決勝12
奴が倒れていく。
ゆっくり、スローモーションのように。
経験上、こうやって相手が見える時は、もう立ち上がらない。
今の後ろ回しは完全に入っていた。しっかりと確実に、相手の首を捉えて刈った。
なのに――。
「なっ!?」
身体はまだ熱い。
四肢に感じる血は末端までしっかりと力強く流れている。
だが、背中は冷たい。奴が跳ね起きるのを見た瞬間から。
「……」
突然空中に引っ張り上げられたように跳ね起きた奴。
その勢いを最大に使って距離を取りながら、ゆらりと立った姿は、どことなく幽霊のそれをイメージさせる。
――だが断言できる。幽霊の方がマシだ。
観客席がどよめく。
自分の蹴りにうぬぼれるつもりはないが、それでも傍から見ても今の起き上がり方は異常に映ったのだろう。
「……ッ!!」
だらりと自然に両腕を下げた奴に、私は殺到した。
直感:こいつに動かれたらまずい。
それは本当に直感だった。その前に動物的とつけてもいいぐらいには。
両足を肩幅に広げ、両腕を下げた姿勢でただその場に立っているだけの奴。その姿から感じる言い知れない恐怖が私を動かした。
「シィィッ」
左右に小刻みに振りながら一気に飛び込む。
(終わらせろ……!一気に、この場で!)
脳が厳命を下す。ここで倒せと、奴に動作させるなと、まるでそれから逃れるように。
「シッ!!」
それに従い、無防備な顔面にジャブを見舞う。
「……」
返ってきた反応は、ほんの僅かに体をのけ反らせただけ。それによって下がった鼻先数センチの所で空を切った拳を引き戻して同時に右を放つが、変化があったのは私の腕だけだった。
「シャァッ!」
更にジャブ二発。
効果があったのか――そう思いたいが――僅かに後ずさった相手に再度の右ストレート。
と、見せかける。
より正確に言えば、こちらに向けられたその目によって攻撃を変更する。
拳を突きだす直前に左足を僅かに斜め前へ。
「シッ!」
拳を急制動。同時に鞭をイメージして右足をしならせ、奴の右足を内側から蹴りにいく。
足を潰す。即ち動きを潰す。即ち勝機を潰す――現役時代に叩き込まれたローキックの教え。
そしてどんな技でも、想定外の方向から打たれた時、人間とは脆いものだ。
「あっ……」
そう、その筈だった。
この短時間に破られた常識は二つ。
信じられない事だが、膝を横から狙った私の蹴りは、何に触れることなくそこを通り過ぎて、腰の向けられた方向=奴の左側へ弧を描く。
すり抜けたのか?そうとしか思えない回避方法。
見た訳ではない。だがそれ以外私の頭では思いつかない。
仮説:ただ普通に立っているような姿勢のまま、奴は足だけを動かして蹴りを躱した。
それも、その間一度も奴の体勢に変化は見られない。両足に均等に体重をかけて一切姿勢を変えないまま、一瞬とは言え重心をそのままに片足だけを宙に浮かせて動かした――そう言えばそれを可能にする身体能力がどういうものか想像できる。
だが、感心している場合ではない。奴はその直後動き出した。
「ちぃっ!!」
咄嗟の反応=全身を捻る様なバックハンド。
プロレスで言う逆水平チョップの動き。裏拳での一文字。拒絶の意思に遠心力を上乗せして顔面へ一撃。
しかし、私の攻撃は再び煙や霧を打ったように奴をすり抜けた。
「なっ……」
そんな筈はない。
ただ身をかがめて下をくぐっただけだ。
だが事実、目に映るのは蜃気楼。奴を攻撃がすり抜ける。
「ッ!?」
しかしその蜃気楼は実体を持った。
そしてその実体が私の腕を持った。
「しまっ――」
思わず漏らした声は、重力の消滅によって途切れた。
奴が消える。地面が消える。世界が回る。
背負い投げだ――その事実に気付いた時には、仰向けになって背中を床に叩きつけられていた。
「がはっ!!」
呼吸が止まる。合わせて動きも。
だが、その間も目はそれではいけないと警告を発し続けている。
(動け!動けくそ!!)
