星冠の女神像
星を冠とした漆黒の女神像。
誰が持っていたのだったか。家人だったか、それとも親戚、或いは知人か。誰が持っていたのかすらあやふやになってしまったけれど、幼き日に見たそれが、記憶の中に鮮やかに残っている。それが、原点だったような気がする。はっきりと言うならば、幼い俺は、その女神へと恋をしたのだ。
それは何処までも残り続ける、二度と消えることの無い優しい傷跡。まるで、母の腕に抱かれる赤子になったかのような。母の手に愛撫される幼子になったかのような。そんな、錯覚さえ抱くような。甘い、忘却という霞の奥に隠れた幼き日のことを思い出した。なんということだろうか。何もかも無くして、今唯一この身に残っているのが、幼少の初恋だとは。
ざあざあと吹き荒れる風に胸中を重ねながらも、同じように吼え猛りたいという願望が鬱屈と冷たい空気に育まれていた。
悲しい、苦しい、心が痛い。
今すぐに崩れ落ちて泣き叫びたいというのに、長年培ってきた無駄な驕慢がその邪魔をする。
俺という存在を解剖したとするならば、骨や肉の代わりに驕慢が詰められていて、それに加えて知識への欲望と、年月の割にはちっぽけな、自分に知り得た事柄で出来ているのだろう。
全てが無駄だった。
俺が、知ろうと足掻いていて、あの心躍らせながら試行錯誤した日々も。全て、全て。
胃の中で冷たく凝っているような重苦しい絶望を抱えながら、只管に歩いていた。
俺がやった事は無駄だった。俺が学んだことは無駄だった。この足元はがらがらと崩れ果て、最早一歩も先へ進むことは叶わない。
視界に入る、きらきらとした小粒の[[rb:金剛石 > ダイアモンド]]をばらまいたような星空に、ぐっと俯いて涙を堪えながら、もう進めないと悲鳴を上げる脚をそれでもと無理矢理に動かそうとした時。
「そんなに泣かないでちょうだいな。涙で海が出来てしまうわよ」
それは、慈母のような優しい声。
空の果てから、響いてきたその声に、思わず面を上げる。ああ、目の前には誰も居ない。眼前に広がるのは、単なる平原と広大なる果てのない夜空。だというのに──“彼女”はそこに居る。此方へと手を差し伸べて、笑っている。夜空が、世界を呑み込んでいる。
「貴方の心に、溺れてしまう前に──おいでなさいな」
あまりにも優しく、甘やかなその声。
思わず縋り付いてしまいそうなその声は──思い起こせば、そうだ。あの初恋の女神像から受けた印象と酷似していたのだ。
俺は、何のために物事を学んでいたのか。それは、全てあの女神像のため。星を冠とした、初恋の為──そして、それは報われた。
一欠片の関心、それどころか単なる幻であるかもしれないその言葉によって。もしかしたらそれが、狂気が生み出した夢であったとしても。
ああ、世界は最早、俺を傷付けるものではなくなった。
星は戴冠される為に自らを形作り、大地は玉座へと変貌する。
今、皆が歌うは原始の世界の生命讃歌。
始まりの闇を崇め奉る、我ら凡百生物の太母なり。それでは、俺も讃えて歌うとしよう。
──Ia、Ishnigarrab!