決勝17
「別に……構いませんわ」
答えながら立ち上がる。
世界が歪み、半分が暗闇――右目は今ので潰れたか。
「ぐっ……」
反射的に抑えに行った手も、視界の中では右の隅の方を通っている。
「フフ、これでお揃いですわね」
余裕をかまして、手に着いた赤黒い血を振り払う。
大丈夫だ。片目は無事なのだから、まだ見える。
つまりまだ戦える。
「フフフ、確かに……ッ」
笑いながら、次の瞬間には奴が飛び込んできている。
半分になった視界の中心にその姿を捉えようと左目を向け、ちょうど向こうからこちらの意図に合わせるように飛び込んできた。
「シャッ!」
「くっ!!」
高速の足刀。辛うじて躱したが、多分にまぐれだ。何分距離感が普段よりも分かりにくい。
「シィッ!」
「がっ!?」
その証拠に、次の突きはしっかりと腹で受けてしまった――受け止めようとした腕はその横をすり抜ける。
再び伝わる衝撃。体内を駆け抜けるそれに思わず足が止まり、その静止目標に叩き込むべく上段蹴りが迫る。
「ぐっ……!!」
首筋で受け止め――というより蹴られた瞬間を掴んで捕える。
が、この僅かな間に奴は私の状態を理解していたようだった。私があえて受ける事で捕まえに来ると読んでいたのだろう、完全に掴む直前に足を戻して、その動作でそれまでの軸足で蹴り上げに来る。
「ぐぅっ!!」
腹に突き刺さる足。
思わず前のめりに倒れていくその顔を掬い上げるようなアッパー。
「ごっ!!」
振り子のように大きくのけ反りながら、何とか足の感覚で立ち続ける。
顔に防御を集中するが、それは奴にすればボディへの攻撃の集中を意味する。
「ハァッ!」
前蹴り。直突。フック。たまらず防御が下がると中段から変化した上段蹴り。
「くっ、う……」
最後の一発がまた意識を刈り取りかける。
思わず膝をついたが、膝に再生スイッチがあるかのように蘇るつい数秒前の記憶に、何とか立ち上がろうとしつつ防御を固める。
「シュッ!!」
その防御の裏をかくように回り込んでの延髄への一撃が、私を俯せに寝かせる。
「ぅ……」
(やばい!寝るな!起きろ!!)
薄れゆく意識で命じるが、身体は簡単には応じてくれない。
床を這うようにして少しずつ奴から離れるが、当然そんなものでどうにかなる訳もない。
「……」
直感:奴はすぐ真上にいる。
(動け!動け!動け!)
必死に念じ、力み、もがく。
「か……ぁ……ぁ……」
それがどれぐらいの時間だったのかは分からない。
恐らく数秒も経っていない。一秒と少し――多くてもそれぐらいだろう。
頭の中にあらゆる人の顔が浮かんだ。
日本とこちら、その両方で出会った人々の顔。
そこに懐かしさや、親しみは生まれなかった――いや、そう言えば嘘になる。より正確に言おう。
そんなものが出てくるのは意識が無い時だと理解できた。
そしてその理解が、自分が居眠りしている事に気付いた時のように体を跳ねさせた。
「ッ!?」
奇跡だった。
これだけはそう呼んでよかった。
私が跳ねて転がり、僅かにだが動いたのとほぼ同時に、それまで頭のあった所にやつの踏みつけが落ちてきたのだから。
「ふっ、はっ、はっ……」
自分でもよく分からない呼吸音を漏らしながら体を起こす。
最早何故立てるのかももう良く分からない。
ただ、楽しい、やりたいという思いだけが私を満たしていた。
「シッ!」
もう一度の突き。
最早ガードを上げる力すら残っていない私に突き刺さる。
「……」
ふらつきながら、なんとか二本の足で立ち続ける。
「成程……」
奴の声が遠くで聞こえた。
「完全に落とさない限り、貴女はお立ちになるのですね」
その言葉と同時に彼女が掴みに来る。
投げだ――そう思った瞬間、反射的に左手が動いた。
「ふっ!」
釣り手にする気だろう。その左腕に奴の手が伸びる。
「捕まえ「……捕まえた」」
最早それは私の体に染みついていた。
この状況で出せるようになるという事は、そういう事とうぬぼれても許されるだろう。
「あっ!!」
奴の声が上がる。
観客席がどよめく。
不思議な縁――初めての実戦投入が師匠の前なら、大会最後の戦いでの投入もまたそうだ。
「はああぁっ!!」
奴が後ろに倒れる。
小手返し――最早伝家の宝刀。
「ああああっ!!」
だが、それでは終わらない。
