうだけど? 連れてきたからにはお見送りまでしっかりしないとね」
「おいおい~。あの子が口に入れてた丸いヤツって、渡して大丈夫なモンかよ~?」
おそらくマイゴくんから見たら同じ年頃の男の子として映ったんじゃないだろうか。私からすると、どちらも実体を持たない、空気の一部のようにしか見えないのだが。おそらくそれはこの二匹からしても同じだろう。
気になってマイゴくんを遠目に見守っていたら、急に立ち止って変な行動をとりだすもんだから、じーっと見つめて、ようやくこの意地悪な妖精たちに足止めをくらっていたのだと気付いたくらい。にしても、意外とすぐに薬を使ったな。
この妖精たちは意地悪とはいえ、悪魔みたく酷いことをするわけじゃない。正直、彼を招いたのは私だし、本来なら私がこの二匹を軽く払ってやっても良かったのだが――。
「こっちの世界の力を現世の者に与えないって、暗黙の了解だったと思うんだけどねー?」
「でも、ほんの些細な補助くらいなら良いだろう?」
「ほんの些細なことならいいんだけどー、カルラってお節介焼きだからさぁ?」
「知らないぞ~? 上のやつらになんと言われてもさあ」
ケラケラと左右に揺れる。まあ、彼らなりの気遣いなのだと受け止めといてやろう。
「大丈夫、本当に三……あと、二回程度のサポートさ」
自らにも言い聞かせ、腕に抱いていた黒猫をそっと地面に下す。黒猫はたちまち黒煙へと姿を変えて空へ立ち上ってゆく。告げ口をする気なのだろう。あの妖精は、手を貸してはくれるけど真面目だからなぁ。一つ息を吐いて、私も移動を開始した。マイゴくんが無事に家へ帰れるかどうかくらいは、見届けても良いだろう。
案の如くマイゴくんは、まだ迷っていた。
誰に助けを求めるでも、電話で迎えを呼ぶでもなく。
同じところを彷徨うのはやめたようで、一直線に歩みを進めてはいるものの、きゅっと引き締まった表情を見ていると、自信はなさそうだ。
丁度斜め前に立つ交番から一人の警官が出てきた。
まだ若そうな男だ。ひょろっと細長く、目鼻立ちも整っており、柔らかい雰囲気があった。
これはまたとないチャンスだ。咄嗟にマイゴくんに声をかけてしまいそうになって抑える。
いや、三回。……残り二回か。残り二回の手助けだけと決めたはずだ。
もどかしい気持ちを抱きながらも仕方なく少年の横で空気と化しながらついていく。
あっちが気付いてくれないだろうか。こんな真っ暗な夜に一人で子供が歩いているんだ。何か違和感を持って声をかけてくれやしないだろうか。
マイゴくんは目前の道を睨みつけるようにして、背を丸めて歩いている。
斜め前に交番があることにも気付いていないようで、そのまま警官とすれ違いかけた。
「あれ、君……」
幸運にも相手は気付いてくれたようだ。いきなり肩に手を置かれたからかマイゴくんは背筋を伸ばして奇妙な声を発した。
「あ、えっ、え……!」
そして、男性の制服や帽子を見上げて、彼はさーっと顔を青くする。そんな反応をしていたら、別の何かで疑われそうだ。
「一人かい?」
屈んで目線を合わせてきた男から距離をとるようにして、後ろ足を引きながらマイゴくんは首を左右にブンブンと振った。
「い、いや、一人じゃないですっ!」
頭を小突いてやりたかったが、生憎今は空気でしかないので冷たい夜風で髪を撫でる形になってしまう。
警官は一旦その場で首をぐるりと回した。
「見たところ一人のようだけど、近くにお父さんやお母さんがいるのかな?」
「え、えーっと……」
「戻ってくるまで、危ないし一緒に待ってあげようか」
柔和な微笑みに少年はダクダクと冷や汗を流しているようで、さっきから口角が引き攣っている。警官は小首を傾げた。そんなどこか硬直状態にある二人のすぐ傍を若い女性が通った。
スーツを着こなして、腕にビニール袋を提げている。何もああいう女性は珍しくない。「昼」にコンビニ手前のベンチで、並んで食を取って話していたり、こうして夜になると家路につく前に何か買って帰ったりする。少年は初めて見るのだろう、目を見開いて――。
「お姉ちゃん!!」
と叫び、その女性に半ば縋り付くような形で抱き付いた。
「えっ!?」
当の女性といえば、突然抱き付いてきた男の子に驚きを隠せない顔をしている。
警官の男はぽかんと口を開いた。私もそのような状態にあるだろう。
「……ご姉弟で?」
「え、えっ、あの……?」
女性は突然のことに困惑したまま、警官と頑なに離れない男の子の頭頂部を何度も見る。
マイゴくんは全く離れる気配をみせない。その必死さにただごとではないと感じたのだろう、女性は曖昧ながら頷く。浮かべた苦笑いを見て何故か私が頭を下げたい気分となった。警官も流石に頷かれてしまえば突っ込むこともできない。軽く頭を下げて去っていった。
マイゴくんは、女性の脇腹に埋めていた顔を思いっきり上げて空気を吸い込む。緊張して息を止めていたのかもしれない。
やがて見上げた先で女性と視線がぶつかったのか慌てて離れる。
「ね、ねぇ君、どうして私をお姉ちゃんって」
「あ、えーっと、か、勘違いでしたっ……!」
顔を真っ赤にしながらマイゴくんは後ろ足を引く。
「か、勘違い……?」
「ごめんなさいっ!」
勢いよく頭を下げた直後、背を向けて逃げるように足を繰る。
「えっ!? ちょっと――!?」
マイゴくんの小さな背があっという間に人混みにのみこまれ、女性は目を丸くし、中途半端に手を伸ばした状態で固まっていた。
私は慌ててマイゴくんを追いかける。彼はどうも警察を怖がっているようだ。
そのまま引き返しても見つかる可能性があると思ったのか、途中で左折し路地に突っ込んでいく。その姿に気が遠くなった。これじゃあ更に迷ってしまうじゃないか。一体少年はどこへ向かっているのだろう。
★
マズいマズいマズい!
