三回戦26
「くっ!」
咄嗟に身がまえる。
そして理解する――ここまでのマウントは全て布石だったのだと。
いや、もしかしたら向こうもこの状況だからこそ咄嗟に思いついたのかもしれない。
だがそんな事はどうでもいい。
今はここから腕を持って行かれないようにするのが最重要事項だ。
「……ッ!!」
腕が引き上げられ、体から離されそうになる。
「……っの!」
また関節を極められる。その思いから何とか引き戻そうと腕に力を入れた瞬間だった。
「シィ!!」
「ぶっ!?」
腕を引き上げられる事で生じた隙間から、左の拳が落ちてきた。
これまで何度も打たれた拳。だが、腕にいっていた意識はそう瞬時には対応できない。
もろに受けてしまったそれが、鼻の奥の何かをパチンと響かせた。
「ぐっ、ううぅぅっ!!」
そして激痛。
夥しい血があふれ出ている事は見る事が出来なくても分かる。
そしてその間にも奴の攻撃が止むことはない。
「シャッ!!」
ぐちゃ、と湿った音を立てる私の顔。
もうほとんど見る事の出来ない右目の奥の方でそんな音が響く。
そして隣に手本を置いたとばかりに、二発目が左目を塞ぎに来る。
「ぐっ!!」
幸い潰れはしなかったが、次の瞬間には奴がぐにゃりと曲がっていた。
「ハァッ!」
駄目押しとばかりに打ち下ろされた一撃は、以前私がやったように頭を掴み上げられた状態で放たれた。
顔面と後頭部。その両方の衝撃に挟まれた脳みそは一時的に機能をフリーズしてしまったのだろう。
「ぅ……ぁぁ……」
だらりと力が抜けていく。
音が、景色が、急速にぼやけていく。
世界が遠い。
私以外のこの世の全てが遠い。
そしてその遠くの世界から私にアプローチしてきた唯一の存在=奴の右腕。
「う……」
それが私の右襟に差し込まれていく。
(動け動け動け動け!!)
全身に檄を飛ばす。現役時代の自分の弱点を突きまくってきた対戦相手に感謝しなければならない。何をされているのか嫌でも分かる。
「ぅ、ぁ、ぁぁ、ぁぁぁ……っ!ぁぁあああああっっ!!」
奴の上半身が私の頭の左側に倒れはじめるその矢先、絶叫と共に死んでいた脳みそを無理矢理再起動させた。
「ぐぅっ!!」
同時に、その叫び声で体を奮い立たせてブリッジ。逆十字絞めからの間一髪での脱出。
そしてこれは幸運だが、丁度前に倒れようとしていたために奴の重心は前に移動していた。
そんな状態で自分の意図したのとは別のタイミングで下から持ち上げられれば、当然体勢は崩れる。
私をまたぐ形で四つん這いになった奴をどかしながら起き上がり、まだ完全には起き上がっていない奴の首にフロントチョークをかける。
「シャアアッ!!」
叫びながら一気に絞める。
先程タックルを潰した時と同じような姿勢だが、さっきは胴体に巻きつけた腕を今度は首にそうしている。
圧迫して落とすか、或いは――そのままへし折るか。
「おおああああっっ!!」
「ぐぅうううっ!!」
腕に腕に渾身の力を込めて一気に締め上げる。
タックルの形だけ真似るように私の腰に奴の手が触れるが、それに対して私が取ったのは更に腰を落とし、足の幅を開いた立ち方。
決して油断はできない。奴はこの状況からでも寝技に来る。この状況からでも極めに来る。
その直感――いや、正直に言えばトラウマ級の恐怖が更に締め付ける力を込めさせる。
こいつは強い。
はっきり言って恐ろしい――その恐ろしさをどこか喜んでいる自分がいるのも事実だが。
油断も出し惜しみも出来ない相手だ。
勝ち名乗りを受ける前に攻撃の手を止める事は、即ち敗北を意味するだろう。
「おおおっ!」
更に締め上げる。何も鍛えていない普通の少女なら、もしかしたら折れているかもしれない程に。
「かっあっ、あっ、ぐ……っ!!」
腰に触れていた手に力が籠る――最後の抵抗か、そうでなくてもそうにしてやる。
崩されてなるか。そう思って更に膝を曲げ、奴に膝をつかせようとした瞬間、フロントチョークが下から持ち上げられた。
「かっ……ぁぁぁあああああっっっ!!」
「!?」
首が、いや首ごと全身を持ち上げるような、いやそれも違う。
奴は進んでいる。
この状況で、首が折れるのも恐れずに前に踏み出してきている。
その踏み込む力。前へ進む全身の力でもって、私の締め上げに対抗している。
(なんて化け物だ……っ!!)