「!?」
倒れた奴の頭=足下すぐ近く。
「ぎっ!!」
なら、選択肢はない。
「……お株、奪わせて頂きました」
改めて、なんと硬い骨か。
「……ッ!!」
踏みつけられて尚、転がってのたうちながら、立ち上がる力がまだ残っているとは。
だが、流石にもう限界か――お互いに、だが。
「「……ッ!!」」
血まみれで立ち上がる奴。
鼻も潰れ、左目も死んだ。
「ぶっ!」
今吐き出したのは血反吐と……歯だろうか。
「はぁ……、はぁ……」
立っているのが不思議な程のダメージ――お互いにだが。
「はぁ……フ、フフ……」
「フフフ……」
その状態で笑い合う――お互いに。
そんな私達を、ぱらぱらと起こった拍手が徐々に広がって包み込んでいく。
「フフフ……」
最早足も覚束ない。
「ハハハ……」
視界だってほとんど潰れている。
だが、止めない。
「「ハハハハハ!!」」
間合いに入る。どちらの?もう分からない。
「ハハ……あああっ!!」
同時に出した拳。
私のそれは紙一重。奴のそれは――私の顎を砕いた。
「ふ、あ……」
奴の動きが止まる。
「ッ……」
言葉にならない言葉で私は叫ぶ。
そしてその音の無い音が最後の力を絞り出させた。腕を振り上げ、脳天に肘を落とす力を。
「ふっ……」
膝をつく。
座るように倒れる――お互いに。
終わった。勝つにしろ負けるにしろ。
その瞬間、恐らく私は死んだ。
そう、気絶ではない。死んでいたのだ。きっと。
恐らく誰も気付いていないだろうが、観客席の人々は全員がかりで私を蘇生させてくれたのだ。奴が立ち上がろうとした事への、そのざわめきで。
(立て……)
身体に言い聞かせる。
生き返ると、次に生まれてくるのは勝利への欲。
立て!立て!!立てば勝ちだ!奴は倒れた!!
無理に無理を重ねた身体。引き摺るようにして動かす事すら最早できない、地球より重くなったそれを必死で動かそうとする。
「ぅ……ぁぁ……」
胎児のような姿勢をとり、肘と膝とを付けるように動く――少なくともそう動こうとする。実際にはどうなっていたのか分からない。
「ぅ……ぅ……」
頭は未だに揺れ続けている。
視界はもうほとんど効かない。
残っている感覚は最早痛覚だけだ。
そしてそれすらも薄れた意識によって消えかけている。
その状況で起き上がるのがどれ程の事か、恐らく一生かかってもこれを他人に説明する事は出来ないだろう。
「ぁ……」
だが、どうにかして私は体を起こした。
そして立ち上がる目途が立った――信じがたい事に。
だが、その瞬間に観客席が一体化した巨大な驚きの声を上げる。
「ぇ、ぁ……ぁ……」
その声の対象が何なのかはすぐに分かった。
「……」
奴は、ソニア・ローゼンタールは立ち上がっていた。
ボロボロの身体で立ち上がり、私の前で悠然と構えを取っていた。
(負けた……)
私は立てず、彼女は立った。
つまり、そういう事だ。
「……ふっ、ふふ」
不思議と、悔しさは無かった。
ああ、これで立てるのか。なら、仕方ない――そんな奇妙な納得が私の中を満たしていた。
「……」
奴は立てた。私は立てなかった。
なら、私に出来るのは、彼女を讃える事だけだ。
「……」
「……?」
いや、待て。
何かおかしい。
「ぐっ……!!」
動かない体に無理やり力を入れる。
バラバラになりそうな激痛と引き換えになんとか立ち上がる――かなりもたついてはいたが。
「……」
奴の前に立ち、その顔をじっと見る。
血まみれで、片目は潰れているが、うっすらとアルカイックスマイルを浮かべてこちらに構えを取っている。
そう、構えをだ。
はっとしたように審判が歩み寄ってくる。
「……ミス・ローゼンタール?」
その呼びかけに答えはない。
「……」
そっと顔に手を伸ばす。
目の焦点はこちらに合っていない。
「……」
開いている瞼に触れ、それを静かに押し下げる。
それに連動したかのように、彼女は崩れ落ちた。
「ッ!!」
審判が息をのむ。少し遅れてゴングが鳴る。
信じがたい事実:彼女は失神していた。それでなお、立って構えていた。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に。
明日で完結となります。
なお、明日はいつもより少し早い投稿を予定しております。