警察は駄目! 絶対に捕まっちゃいけない!
無我夢中で走っているうちに、どんどん周囲が暗くなっていることに気付いて、足を止めた。
左右を見ても、全く知らない家ばかり並んでいる。街灯もポツンと頼りなく一つだけ。どうしよう、全然知らない場所に出てしまった。来た道を振り返って、戻ろうかと思ったけど、戻ったらまた警察に見つかるかもしれない。いや、あのお姉さんにも注意しないと。
街灯の下に座って膝を抱く。ここにしばらく居た方がいいのかも。でも早く帰らないと。携帯を取り出して時間を確認する。八時五十分。もうすぐ九時になる。姉ちゃんが帰ってくるのはいつも十時くらいだからそれまでには家にいないと。……でもどうやって?
不安になってきた。自分の家から友達のとこまで行くときは迷わずに辿り着けたのに、来た道を戻ればいいだけのことなのに、空の色が暗くなっただけでこんなに迷うなんて。マンションやビルの明かりが眩しく、人の声で溢れてうるさいし、朝と全然違う。
「どうしよう……」
周りも暗いし、本当に一人ぼっちになってしまったかのような寂しさに、ついポロッと弱音を零してしまう。
「どうしたん、こんなとこで」
頭上から突然降ってきた低い声に僕は慌てて顔を上げた。サングラスをかけた男の人だ。指の間に煙草を挟んで、黒いスーツを着ていてすごく怖い。ごくりと喉を鳴らして動くこともできずにいると、男の人は口の端をにぃっと上げて「まあそんな怖がらんでもええやろ」とさっきの警官と同じように屈んで僕の顔を眺める。
「迷子か? それとも家から追い出されたんか?」
「べ、別に……迷子でも……追い出されたわけでもないけど……」
「ほお! じゃあ自分から抜け出したんかいな」
「…………」
僕の口は、時々思っている事とは全く真逆のことを言う。
そのせいで、悪い方に話が流れやすいから、今だってちょっと嫌なにおいを嗅いでるんだ。
これ以上は余計なことを言っちゃいけない。黙り込むと、男の人はよく分からないけど勝手に納得したらしい。何度か頷いて「ちょっと待ちや」と僕に言ってから携帯を取り出して、煙草を咥えた。間もなく耳に押し当てて「おう、俺や」と誰かと話はじめた。
まさか警察じゃないだろうか。バクバクと心臓がうるさい。今すぐ立ち上がって大通りに駆け戻った方が良いかもしれない。でもきっと逃げても顔を覚えられている以上、危ないかも……。そうこうしている内に、男の人は携帯を耳から離してポケットにしまうと、また煙草を吸いだした。
煙草の煙は吸っちゃいけない。体によくないって口うるさく姉ちゃんに言われたことを思いだす。両手でガードしていると、男の人は「おっと、すまんすまん」と煙草を離して呆気なく、地面に擦りつけて火を消してくれた。
人は見かけによらないと聞くし、もしかしたら良い人なのかもしれない。
「どうせ戻るつもりないんやろ? ちょうどええわ。今オトモダチを呼んだからな。ちょっとおじちゃんらと遊んでくれや」
「えっ、遊ぶ?」
「おお。……なんや、嫌なんか?」
「い、いや……」
早く帰らないといけない。でも大通りに戻ったら警察とかお姉さんに見つかるかもしれないし、時間つぶしには良いのかも。
ぞろぞろと男の人のオトモダチが三人やってきた。みんな背が高くて黒いスーツを着ている。目つきが鋭くギラギラしている人ばかりだ。頬に傷をつけてる人もいて、ますます縮こまってしまう。
「んじゃ、ちょっと歩くで。秘密基地に移動や」
秘密基地、なんて聞くとウズウズしてしまうのはなんでだろう。特別っぽく聞こえるからかな。男の人が立ち上がって歩き出すと、それに二人が引っ付いて、一人は僕に手を差し伸べてきた。無言で。
断りづらくて、仕方なくその手を握って引かれるままに歩いてく。
でもどうしよ、ますます帰り道が分からなくなっていきそうで、不安だな。
何度か振り返って道を覚えようとしたけど、どれも同じような造りの家ばかりでちっとも頭に入ってこなかった。
先頭を歩く男の人が足を止めたので、僕達もつられて立ち止り見上げる。
なんだか少し傾いてみえる扉と、その上で点滅を繰り返す寂しいランプ。
突風に大きくガシャンガシャンと揺れる。それがなにかの警告みたく思えて首を竦めた。
すると「何だ。怖いか、ガキ」と手を引く男が笑ってきたので「ぜんっぜん、怖くないし」と返してしまう。
扉が開かれ、入るよう促されて足を進める。部屋の中は僕の家ほど広くはない。でも五人入ってもまあまあ寛げそうなスペースだ。奥の方にボードが三つくらい飾られていて、好奇心のまま見つめていると、男の人が「ええとこに目ぇつけるやんか」と、ボードの前の丸いテーブルに近付く。
注意深く見てみると、形のおかしいペンがいっぱいある。男の人はそのうちの二本くらい手に取って戻ってきた。一本だけ僕に持たせて、言う。
「ダーツしようや」
「だあつ?」
耳なじみのない単語に眉を寄せると、男の人は「見とき」と手にしたペンをボードに向かって投げた。トスッとペンの先が気持ちいいくらい真ん中に刺さる。
「こういうのや」
「ペンを投げるの?」
「ペンやない、矢や」
男の人の真似をして、矢を構えると親切にも握り方を教えてくれた。
「紙飛行機飛ばす感じでええねんで」
「紙飛行機……」
そこまで夢中になって男の人に教わっている間にふと気付く。
男の人と自分以外の男性三人が隅のテーブルを囲んで座り、どこかに電話をかけたり、忙しなくキーボードを打ち込んだりしている。
「真ん中狙ってパーンや」
「……うん」
何をしているんだろう。でも聞いてもどうせ難しくて分からないことなのかもしれない。
男の人から言われるままにダーツへ向けて一直線に構え、両目で当てたいところに向かって紙飛行機を飛ばす感じに――。
「うーん、惜しい。結構下の方やね。まあ、意識したら真ん中当てれるようになるで」
意識――。そういえば、意識のあるなしでだいぶ違うってどこかで聞いた気がする。あれ、何を意識するんだっけ。うーん、と考えている間に、さっきまで僕の手を引いてくれていた男が「ナカジマさん」と近寄ってきた。どうやら、サングラスの男の人の名前はナカジマというらしい。
「話まとまったんか」
「ええ、上手いこと条件も当てはまって」
「いやあ、ほんとええタイミングで拾えたもんやで」
二人の視線は僕に落ちてくる。背筋がぞわっとする。ナカジマさんの方はサングラスのお蔭でよく分からなかったが、その隣の男の眼光はあまりに冷たく感じた。
「良かったなぁ! ガキんちょ、お前、新しい家族もう決まったで!」
ぽんと両肩に手を置いてナカジマさんは陽気に笑ったが、僕は首を傾げる。新しい家族?
