若江寝間は、静かに仕事をしている。
カショカショと、パソコンの音が部屋に響く。
静寂が世界を支配していた。
女は顔を上げ、腕を天高く突き出し伸びをする。
席を立ち、何時の頃にあったかも分からない辞書を本棚から取り出した。
彼女は若江寝間。この地方自治体の幹部職員である。
幹部職員と言っても、部下は一人もおらず、何処の誰が来る訳でもないこの部屋の中で、上がりの時間が来る迄仕事をしているのだ。
仕事内容は教育。
教育と言っても彼女が行っているのは、成績劣等生の成績改善教育だ。
今、寝間は教育企画を考えていた。
本来だったら教育企画の構築は其れなりの人数を割いて思考される筈だが、第58働き方改革の煽りを受け、労働者が働き場所を選ぶと言う労働システムが導入されて以来、成績優等生教育へと人材は流れ、予算も流れた。
成績劣等生への世間の関心は少なく、予算も人材も流れ出ていく中、ある文部省大臣の鶴の一声で、成績劣等生対策が地方自治体へ丸投げになった。
色んな地方自治体の御座なりの対策が進む中、寝間の住む地方都市にも、御座なりの対策の為の人材が最低一人以上必要なので、得に希望を出していなかった寝間に、余り金の掛からない権限と共に、仕事が回って来たのだ。
寝間はぼんやりと、オフィスを見渡した。自分以外誰も居ない。
「まあ、これはこれで好きに出来るから良いけど」
県庁の離れの第十三館の五階である。何を思ったか知らないが、日当たりが悪く北窓だった。しかも、二階分の吹き抜けである。
余程の変り者が設計したらしい。二階には螺旋階段の出入り口が有るだけだった。
後は普通に、背の低い本棚が有るばかり。
《学校の図書室にあるよねぇ。》
寝間はぼんやりと思い出に浸っていた。
暫くの間、考え事をしていると考えがやがて一巡して来る。
《なんで労働者が仕事を選択出来る制度、導入しましたかね。
流石に一人では限界があるのでは……。まあ、自由ですし》
寝間はオフィスのデスクの規則正しく並べられている間を、机の角に当たる事なく、高速移動出来るか試してみた。
右へ行き、左へ行き、右にフェイントを掛けられつつ、直進して相手の進路を阻む。
シャドーディフェンスも、最初の頃は面白かったが、誰も相手が居ないので、今は下らないとしか思えなかった。
《重要なのは何かな。そもそも、出来が悪いってどういう状態なのか。
勉強は出来のいい人に任せて、運用もやる気のある人に任せて、…で、今だよね。人に対応しているのだから、何でヒント無いかな。》
本を漁ってみたのだが、此処にある本も県立と市立が一体となった図書館でも、カリキュラムの組み方を指南する書籍はあったが、人がどの様な脳みそをしていて、どの様な観点から、“人の脳みそに教育と言う名の情報を組み込むアプローチをしているのか”、に関する文面は皆無だった。
《教育と言う観点に立っているのに、攻略対象がどの様な傾向を持っているか、解説した書籍が皆無なんて、しかも図書館に。
皆はどうやって、アプローチ方法を考えているのだろう。》
誰の机になるかも分からず、誰かの机になる時が来るかも分からないデスクの周りを歩き回りつつ、時には別の軌道をネルマは描いていた。
《そもそもである。この国の教育は、十数年前まで、成績優等生にも、成績劣等生にも、厳しいものだと言われてきた。
外国の実例から成績優等生に対するテンプレートカリキュラムを大學が中心になって形成して、外国に追い付き追い越せの精神論と年寄りの若い時分の、“国際的な人”という在り方を基軸に有能者教育の方針が決められたが、年寄りのノスタルジーに浸って御茶を濁した感があった。
まぁ、そこは兎も角、成績劣等生の能力が向上する様な方針を決めねばならない。
どうやって文部省指定の知識を、劣等生の脳みそに組み込んでいくのか。
………何だか、面倒になってきた》
ネルマは歩き出し、調理用の電気コンロの上で笛を思いっきり鳴らす薬缶を止める為に、コンロに近付きスイッチを切る。
とぽとぽと愛用の熊絵柄のマグカップに、御湯を注ぎ込む。
小さな冷蔵庫から黒い粉の入ったタッパーを取り出し、蓋を開け、レンゲを使って山盛りになった黒い粉を二回、マグカップに投入する。
黒い粉の質量でマグカップの中の御湯の水嵩が上がる。
レンゲで御湯を回し、逆回転を時折織り混ぜ、マグカップの中を撹拌していく。
ネルマは満足したのか、黒い液体と化したマグカップの中身を口の中へと空けていく。
一息ついて席へ戻ろうとして、一旦立ち止まり、黒い粉を冷蔵庫へ入れて窓際へと近付く。
台風が過ぎ去ってから、この辺りは気温が徐々に低くなっていった。
ネルマはもう、セーターを二枚重ね着をしている。
《結局のところ、この国はもう駄目なのだろう。
外国被れの、何だか良く分からないけど、革新と呼ばれるものを何が何だか良く分からないままに丸暗記して来た勢が、教育界を席巻して、何か良く分からないけど、ソレッて良いよね!と言う感じだったりするし。
後は日和見極め込む程度の人材か。一応明示されてはいるが知識の伝播をサボタージュするシステムなのだろう。》
《首都へ行けば又違うのかな。……多分、違うよね。メディアに出ている人達があんなだから。》
ネルマはメディアを通じてでしか見た事の無い政治屋の顔触れを思い出す。
此の國の社会では、大卒者には伏龍や鳳雛で有る事を求めるブルーカラーの人々が多いのだが、外国がやっているからとか、民主主義とはこう言うものだとか言いながら、粗大ゴミと不良品の二者択一を国民に迫る馬鹿者しか政治家や有識者になっていなかった。
此の國のブルーカラーが、『対象の出来事は八通り位の遣りようが直ぐ様浮かぶから、その中から寄り良い物事を選べば良いじゃないか』と言い聞かせても、粗大ゴミと不良品の二者択一を執着するその有り様は、人材的なゴミであり、大學が若しも工業商業製品のメーカーであれば、粗悪品回収作業に追い立てられて、眠る暇も無く、腹に据えかねた頭脳労働者達を中心に労働争議に追われている頃だろう。
「リコールだ。本当に使えないよね政治屋とか、有○者とか、国○政治学者って」
ネルマは取り敢えずランチにと、買ってあった蜜柑に手を伸ばす。
少し酸味がキツいが、物事を考えるには丁度良かった。
ネルマはホワイトボードに近付き、頭に浮かぶイメージや文字を書きなぐった。
イメージが走馬灯の様に次々と浮かび、そのイメージを捉えるのに苦心しながら書き付けていく。
【彼・彼女等はスポーツに興じたり、髪型を形成したり出来る。
下学上達と言う存在は不可解。
親子の有り様・年表・人の精神
コウモリの翼・人の能力・アインシュタインをモデルにした仮説
言語の羅列/要約された言葉への不能
大工と大學
ツーカーと図説】
ペンを迷わし、目玉を忙しなく動かし、頭の中を引っ張り探すが、今はこれと言って他に思い浮かぶモノは無かった。
ネルマはココアを一気に飲み干し、近場の椅子に座り、背凭れに倒れない様に気を付けつつ、体重を全部載せて、ボードを見詰めた。
「中々良いよね」
ネルマはダラケた格好のまま、一仕事終えたと満足感に浸るのだった。