三回戦27
奴が転がる。
同時に引き手を解放させるために私の手首を捻りに来る――その手は食わない。
「シャッ!」
手を放し、同時にローキックをお見舞い。
顔面に迫る蹴りを咄嗟に腕でガードした奴の、その腕が再度私の方に向けられる前に距離を取る。
「……」
ゆらり、と幽霊のように立ち上がる奴。
再びこちらに掴みかからんとする腕から更に十分な距離を取ろうとした矢先に、床を滑るように突っ込んできた。
「くぅっ!!」
だが、読めた。
例え動きが速くとも、その出端が読めていれば回避は可能だ。
奴のタックルを切り、反対にアッパーを叩き込む。
既に視界は半分以下になっているが、それでもまだ何とか相手の位置と姿勢位は把握できる。
「ッ!?」
顎に差し込んだ拳が、その小ぶりな顔を上に吹き飛ばし、その衝撃の伝播が体に及んでいくのが私の不十分な視界でも何とかわかった。
(やったか!?)
一瞬浮かんだその希望的観測。
しかし、拳から伝わってくる感触が同時にそれを否定する。
まだだ。奴はまだ動ける。
――なら、動けなくなるまでやってやるだけだ。
「シャアアアッッ!!」
たたらを踏んだような姿勢の奴に一気にラッシュを仕掛ける。
左フックで吹き飛ばし、右のアッパーでそれを迎える。いつものように突放す必要はないし、その余裕も最早ない。
一発でも多く、一発でも確実にヒットさせる。間合いは詰まっているが、それ故に確実に当たるパンチを選択し、確実に顔面を叩き潰しに行く。
こめかみを打ち、顎を突き、少しでも脳にダメージを与える手を休みなく叩き込む。
「ぐ……」
「シッ!」
腕で受け止められる――もう掴みには来ない。
なら、その腕を抑えて下腹部に膝を叩き込む。
「シッ!シャッ!!」
一発、二発、三発――動かなくなるまで打つ。そうしないとこいつは止まらない。もし逆の立場でも奴はきっとやる。奴の得意とする技を使って。
「シィッ!!」
膝蹴りに崩れ落ちていくのが妙にスローでぼやけた視界に映り込む。
――だがまだ足りない。
「シュッ!」
ゆっくりと落ちていく眉間に狙いを合わせ、肘を叩き下ろす。
確かな手応え、確かな衝撃――そして、確かな足の違和感。
「!?」
もう何度目か分からない感覚=重力が遮断され、世界が回る。
「がっ!」
背中から床に落ちる――頭からでなかったのはただの幸運だ。
その瞬間分かった私を倒したもの。
奴の両足が私の足を前後で挟み込んでいる。
蟹挟み=実際に見るのも、当然受けるのも初めての禁じ手。
「おおお……っ!」
その残像だけを私の脳に残しながら、奴は私の右横に瞬間移動すると、私と奴とで十字を作るように胸の上に体を乗せ、一瞬のうちに左腕に自分の腕を絡ませる。
(まずいっ!)
その技が何なのかは分かる。そしてその時には既に手遅れだったことも。
「ぐあああああっ!!」
ミシミシと骨が軋み、それに合わせて激痛が声を絞り出させる。
V1アームロック。私が知る限り最速でその技を極めてきた。
「ぐぅぅぅううう!!」
激痛と圧迫感が襲う。
それから何とか逃れようともがくが、それが却って痛みとなって返ってくる。
「……タップを」
「……いいえ!」
だが、それでタップするつもりはない。
彼女が何としてでも勝とうとするように、私もまたここで負ける訳にも、負けてもいいという気持もない。
――それにおかしなことだが、これまでで一番血が熱くなってきている。
「タップを」
「いいえ!!」
二度目の勧告も答えは同じだ。
ほんの一瞬、奴が何か覚悟を決めるような間が空いた。
「なら……折ります!」
宣言と同時に逃げようとした腕が一直線に伸ばされる。
それは私がしようとしていた動きを、奴が先回りしたような行動だった。
だが勿論、それで逃がしてくれる訳ではない。
「うああああっ!」
真っ直ぐに伸ばされた肘に激痛が走る。
V1アームロックからのストレートアームバー。V1から逃げられなければそちらで極まり、しかし逃げようとすれば自らストレートアームバーの形に向かってしまう。どうしたって逃れようがない二段構えだ。
腕が一層強く軋む。
間違いなく肘関節の負荷限界に近づいている事を全身が警告している。
(折れる……。だがッ!)