「おじちゃんらなあ、捨てられてしまった子や、追い出されてしまって可哀想な子とか、迷子に新しい家族を用意してあげる立派な仕事しとんのやで」
「良かったな、こんなに早く引き取ってもらえて」
男も僕の肩に手を置いてきた。くしゃりと服を掴まれて嫌な汗が止まらない。
新しい家族って? 姉ちゃんがいるのに?
「あ、新しい家族なんていらないし! 離して! 帰るから!」
「んー? そりゃまた話ちゃうやんか。自分から抜け出してきたんやろ?」
身を捩って暴れようとすればするほど、男の爪が肩に食い込む。
ナカジマさんは僕から手を離して携帯を取り出した。耳に当てている。電話するつもりなんだ。
「ミシナ。任せたで」
「はい」
男の名前はミシナというらしい。ミシナは頷くと「ほら、そこの椅子座れよ」と背中を押してきて殆ど無理矢理に僕の肩を押さえつけて座らせた。逃げないと。やっぱりナカジマさんもここにいる人達も悪い人なんだ。
どうしようもなく怖い目に遭った時……ポケットの中に確かまだ二つある。
一つ飲んだときは特に苦い味もせず、体がおかしくなることもなかった。
覚悟を決めてポケットに手を突っ込んだ。丸くて白いソレを取り出す。躊躇なく一気に口へ放り込もうとして――。
「なんだよそれ、ラムネか?」
ミシナの手が伸びてきて、薬を奪い取られてしまった。
◆
口をぽっかり開いたマイゴくんの隣で私もまた頭の中が真っ白になっていた。
少年に渡したはずの薬はなんとミシナとかいうふざけた男の手に渡ってしまっているのだ。
一拍置いてマイゴくんは腕を伸ばして必死にミシナの手から薬を取り返そうとした。
「かっ、返せよっ! それラムネじゃないから!!」
「はあ? ラムネじゃないならなんだってんだよ」
少年の反応が面白くて仕方ないのか男はそのまま薬を口の中に入れてしまう。
「あーーっ!!」
「なんだよこれ、何の味もしねえな」
バリボリと容赦なく噛み砕く男を見てマイゴくんはこの世の終わりみたいな顔をする。
なるほど、男が食べてしまったのか。少々面倒臭いことになってしまったな。
もちろん、二回目の手助けを出来る訳なのだが、私の力を封じた薬を体内に摂取した以上、男は一時的に霊の類や私のような妖精を視認することができるようになってしまうのだ。
すうっと空気に溶け込ませていた体を地面へと下せば、マイゴくんは私を見て口をパクパク開閉させる。彼の目の中には相変わらずツインテールの小さな女の子が映っていた。
「カ、カルr」
「メ、メグミ!?」
ミシナは突然現れた私に困惑している様子だった。ずいっと距離を詰めてその目を覗き込んでやれば、すらっとした黒髪に細身、中々美貌な女性が映っている。しかも、「メグミ」と名前まであるようだ。彼はどうやら私を知人の女性と思いこんでいるようだ。まあ、好都合ではある。
「メ、メグミ、どうしてこんなところに……!?」
狼狽えた様子の男に、さてどのように話かけたものかと思案する。この様子だとただの知人、友人とも違うかもしれない。
「あなたこそ、どうしてこんなところにいるの? ここで何をしているの?」
そこでマイゴくんをちらりと一瞥してから、非難がましい瞳でも投げかけてみる。
「い、いや、違うんだ! これは誤解だ!」
「あ? おい、ミシナ。どうしたんや急に壁に向かって……」
もちろん、ナカジマというサングラスの男、その後ろの二人にも私の姿は見えないから、急にマイゴくんの隣の壁に向かって冷や汗垂らしながら弁解をはじめた滑稽な仲間がそこにいるだけである。
「誤解って? ……あなたはこんな汚い事をして手に入れたお金で私といようとしていたの?」
「あ、あぁ……ちがうんだ、話を聞いてくれ」
ふらりと体が揺れて、ミシナはマイゴくんから距離をとった。相当参っている様子を見ると、この対応で何も間違っていなさそうだ。なるほど、もしかしたらこの女性とは清い関係を築いていたのかもしれない。
「最低ね。子供を売るだなんて」
「うっ、うぅう!! お、俺だってこんな仕事したくてしてるわけじゃねえんだよっ!! でも借金が……!!」
冷たく言い放つとミシナは頭を抱えた。あと一押しか。
「おい、ミシナ!! しっかりせえや! どうしたんや、急に!」
突然の変貌ぶりに気味悪く感じたのだろう。携帯を他の仲間に押しつけて、ナカジマがミシナを抑えにかかる。
「私、どれだけ時間がかかってもいいから、真っ当な仕事でお金を稼ぐあなたと一緒になりたいわ」
「ほ、本当か……? こんな借金まみれの俺の傍にいてくれるのか……?」
「ええ、もちろん。……でも今のあなたとは嫌よ」
メグミという女性には申し訳ないけど、マイゴくんを助けるためだ。
