決勝9
それから、私達は共にアップを行った。
これまでの試合の時と同様のメニューを、同様のやり方で。
「失礼いたします。間もなく開会式が行われます。ご準備をお願いいたします」
これがルーチンというものだろうか。係が呼び出しに現れた時には、すっかり気持ちが落ち着き、体もほぐれていた。
勿論緊張はある。だが、それまでのような体を強張らせるような代物ではなく、適度に全身を引き締める心地よいそれだ。
「いよいよですね、お姉様」
「ええ……ねぇ、ミーア」
そして、心も軽い。
こういう機会でないとなんとなく恥ずかしい気持ちを伝えられるぐらいには。
「今日まで本当にありがとう。私がここまで来られたのは、間違いなく貴女のお蔭よ」
「そっ、そんな!私には、私にはそんな……、勿体ないお言葉です」
私のそれまでの緊張が乗り移ったのかと思うような赤面で顔を伏せる。
だが、今言わなければ。
せっかくここまで来たのだ。せっかくここまで勝ち上がれたのだ。せっかく彼女と知り合えて、その協力を取り付けられたのだ。
せっかく二人でここまで来られたのだ。勝つにしろ負けるにしろ――無論勝つつもりでいるが――礼は早く伝えた方がいい。
「……それに、お礼を申し上げなければならないのは私の方です」
そう言って、ミーアは今度はしっかりと私の方を見た。
「あの予選の日から今日まで、私はお姉様に助けられてばかりでした。もしお姉様がいらっしゃらなければ、私の人生はもっと全然違ったものになっていたでしょう。恐らくは、もっと……もっと悲しいものに」
「それは……買い被りというものです」
正直自分でも全く自覚が無い訳ではないのが余計に恥ずかしい。
「失礼を」
「えっ」
そんな私の手を、唐突にミーアのそれが包み込んだ。
私のそれより小さくて、温かくて、柔らかな手。不思議な程に安心できるその手の熱がじんわりと伝わってくる。
「私には、後は応援を送る事しか出来ません。ですが、どうか御武運を」
それは、発作のような物だった。
もし男のままだったら、そのまま通報されても文句は言えまい。
「ありがとう。ミーア」
「ひゃっ!」
私は彼女を抱きしめていた。
小柄な彼女の背中で両手が交わっていた。
ようやく自分の中で明らかになった。私はこの娘が好きだ。
ただ可愛い後輩という認識か、もしくは友情なのか、或いは恋愛感情なのか。それは分からない。
多分それら全てを含んでいる好きだ。彼女という人間が好きだ。
ずっと一緒にやって来てくれた彼女が、真面目で、ちょっと気が弱くて、優しい彼女が、私は大好きだ。
「貴女が応援してくれる。それだけで十分です」
「お姉様……ッ」
腕の中で彼女のくぐもった声がした。
鼻声のような、何かをすする様な。
そっと手を放すと、彼女は真っ赤な顔をごしごしと拭って、真っ赤になった眼でにっこりと笑った。
「私、私……ハンナ様がお姉様で本当に良かった。お姉様は私のヒーローでした。……いいえ、これからもずっと」
くしゃくしゃの笑顔で笑ってくれる。
そんな事を言われて嬉しくない筈がない。
「どうか、勝ってください」
「ええ。勿論!」
そうだ。私は勝つ。
その為にここにいる。
家のために――それだけではなく、彼女の為に。
そして――。
「うぅ……すみません。私までもらい泣きを……」
「大袈裟ですわねぇ」
ここまで応援してくれたマルタの為にも。
「さて、行きますわよ!」
「はい!ハンナ様!」
パチンと両頬を叩いて気合を入れ、控室から出る。
マルタが後に続く。試合場には選手以外入る事が出来ないが、セコンドとして一人だけ人を付ける事が出来る。
一直線の廊下を進み試合場へ。
(ヒーローか……)
誰にも見えないように小さく笑う。
妙な話だ。ヒーローの中の人をやっている最中に死んで生まれ変わった先でもヒーローの“中の人”とは。
月の門と刻まれたゲートの下で止まり、会場係の指示に従って中へ。
ゲートから中央の試合場までは花道が敷かれていて、満場の客席から見下ろされながらその上を歩いていく。
「どうか御武運を」
マルタの声に背中を押されて、学園での予選と同じ試合場に上がる。
その時振り返った先=丁度入場したゲートの真上に当たる席にアリスとレティシアの姿。その周りにいるのが両親であるとハンナ嬢の記憶が語る。
伝統として、試合前に家族の面会は行われない――恐らく一夜漬けでなんら興味の無かったこの大会の事を学んだのだろうというそわそわ落ち着きのない両親と目が合った。