「がっ……あっ!!」
間一髪だった。
何とか僅かに上体を起こし、首を横に傾げるのが間に合った。
その一瞬前に鼻があった場所に容赦なく突き降ろされた拳を躱しつつ、その勢いで転がって距離を瞬間、その事実に気付いた。
「くっ……!」
更に一回転。それを十分な助走に変えて立ち上がる。
「「……」」
再び対峙する。
奴はゆっくりと、見本を見せるように再び同じような構えを取った。
私も最初と同様に構える。
(何故だ?ダメージは確かに与えたはず……?)
それも確実にダウンさせるほどの。
なのにダメージはおろか、受ける印象というか感覚はこれまでと比べ物にならない代物に変わっていた。
「……」
四肢に血は流れている。
腹には熱が息づいている。
だが背中には、氷のように冷たい汗が走っている。
※ ※ ※
拳法を楽しいと思う事は無かった。
別に辛い訳ではなかったし、先生や父上に褒められれば嬉しかった。
戦いもまたそうだった。
だから、私にとってはあくまでローゼンタール家の者として修めるべきものという程度の認識でしかなかった。
子供の頃に稽古で負った、左目を縦断する向う傷。
正直な所、消えなくなってしまったこれをコンプレックスに思う事が無い訳ではない。
傷一つない、きれいな顔をした人を見ると、なんとなく比較してしまう自分がいるのも事実だ。
だが、恐らく今後はもうそれもない。
試合するのが楽しい――以前、マリア・キャムフォードが家業の試合興行でデビューした時に語っていたその感覚は、いまいち理解できなかった。
私にとって拳法は、格闘は、例えば詩吟やテーブルマナーのように教養であり、身に着けておくべきものではあっても、楽しいものではなかった。
だから、彼女が私にも“その素質”があると言った時には、ただ冗談を言っているのだとさえ思ったものだ。
だが、もう違う。
一年前の夏休み、久しぶりに実家に戻っていた私は、ある夜父上の書斎の近くで悲鳴を聞いた。
その声のした小部屋に顔を出すと、ちょうどその目の前で腰を抜かした女中の姿と、その向こうに立っている血走った眼の見知らぬ男と、その手の中に光るナイフが目に入った。
食い詰めの盗人――咄嗟にそう理解する。
きっとその時逃げてしまえば良かったのだろう。いや、良かったのだろうどころか、それが本来とるべき行動だったのだろう。
男はひどく興奮しているようだった。
私は男の唯一の逃走経路を塞いでしまっていた。
男の血走った眼は据わり、手の中のナイフがこちらに向けられていた。
だがそれでも私には出来なかった。
竦んでしまっていた?違う。
倒れた女中を放っておけなかった?格好をつける訳ではないがそれはあった。だがそれだけではない。
「ケェッ!!」
奴の叫び声を覚えている。
突っ込んでくるときの表情も、手の中でクルクルと弄んでいたナイフの動きも。
そして――その瞬間に感じたあまりにも強烈な衝撃を。
その後すぐ、他の者達や兄上と父上とが騒ぎを聞きつけて集まり、そこで私と男を見つけたのだった。
奪ったナイフを握って返り血にまみれた私と、自身の血液が作り出した血だまりに崩れ落ちている男を。
これが、人生で初めての経験だった。
――或いは試合に出るように父上が仰ったのは、この時の事があったからかもしれない。
こいつなら勝ち上がる見込みがある、と。
そして二度目はついこの前のミス・カレン・シアーズとの試合だった。
彼女は強かった。その力も、技のキレも、動きの速さも、気迫も、勝利への執念も。
何もかもがこれまで出会った相手とは桁違いだった。
二度目が訪れたのは、その彼女との決着の瞬間だ。
私はあの時間違いなく感じていた。
あの極めて短く、そして極めて濃密な一瞬に。
そして、今日が三度目。
人生で三度経験した、その三度目だ。
この人は、ミス・ハンナ・ハインリッヒは強い。
ミス・カレン・シアーズと同じか、それ以上に。
先程の攻防で追い詰められ、肘で脳天を打ち据えられた時に辿り着いた、今までで一番巨大な波。
(強いな。この人)
下腹部に熱が籠る。
(もしかしたら負けるかもしれない)
四肢に血が流れているのが分かる。
(なのに、どうしてだろう……)
口角が引き上がる。胸が高鳴り、体の痛みがすっと引いていく。
――ねえ、マリア。今やっとわかったよ。貴女の言いたかったことが。
「……楽しいなぁ」
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に。