柔らかい笑みとともにきっぱり言いきると、男はぐっと口を噤む。
「なんやねん、ほんま……おい、ガキんちょ。お前なんか変なヤクでも持っとったんか? ん?」
ナカジマは面倒臭そうに髪を掻き毟ってから、マイゴくんの襟を掴んで引き寄せた。ひぇっという小さな悲鳴が私とマイゴくんの口からほぼ同時に洩れる。さっきまで、まだ柔らかい雰囲気を出していたのに、突然荒れた態度を取り始めた。商売に出すのが目的ならおそらく殴ったりはしないだろうけど。
にしても本当に厄介なことになっている。それほどマイゴくんの背負っている呪いが強いということだろう。
「だらぁあああ!!」
ミシナは咆哮のような雄叫びを上げ、前のめりの姿勢のまま、ナカジマに突進した。
「は、っ!?」
もちろん予測すらしていなかった仲間の行動により、ナカジマは軽々と吹っ飛ばされ地面に尻を打ちつける。
私は咄嗟にマイゴくんへ視線を戻した。目がバッチリ合う。入ってきた扉を指して合図をする。しかしマイゴくんは左右に頭をブンブン振った。よく見れば体がガタガタ震えている。怖くて足を上手く動かせないということだろうか。もういつ泣きだしても不思議じゃない血相となっている。
「おい、ミシナぁ! 何すんじゃお前!」
張り上げられた怒声にぎゅっと目を閉じて肩を跳ねさせた。まあ、まだ幼い子供だもの。そりゃそうなるだろう。
「も、もう!! もうこんな商売ウンザリだ!! やめてやる!!」
ミシナは吐き捨てると足を繰って扉を蹴り破らん勢いで開けて、外へ飛び出していく。
「ふざけやがって!! おい、追いかけんぞ! シマ、お前は残ってそのガキ捕まえとけや!」
「は、はい!」
シマと呼ばれた男はこのメンツの中で体格がひょろっこい方だった。子供の一人くらいなら捕まえておけると思ったんだろう。ナカジマともう一人の男が凄まじい形相でミシナを追いかけ外へ飛び出していくと、シマとマイゴくんだけとなった。チャンスだ。とにかくあの二人が戻って来る前に、どうにかしないといけない。
「た、頼むから逃げたりすんなよな……」
シマも緊張している様子で、ヘマをやらかしてはいけないと思ったのか、逃げられないようマイゴくんの腕を掴んで忙しなく端末へ目を落としている。
「マイゴくん! 走って逃げないとダメだよ! 分かってるよね?」
ここは心を鬼にするしかない。両手を腰に添えて強く言う。
「む、無理だよ。逃げたって追いかけられるし……!」
「おお、よく分かってんじゃん」
「……」
シマの返答にますます萎縮してしまうマイゴくん。私は大きく溜息を吐いた。
「いい? マイゴくん。何も言わずによく聞いて。大通りにまで逃げ込めば人通りが多いから大丈夫。それに、マイゴくんの方が絶対に足が速い。これは確か。なんでかというと、この男の人、煙草ばっかり吸って体が悪いから。健康なマイゴくんの方が丈夫なんだよ」
私の言葉を聞いてマイゴくんはチラチラと隣の男を見上げる。シマはというと、端末の方に夢中になっていてそれに気付いていない。
再び少年は私へ視線を戻したけれどまだちょっと自信が無さそうだ。口がへの字になっている。
「マイゴくん。このままずっとここにいると、本当に帰れなくなるよ。そのうち知らない人が、マイゴくんを家族にするためにやってきて、マイゴくんはその人に連れていかれて、知らない場所で暮らすことになるんだよ。それでもいいの?」
「んん~~……」
流石にこの言葉は聞いたのだろう。彼は俯いて、もじもじと両足を擦り合わせた。……ん? 一体何をしようというのだろう。
シマも隣の男の子の妙な身動きに気付いて、首を傾げた。
「おい、どした?」
「んん~……と、トイレ……行きたい」
「とっっ、トイレぇ!? あっ! ああ、待って待って分かった分かった! えーっと……」
トイレ、という単語にシマは面白いほど焦った。なんだろう、トイレとは。
ともかく男が狼狽えたのを目にすると、マイゴくんは力強く腕を振り解いた。
「あっ」とシマは素っ頓狂な声を上げる。マイゴくんは駆け出して扉を開けた。
「てんめ、っ! 待て!! 逃げんなって!!」
シマはさーっと顔を青白くさせ少年の背を慌てて追いかけはじめる。私はマイゴくんが外に出たのを確認すると、せめてもの時間稼ぎにと扉を風で思いっきり閉めてやった。ゴンッとシマは顔から突っ込んだ。
「中々やるじゃないか、マイゴくん」
敵を油断させてその隙に逃げるなんて、考えたものだ。
心中で賞賛しつつ、シマが鼻を擦りながらもドアノブを回して外へ飛び出すと、私も空気に溶け込みながら少年を追いかけることにした。
★
気になって何度か後ろを振り返りながら、全速力で走る。