距離が詰まる。無理矢理詰められる。
そしてそれに比例して、奴の手がしっかりと私の腰を捕まえる。
「こ、この――」
「かぁぁぁあああっ!!」
それは余りに強引な、力任せの入り方だった。
だが、それは成立した。
単なる筋力か、或いは執念のなせる技か。
しっかりと掴んだ相手を、奴は肩に担ぐかのごとく持ち上げたのだった。
居反り投げ。
プロレスのスープレックスのように綺麗に投げきった訳ではないが、一緒に倒れ込むようにして放たれたそれは、硬い床の衝撃と共にもう一度私を寝かせる事に成功した。
「くぅっ……」
最優先:転がって奴から離れる。
寝技は危険だ。
これまで何度か回避できたが、正直もう一度同じ事が出来るかと言われれば全く自信はない。
立って離れて打撃で戦うべきだ。例えまだ目が回復しきっていなくとも。
まだ掴んでいる上に来ている腕を振り払い、そのまま急いで転がっていく。
だが当然そう簡単に逃がしてはくれない。起き上がろうとするまさに瞬間の私を奴が捉えた。
「くっ!」
獲物に噛みついた猟犬のように一気に引き倒しにかかる。
勿論倒される訳にはいかない。振り払おうと暴れながら更に立ち続けようと、奴を突放すあらゆる手段を試みる。
傍目には奇妙な光景に映っただろう。
絡みつこうとする奴と、それから逃れようとする私。ある時は私が立ち上がろうとするのを奴が食い止め、またある時は私が距離を取るために床に伏せ、奴がその上を取ろうと体を起こす。
蹴りはがそうとすればその足を掴みに来る。
それを振りほどこうとすればその動きから倒しに来る。
そうして倒しにきた相手の上を転がって立ち上がる。
その動作を止めようと更に絡みついてくる相手をいなす。
互いの意地のぶつかり合った攻防の末、私は奴に捕まった。
私は左膝をついていた。そしてその時、立っていたらたたらを踏んでいた位にはバランスを崩していた。つまりすぐに立ち上がれる状態ではなかった。
そしてそんな私の一瞬無防備に宙に浮いていた左腕を奴はほぼ立ち上がったような姿勢で右腕を伸ばし、しっかりと掴んでいた。
「くぅっ!」
終わりだ。
咄嗟にそんな言葉が脳をよぎり、それが間違いではないと分かるぐらいしっかりと奴の右手が私の左腕を引き込む。
――終われるか。こんな形で。
私は負けられない。
私は負けたくない。
私は勝つ。
勝たなければならない。
私は勝ちたい。
――それと同じぐらい、まだまだやりたい。
こいつと闘りたい。
「おおおっ!!」
奴の腕に体を預けるように前へ。
そのまま右手で奴の右手首を掴む。
「らあっ!!」
前に引かれた勢いを足の裏に伝えて床を蹴り、同時に掴んだ手首を一気に外へ倒す。
寝なくても関節は極まる。
「ッ!!」
小手返し。
寝ない関節なら、私だってしっかり教わった。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に。