反対側。太陽の門と刻まれたゲートから現れた道着姿の会長は、既に開始線の近くで待っていた。
目を合わせ、お互いに小さく頷く。そこには奇妙な連帯感のような物があった。
そしてそんな私達の後ろから、同じように男子の選手が入場する。
本日行われるのは二試合。一回戦目が私達で、二回戦目には男子の武闘大会では最高峰とされる聖アントニオ学園の決勝戦が行われる。
私の横に鎧のような筋肉をした柔道着姿の選手が立つ。
ちらりと会長側を見ると、そちらにも日に焼けた見事な体つきのムエタイ選手が控えていた。
「国王陛下、ご出座!」
会場に響く声と、それに続く荘厳なファンファーレ。
観客席が総立ちで敬礼し、私達もそれに倣う。
そして私達の正面の二階席。試合場全体を最もしっかりと見下ろせる場所に設えられた玉座の前に陛下がお姿を現した。
観客席と私達に小さく手を上げるお姿は、とてもこの武辺者の国の王とは思えない穏やかな老紳士だ。
玉座の前に立ち、こちらを一瞥なさる陛下。
やがて、水を打ったような場内にそのお声が響き渡った。
「どうぞ、皆さん楽にしてください」
ハンナ嬢のような人間でも、陛下の声の記憶はないようだ。
「我が国伝統の武闘大会が今年もこうして開かれた事、心より嬉しく思います。本日お集まりの皆さん、そして選手の皆さん。それから、この試合をこうして開催するにあたり、協力を頂いた全ての方にお礼を申し上げたいところではありますが、残念ながら時間が許されません。ですので、甚だ無礼ではありますが、このまま本題に入らせて頂きます。さて、選手の皆さんは、建国以来の尚武の心を忘れず、日々たゆまぬ努力を積み重ねてこられた事と思います。本日その技をこうして見られることを幸福に思い、また、皆さんの不断の努力に敬意を表します。そしてそうした選手の皆さんを支え、共に歩まれてきた方々にもまた、同様に敬意を表します。その崇高な姿勢を忘れず、全ての国民の模範として、今日は存分に技を振るわれることを期待いたします。それでは、簡単ではありますが、私からの挨拶とさせていただきます」
開会式というとやたらと長いイメージがあったのだが、今回のそれはそのイメージに反し、挨拶の後すぐに試合開始の流れとなった。
いよいよだ。
私と会長は試合場中央に集められ、審判からの説明を受ける。
「試合時間は無制限。お互いの衣服以外の凶器の使用、目突き、噛みつき以外の全ての攻撃を有効とします。スリップダウンはとらず、タップ、失神或いは3ダウンでKO、ダウンから一秒以内に攻撃側が追撃の意思を示さない場合はカウントが開始され、テンカウントでもKOとなります。また場外に出た場合及び反則行為があった場合も負けとなります。よろしいですね?」
つまり、これまでと同じルール。
「「はい」」
「よろしい。では両者開始線へ」
そこでこれまでより遥かに念入りなボディチェックを受け、いよいよその係達が離れていくと、審判が鋭い声で号令を飛ばす。
「これより、カシアス女学園武闘大会決勝、ソニア・フランシス・ローゼンタール・ラ・シュタインフルス対ハンナ・コーデリア・ハインリッヒ・ラ・ラルジュイルの試合を開始いたします。陛下に礼!」
右向け右。
背筋を伸ばしてコーテシー。
それから再度向かい合い、構えを取る。
同時にゴングが響き、それに押し出されるように滑り出す。
「「……」」
鏡写しのように会長も動く。
互いの間合いの少し外、じっと睨みあう。
会長:空手のそれに似た構え。
私:キックのそれ。
傍から見ればただの膠着。
だが、実際にここに立つと分かる。動きたくても簡単には動けない。
少しでも隙を見せれば、その次の瞬間には飛び込んでくるだろう。
一瞬が致命傷となる。真剣の斬り合いのような緊張が満ちている。
「……」
その威圧感を受けながら、ほんの少し右へ。
合わせて会長も向かって左へ。
同じリズムでまた右へ。また合わせるように左へ。
互いに一定の距離を保ったまま、少しずつ横に回っていく。
――そしてその間、ほんの少しずつ間合いが近まっていくのも、また互いにそうした結果だろう。
少しずつ近づく互いの間合い=迎撃範囲にして最大射程。身長は私より会長の方がやや高い。つまり、私のそれに会長が入るより先に、私が会長のそれに入る。
「ッ!」
それを見越したか、その間合いの紙一重外側から、彼女が突然踏み込んできた。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に。