肺が苦しいけど立ち止まったら終わりだ。大通り。人の多い方へ、明るい方へ。
細い路地を抜けた。ガヤガヤと騒がしく明るい通りに出る。さっきまで警察とかお姉さんのことを気にしてばかりだったけど、今はとにかくほっとした。流石にお店の中まで追いかけてはこないだろう。
近くに見つけたコンビニの中へ踏み込む。女の店員さんに二度見された気がしたけど、気にせずお菓子の並ぶ棚まで移動して、ポケットから携帯を取り出した。九時三十分。やばい。早く帰らないと。
「ねえ、君。一人……?」
「どぅあっ!?」
背後から急に声がして、驚いて振り返った拍子に足を絡ませて棚に向かって倒れかける。
目の前の店員さんが咄嗟に腕を引いてくれたお蔭でぶつからずに済んだ。
「大丈夫っ? ごめんね、驚かせて」
「い、いや……別に驚いては……」
「こんな時間帯に子供が一人で入ってくるの珍しいから気になって」
「や、別に一人とかじゃないっていうか。あ、トイレ借りたくて……」
目前の彼女の雰囲気がさっきまで一緒にいた怖い人達に比べれば柔らかいせいか、スラスラと嘘ばかり平気で出ていく。
「ああ、トイレか。うん……それならいいんだけど」
トイレはこっちだよ、と案内されたせいで本当に入らないといけなくなった。
まあ、すぐに出ても怖い人が僕を探してまだ外をうろついてるかもしれないし、コンビニにいるところを見つけられたらお店の前で待ち伏せされそうだ。大人しく扉を横に引いて、中に入る。蓋の上にそのまま座って溜息を吐く。
さっきまたあの女の子に会った。何もないところからスーッと出てきたし、やっぱり本当に妖精なんだろうな。ミシナって人とは知り合いだったみたいだけど。シマとかいう男や、ナカジマさんには見えてないようだった。もしかして僕が帰るまで近くにいるつもりなのかな。キョロキョロと何もない空間に目を光らせるけど、特に変化はない。
あと五分したら出よう。お腹を壊したフリで誤魔化せばいいだろう。
気を抜けば足がガクガク震えそうで気を張る。だって彼女が見てるかもしれないなら、あんまり恥ずかしいことしたくないし。妖精とはいえ、僕よりは年下の女の子だ。
そういえば、とポケットから白い薬を取り出す。三つあった薬もとうとう残り一つだ。
一個目、飲んだときは目の前が真っ白に染まって変な場所から戻ってくることが出来た。二個目はミシナに奪われて噛み砕かれた。そしたらあの子が出てきてよく分からないけどミシナやナカジマさんを追いだしてくれた。これってもしかして使ったらあの妖精……カルラが何かしてくれるのかな。
ポケットの中に戻して立ち上がる。五分もまだ経ってないけどとにかく早く動かないと時間もないし。
扉を引いて、自動ドアまで足早に進む。ちらりとレジの方へ目を向ければさっきの女の店員さんにニッコリと笑いかけられてしまった。会釈してから、店を出る。嘘を吐いたからか、ちょっとだけ悪い事したようで、胸が気持ち悪くなった。……慣れっこだけどさ。
道を尋ねたら迷子だと思われそうだし、そうなったら最悪また警察と会わなきゃならなくなるから、誰にも聞けない。
ここまで探しても帰り道が分からないんだからおそらく歩いているところが違うんだ。
道路を渡り、勇気を振り絞ってまた暗い道へ顔を出して覗いてみる。
近くに公園が見えて、やっと知っている場所を発見できて嬉しくなった。錆の入ったシーソーに、グルグル回せる地球儀みたいなジャングルジム。作られたばかりのブランコ。あの公園ではよく遊ぶ。学校のクラスメイトの友達と……アレ? そういえば友達の中に、カルラに顔が似てる子もいたような……。
考えても今はハッキリとは思いだせない。表の通りには走ればすぐ出れる。僕は公園に向かってみた。真っ暗で滑り台の色も分かりづらくなっている。幽霊でも出てきそうでちょっと怖い。
携帯を取り出す。もう四十分近くなっていた。焦って周囲に何か知っている建物がないか首を回す。
刺すように吹き付けてきた冷たい夜風に肩を抱く。なんだろう、ゾワッとしたな。
ポケットに戻して公園から離れようと一歩踏みしめた時だ。急に口を大きな手で塞がれた。
「んんーっ!?」
ぐいっとそのまま後ろに力強く引っ張られて、訳も分からないまま、滑り台の階段の裏まで移動させられる。
「しー」
見上げると僕より五つくらい歳の離れたお兄さんが口に人差し指を当てていた。顔を見ると大人とは呼びづらい。いつか僕が通うことになる中学校の制服を着ていた。しーと口に当てている手の方を見ると、刃先の綺麗な包丁が握られている。姉ちゃんが台所で使っているのとよく似ていた。
なんでそんなもの公園に持ってきてるんだろう。なんで僕を引きずり込んだの?