だが、負けられない。
激痛は耐えがたい。折れればそれだけでは済まない。
タップすれば終わる。そこでこの痛みから解放される。
それでも、その賢い考えは頭から追放される。沸騰した血がその実行者だ。
(ああ、痛てえ……)
どうしようもなく痛い。
どうしようもなく劣勢だ。
なのにそれが、どうしようもなく楽しい。
「あああ……あああああっっ!!」
勝ちに行く。
ここで勝つ。
その為なら、腕の一本ぐらいくれてやる。
「おおおああああああっ!!」
「うああああああああああっっ!!」
肘が限界に達し、激痛に思わず体をよじる。
タップしようとする左手で自分のシャツの裾を鷲掴みにする。
そして――。
「……ッ!!」
音が鳴った。
「うああああああああっっ!!!!」
耐えがたい激痛の中、右腕が死んだ。
「おおおあああああああっ!!」
「なっ!?」
そうだ。死んだのは右腕だ。
私ではない。
「ぐうぅぅぅっっ!!」
絶叫で激痛を無理矢理誤魔化しながら左手をシャツから離す。
折れれば止まる――自分がそうでなかったのに、人とは無意識にそう考えるものなのか、一瞬抑え込みが甘くなった奴の身体との間にフリーになった左腕を滑り込ませる。
「くっ!」
奴がそれに気づき、首に殺到する私の左手から離れようと体を起こしながら右腕の上に転がってくる――確実に諦めさせるための攻撃。
「ぐぅぅあああっっ!?」
下敷きにされた右腕が気絶しそうなほどの痛みを発する。
もう少し、もう少しだけ――。
「ぐぅぅぅぅうううっ!!」
「この――」
抑え込みが緩まったのを最大限に活かし、奴を左の掌底で突放す。
その左も折れば今度こそ止まる――そう考えたのだろう奴の両手が私の左手に殺到するが、生憎私が動かせるのは左腕だけではない。
「くぅぅうううう!!」
叫びながら、渾身の力を込めて下半身を奴の方に転がす。
マウントを返す要領で反転して奴の上へ。
その動きで一瞬拘束が遅れた左手をそのまま奴の喉に突っ込ませる。
「ぐうっ!?」
逃げる余裕があると見るや手を開き親指と人差し指の間での圧迫に変更。
傍から見れば格闘技でもなんでもない、サスペンスドラマのワンシーンのようにも映ったかもしれない。
「ぐっ……!!がっ!!」
奴が抵抗を試みる。
完全に入っているのだろう、必死に引き離そうとするが、私は今や全体重をその左腕に集中している。
「がっ……ああぁぁ……!!」
奴の両手が左腕に巻きつき、その指が食い込んでくる。
「がっ……がぁ……ぁ……ぁ……」
何秒間そうしていただろうか。或いは何分間?
奴の声が小さくなり、やがて聞こえなくなる。
審判が割って入り、そこでようやく奴が落ちている事に気付く。
「……」
左手に巻きついた奴の指を一本ずつはがしていくと、審判がその手をそっと掴んで垂直にあげて放す。
一体、私と奴との差は何だったのだろう。
体力の差?技の差?勝負眼?運?
その問いの正解は分からない。
ただ、一つだけ言えるのは、執念の差ではないと言う事だ。
「……素晴らしいファイトでした」
ぱたんと床に着いた奴の腕。
小さく呟いた私は、その瞬間に思い出したように全身の痛みに悶絶した。
目は見えず、鼻は折れて辺りに血をまき散らし、右腕は折れて青黒く変色している。
気絶しそうなその痛みは、試合場から放たれた光が私達を包み込むまで続いた。
そしてその痛みの中、私は左腕にくっきり残った手形の痣と、その指先部分に穿たれた五つの穴を見たのだった。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に。