お兄さんはちょっと息が荒かった。目もなんだかおかしい。僕を見てるようで見てないような……。
「僕ねえ、今日で全部終わりにするんだあ」
興奮気味に、今から楽しいことをするかのようにお兄さんは口を開く。
「この公園で遊んだことある? 僕はあるよ。君と同じくらいの頃はね、しょっちゅう友達と日が暮れるのも気にせず遊んだんだ。流石にこの時間までは無かったけど。でも本当に楽しかったなあ。だってブランコこいだりシーソーギッタンバッタンしてる間ってさあ、嫌な宿題の事なんか考えてないでしょ? 夢中になって、どっちの方がブランコ高くいけるかとか、そんなのばっかでいいじゃん」
ずっと口を塞がれてばかりで息苦しくて首を振るけど、お兄さんは全然気にせず話を続ける。
「でも、今はね、勉強ばっか。良い高校に入る為に、みんなソレばっか。僕勉強なんて嫌いなんだよ、でも受験に落ちたら追いだしてやるって親は本気でさあ。だから、頑張るんだけど厳しいねえって言われてばっかでさ、時々ここに来てブランコこいだりするんだけど一人だと暗いことばっかり頭に浮かんでちっとも楽しくないんだ」
ペラペラと早口に語られても困ってしまう。上から覗き込まれてぎょっとする。暗闇に慣れてきたから気付いたんだ。このお兄さん、目が充血してて赤い。
「どうしたら自由になれると思う? どうしたら楽して勉強の事とか将来とか何も考えずに生きていけるかなあって。色々考えたら答え出てきたんだよ。刑務所。悪いことして捕まったら人生終わるっていうけど、でも捕まったら刑務所の中でちょっとは生きていけるんでしょ? そっちの方がバカ正直に勉強してるより楽じゃない?」
首筋に冷たい何かが当たっておそるおそる視線を下げれば、包丁の先端を目にする。
声も、涙すら出てこない。これ、絶対危ないやつだ。どうにかしないと。どうする?
そもそもなんで僕がこんな目に遭ってるんだろう。たまたま近くにいたから? 年下だから?
早口に色々と彼は言ったけど正直僕は何一つとして耳に入ってこなかった。
何か嫌なことがあったから、ヤケクソになって、全部終わりにしようとしている。
それに付き合うなんて言ってないのに、なんで僕が。
姉ちゃんより先に帰らないといけないのに。殺されるわけにもいかないのに。
大人しくしていると、お兄さんは口から手を離してくれた。逃げる素振りも、声も上げる様子もないから、安心したのかもしれない。
「あ。でも世間的には悪いことってなってるけど、仕方ないよね。悪いことじゃないよね? 僕の事恨んだりしないよねえ? だってこんな暗い時間に歩いてる方がさ、殺してくださいって言ってるようなもんだし。ね?」
僕がそれに対して頷くことも首を左右に振ることもしないでいると、お兄さんは「何か言えよ」とお腹を思いっきり殴ってきた。痛くて目が回る。無我夢中でポケットに手を突っ込んで、薬を取り出し、それを口の中に入れた。お腹が痛くて全部吐き出したくて仕方なかったけど、なんとか薬だけはと、喉を無理矢理動かした。
「は、え? ねえ、ちょっと今、何口の中に入れたの? 出せよ」
お兄さんは驚いて、包丁を下げると僕の体を激しく揺する。気持ち悪い。グラグラする。
相変わらず味はしない。だけどいきなり喉に何かこみあげてきた。視界も一気に歪んでいく。堪らず僕は吐き出すようにして大きく口を開いた。
「ぅ、っうああああああああああああっ!! わぁあああん!! 助けてええええええっ!! 誰かあああ!! 助けてえええ!!」
まるで僕の口じゃなくなったかのように、お腹の底から大きな声が出ていく。枯れそうなほど張り上げる。喚き始めた僕に驚いたお兄さんは「だっ、黙れ!」と包丁を突き付けてきた。黙らないといけない。でも口は止まらなかった。
「助けてええええ!! 死にたくないよおおお!! わああああん!!」
ボロボロと目から零れ落ちているものの正体にやっと気付く。僕、泣き叫んでるんだ今。
お兄さんは僕の声から逃げるようにちょっと後退る。耳を塞ぐほどうるさいんだ。
「おい、何やってんだ!!」
「大丈夫!?」
僕の叫びに応えるようにして何人かが駆けつけてくれた。
「くそ!!」
お兄さんは顔を歪ませながら立ち上がって逃げ出す。それを何人か大の男が追いかけていくのを遠目に捉える。やっと声が止まった。喉が痛くて仕方ない。声は止まっても涙は次から次へと零れるし、お腹は痛いし、足も腕も震えている。
「あ。君……!!」
駆けつけてくれたうちの一人は見たことある顔だった。
「やっぱり、迷子だったんだ。探してたんだよ」
ハンカチを取り出して顔の涙を拭ってくれる。警察から逃げる時に助けてくれたお姉さんだった。
「ごめんなさぃ、迷子で。ずっと、家に帰れなくてっ……帰らないといけないのに、帰れなくて……っ」
迷子じゃないって言わないと警察が来てしまうかもしれないのに、僕の口はするすると本当のことばかり言う。
お姉さんの他に二人、男の人がいた。
「迷子ってなると交番に連れてった方が良いですよね」
「そうですね」
「い、いや! け、警察のところは行きたくない! 警察はダメ!」
彼らの会話にすぐさま食らいつく。「え、えぇ……?」と三人とも眉を寄せる。
「け、警察の人は、姉ちゃんに電話で連絡しちゃうかもしれない。姉ちゃんに心配させたくない!」
「と、言ってもねえ……。でもこの時間まで帰ってない時点でお姉さん心配してるんじゃないかな? 今もう十時すぎだし……」
「えっ、十時過ぎてるの……!?」
弾かれたように携帯を取り出す。電源ボタンを押して浮かび上がってきた画面、時刻は十時十五分。終わった。じゃあ、もう、姉ちゃんは家にいるかもしれない。家の中に僕がいないことに驚いて……いや、でもそれならすぐ電話してくるはずだ。まだ望みがあるなら諦めたくない。
「うん……それにやっぱり警察に預けた方が安全だと思うな。君もさっきみたいな危ない目にはもう遭いたくないだろ?」
「……こ、怖い目に遭うのは嫌だけど……でも姉ちゃんを泣かせるのはもっと嫌なんだ。……お願い、助けて」
三人は顔を見合わせた。お姉さんが「警察に相談してみましょうか」と提案すると残りの二人も苦笑交じりに頷く。
「とりあえず、どうにかお姉さんに連絡はせずに、君を家に送ってくれるかどうかだけ話してみるよ。……立てる?」
手のひらを差し出された。繋いでも大丈夫だろうか。今日ここまでに出会った大人の顔を思い出して迷う。この手を握ったら、また変な場所に連れていかれたり、怖い目に遭わないだろうか。
おそるおそる三人の表情を窺う。小首を傾げて目を丸くしている二人と、柔らかい笑みを浮かべて真っ直ぐ見つめてくるお姉さんの顔。息を吸って、短く吐き出すと僕は覚悟を決めて差し出された手を掴んで立ち上がった。
「お名前、教えてくれる?」
「ひ……一之道」
拳を作る。名前を教えることは恥ずかしいことだと思う。特に年下の子には教えたくない。だって絶対笑われるし、馬鹿にされる。同い年の子からはうんざりするほどからかわれているからだ。でも相手が年上だからだろうか。いつもより素直になっている口は息を吐くようにその名をこぼす。
「一之道マイゴです……」
表通りに出ると、騒がしさは薄れて、街の明かりも少なくなっていた。
ただ交番の前で膝を抱えて座っていると、やっぱり目立ってしまうのか何人かすれ違いざまに視線を向けてくる。恥ずかしくてどこかに隠れたくなった。でもここまで連れてきてくれた男の人がしきりに携帯の画面を見せてくるので逃げられない。画面へ再び視線を落とせばさっきまでウサギが撫でられている動画だったのに、回し車を走り回るハムスターに変わっていた。
男性は「可愛いよなあ」と言いながら面白いのか笑っている。僕らがそうやって携帯の画面を覗き込んでいる間に、お姉さんともう一人は交番の中だ。外にいるから中の会話は聞こえないわけだけど……。いまさらになってとんでもなく申し訳ない気持ちになった。胸の中に石を落とされたような重さを感じる。
「お待たせ、マイゴくん」
やがて引き戸を開いてお姉さんたちが外へ出てきた。後ろから警官が帽子の鍔を上げて顔を覗かせる。
「「あ」」
そろって口を開く。あの若い警察官だった。
今回だけだからね、と釘を打たれた。
幸いにも姉ちゃんが巡回連絡カードというものを提出していたお蔭で、名前を聞いて住所はすぐに分かったらしい。
「個人情報ってすごく大事な情報だから滅多なことがない限り、取り出して確認なんてことはしないんだけどね」
僕の手を引きながら、彼は首を掻く。
「でも、まさか一之道さんとこの子だったなんて」
「…………」
大通りと比べてずいぶん横幅の狭くなった道を二人っきりで歩いている。周囲に人の気配は無い。
「……まあね。そりゃ、姉弟そろって警察に敏感になるのも無理ないかもだけど」
黙り込んでしまった僕の様子を察するように、彼は言うので、そっぽを向く。
「べっつに。僕は平気ですけど」
「そう? ならいいんだけどさ。……でも確かに、僕らが一緒にいるところをお姉さんが見たら、何かの事件に巻き込まれたんじゃないかって泡吹いて倒れかねないもんね」
――僕は両親の顔をよく覚えていない。
姉ちゃんは十一歳の頃、五歳の僕と家で留守番をしていたらしい。
「すぐに帰るから」と玄関口で姉ちゃんに言って、そこまで距離も離れていないスーパーに両親は出かけていった。
姉ちゃんはすぐ帰ってくるんだと思って、僕の相手をしながら二人の帰りを待った。
でも、インターホンの音を耳にして、駆け出して扉を開けた先に居たのは両親じゃなくて警察の人だった。
事件に巻き込まれて、二人は帰ってこれなくなったのだ。
僕は両親の顔をよく覚えていないけど、姉ちゃんがわんわん泣いて悲しくなったことだけは強く覚えている。
姉ちゃんを泣かせた警察官を、正義の味方だとか、立派なお仕事をしている人だとはあんまり思えない。というか苦手だった。
だから二度と姉ちゃんに警察を近づけたくなかったんだけど、結局こうして手を繋いで家の近くまで送ってもらうことになっている。
とても悔しかった。
『驚いてても怖くても嘘を吐きまくる、迷子になっても素直に助けを求めない。それじゃあ恐ろしい目に遭うよ』
カルラの言葉が頭をよぎる。その通りだった。もっと早く、誰かに道を聞いたり、もし警察に頼ることになったとしても、ここまで遅くなる前に帰れて、何食わぬ顔で姉ちゃんの帰りを待てたかもしれない。
結局薬を飲まないと素直な言葉が出てこないこの口のせいで――いや、そうじゃない。
『……いい? マイゴくん。意識だよ』
意識だ。嘘をつかないように、素直になろうと、僕自身が変わろうとしなければ、またあんな危なくて怖い目に遭ったりするかもしれない。いや、今日よりもっと取り返しのつかないことになるかもしれないんだ。
「マイゴくん。あそこかな?」
彼の真っ直ぐ伸びた指の先を追いかける。
二人で住むには広いとすら思える一軒家。それを目にして、思わず涙が溢れそうになった。下唇を噛んで我慢する。
「ありがとう、おまわりさん」
「はいはい。またね、マイゴくん」
繋いでいた手を離して、お腹に痺れるような痛みが走っても気にせず走る。
怖いお兄さんから逃げていた時ほど心臓はバクバクしていない。でも家の中の明かりを見て、顔はどんどん固くなってる気がする。
ドアの前で立ち止まって深く息を吐く。ポケットに手を突っ込んで気付いた。
薬はもう無い。三つ、全部使ってしまった。唾を飲む。代わりに鍵を取り出してドアノブに差し込んで回す。ドアを勢いよく開くと目の前に姉ちゃんの顔があった。
「えっ」
言葉もなく、抱きしめられて頭が真っ白になる。さっきまで浮かんでいた言葉の数々も吹っ飛んでいく。
「よ、かったぁ!! もおお!! 帰っても家の中真っ暗で呼びかけても返事ないから、電話しようとしてたとこだったんだよ!?」
すぐに離され肩を掴まれ、揺すられる。見れば姉ちゃんは片手に携帯を握っていた。僕に電話しようとしていたのかもしれない。さらに目を落とせば、姉ちゃんはまだ靴を履いた状態だった。帰ってきてからそんなに経っていないのかも。そこまで考えて魂が抜けてしまうんじゃないかって思うほど安心してしまった。
「あんた一体どこで何してたのよ! なんで私より帰ってくるの遅いんだコラ! もしかして迷子になってたとか!?」
「ち、違うし! ちょっと寄り道してただけだし……っ!」
「寄り道ぃ!? 寄り道で帰るのが十時すぎって、私そんな遅くまで遊ぶこと許した覚えないけど~!?」
頭を拳でグリグリされている内に、口はペラペラと嘘ばっかり零していく。
でも、家に帰ってこれたし、姉ちゃんは泣いてない。嘘を吐いて正解なんじゃないかな。
わざわざ、実は迷子になって変なところに連れていかれたり、殺されかけたなんて打ち明けなくても。今日のいろんな出来事は心の内に秘めて……。そこまで考えていると、抱きしめられて体のあちこちから力が抜けていたせいか、ぐぅう、と情けなくお腹が泣いた。
「ん? ……マイゴ、もしかしてお腹空いてるの?」
「い、いや……」
――いや、やっぱりダメだ。
今日姉ちゃんに心配をかけずにすんだけど、このまま何も変わらずに嘘を吐いていけば、いずれ泣かせてしまう日が来てしまうかもしれない。やっぱり、変わろうとしなきゃダメだ。
「ごめん、姉ちゃん。……実は、晩飯食わせてもらったってのは嘘。ほんとはちょっとだけ、ちょーーっとだけ、迷ってたんだよ。ぜんっぜん、よゆーで帰ってこれたけどさ」
意識のあるなしで、だいぶ違うというのなら。おそらく、これでもちょっとは……変わるんだよね……?
「こんのバカ弟!! 迷ったんならすぐに電話してきなさいよ!!」
もちろん、姉ちゃんのゲンコツは頭に降ってきたし、鬼のような顔でガミガミ怒られたけど。
胸がざわつくような、悪いことをしたような、罪悪感はどこにもなかった。
◆
「あの男の子をえらく気に入ったようだね、カルラ」
黒猫が私を見上げて一鳴きする。
マイゴくんの家の屋根は、濃い青色だった。私はその屋根に身を溶かしながら、姉弟のやりとりをじっと眺めていたのだ。
どうやらこんなに広い家なのに、住んでいるのはたったの二人だけらしい。
『姉に心配をかけたくないから警察のところへは行きたくない』という少年の言い分には首を傾げていたモノだが、なるほど。二人ぼっちならそうなるのだろう。お互い以外に頼れる暖かい存在がないのだから。
「別にそこまで思い入れはしてないさ。無事に家に帰れたようだし今の様子を見てると、意識さえ続けていれば『呪い』を弾き飛ばすことも出来るかもしれない」
「そうかね。僕にはとてもそうは思えないよ。だってあの『呪い』は強力だ。カルラが少し目を離した隙に死んでしまうかもしれないよ」
猫は含みのある言い方をして目を細めた。まるで笑っているようにみえる。
「何が言いたいんだ」
「僕は聞いたんだよ。あの子は『呪い』のせいで何度も人生を迷うだろうってね」
黒猫は欠けた月を見上げてもう一度鳴いた。
「へえ」
私はマイゴくんを見下ろす。もちろん『呪い』がどれほど厄介なものかは知っている。間違いなく私の力がなければ、彼は今日にも死んでいただろう。私が干渉して本来あるべき運命を捻じ曲げてしまったのかもしれない。そしてこの生真面目な猫は上に全て話したのだろう。そのうえ、私にこうして聞かせてくるということはだ、つまり――。
「なるほど。つまり私に責任を取れと?」
「そもそも君が気にして始めたことだ。最後まで見守ってやったって良いんじゃないかな」
後ろ足で耳の裏を掻き、黒猫は欠伸した。
「まあ、僕は邪魔するけどね」
屋根の上を一蹴りして、彼は夜闇へと消えていく。
私は、漂う空気を吸った。
線路を駆ける電車の足音。つんと冷える静寂と今日を絶つようにして失われていくビルの明かり。そして目下で身を寄せ合い温め合う家々の光。
不安や安堵を飲み込み、明日へ繋げるため変わろうとする少年の一日さえ何食わぬ顔で食べてしまう夜を私は吸った。
ああ、この世界を覗くのは私にとって、ただの趣味のようなものだったのにな。
空気に溶け、遠くから眺めているだけで十分だったはずなのに。なんだろう、この胸の高鳴りは。
ここまで引っ付いてひとりの人間を観察したのは初めてだった。もちろん一匹の妖精でしかない私に、家族なんてものはないから温かみなど分かりはしないけど、この少年は『呪い』だけでなく、家族への情で自分を縛ったりする。
そういえば、ミシナとかいう男もそうだ。女に嫌われたくないから隠れて汚いことをして稼ぎ、女の言葉で人生を棒に振ったりする。人間は他人の為に自ら生き難い道を選んでいくのだ。なんて、面白いのだろう。
マイゴくん。彼はこれから先、誰の為に迷うのだろう。どんな人生に苦悩するのだろうか。
行く末がどうなるか、彼と辿ってみるのも悪くはなさそうだ。
壁に溶け込んでいくと、ちょうどマイゴくんは鏡面に映る自身の首、そこにハッキリついた切り傷を確認して、眉を寄せているところだった。
それは隠すべきなのか、打ち明けるべきなのか。
彼はまた迷いはじめたようだ。