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三回戦23

 「かっ……!」

 気付いたと同時に片方だけとはいえ腕を差し込めたのは幸運だった。

 首に腕が回り、同時にシートベルトのように両足が胴を絞めに来る。右腕を脱出用に差し込んだため、反射的に引き離そうとするのは左腕のはずだが、生憎後頭部を鷲掴みにしている奴の左腕は、私の脇の下を通すことで左腕の動きを封じてきている。


 裸絞めだ。差し込んだ腕をくぎ抜きのように動かして何とかして隙間を作ろうとする私とそのまま絞め落とさんと背中に体を預けてくる奴との攻防がこの二本の腕に集中する。


 「くっ、かっ……」

 ギリギリと音が聞こえそうなほどの絞めつけ。

 もう少しで隙間ができる私。

 もう少しで完全に絞められる奴。


 「かっ、かっぁぁあああ!!」

 「くううぉぉおおおおお!!」

 もう少しともう少し。

 その争いの中、私は踵を床に滑らせながら何とか体に足を密着させていく。

 尻を床に付けて座る様な姿勢になっている以上、今は特にすることのなさそうなこの二本の足が外す時には重要な仕事をすることになる。

 ――そしてそっちに意識が行くという事は、腕の方に勝算があるという意味だ。


 「かっ……は、は、は……」

 他人事のような言い方だが、事実自分でもよく分からないタイミングでのこの感覚には他人事にならざるを得ない。

 絞められていれば血が滞るはずだ。

 まだ完全に絞められた訳ではないとはいえ、少なくともこの状況でそんな事に気付くことはまずないだろう。


 それを、感じ取れている。四肢に熱い血が流れていくのを。

 そして下腹部に熱いものが差し込まれる例の感覚を。

 ――ここで来たのか。この感覚が。


 (随分勿体ぶったな……まあ、いい)

 少しだけ余裕が出てくる。心の中で軽口を叩く余裕が。

 これが出た。ということは、だ。

 「かああっっ!!」

 「!?」

 まだまだやれるという事だ。


 「あっ!」

 奴の声が一瞬だけ聞こえた――突っ込んだ腕が僅かだが隙間を作り上げた瞬間に。

 そうだ。隙間は出来た。

 (よしっ!ここ!!)

 久しぶりに――と言っても数秒だが、この状況では久しぶりと呼べるぐらいに長い時間だ――空気に触れた首を一気に奴の肘の内側に向けて捻る。

 同時に床を往復しながらこするしかしていなかった踵がそれを辞めて、しっかりと床に留まる。


 こじ開けた右腕には次の仕事だ。渾身の力で奴に肘をお見舞いする。

 一発、二発、三発、四発――勿論これで仕留められるとは思っていない。それどころかまともなダメージになっているとも思えない。

 だが、役目は果たしてくれた。衝撃で奴の裸絞めを緩めるというだけの役割は。


 「かっ!!」

 足と首と右腕が同時に動き出す。

 足は立つために。首は抜けるために。右腕は首を補助し巻きついた腕を引き剥がすために。


 結果:首は拘束を脱した。足はまだ立ち上がれはしない――1勝1敗。

 だが、この局面だけで言えば勝ちだ。巻き付いていた腕は既に首から離れ、私の左腕の方へ流れている。


 「くっ!?」

 胴に巻きつけられた足が緩む。

 これ以上この状態で巻きつけておく必要が無くなったのだろう。

 ――そしてそれは、私に立つチャンスが出来たという意味でもある。


 「はぁぁっ」

 振り払うように体をゆすりながら引きつけた足に力を入れて、奴を背負うようにして立ち上がる。途中で軽くなったのは奴が離れたからだった。

 「やっ!」

 そのまま後ろ蹴りを叩き込みながら、その勢いで振り返りつつ跳び下がる。

 振り返った事で数秒ぶりに見た奴――まだ組みつくのを諦めていない。

 「シッ!」

 反射的に右ストレートを叩き込むが、これはしっかりと防がれた。

 「はっ!」

 「ぐっ!!」

 反対にその腕を取られ、同時に奴が跳び込んでくる。


 直感:もう一度の大腰。


 「くぅっ!」

 離れようとした瞬間、股間に妙な感覚を覚え、すぐにそれが奴の手であると分かった。

 掴まれている。右足の太腿の後ろ側を。


 「なに――」

 声を上げた時にはこの変形大腰が発動していた。

 股間に伸びた奴の手が、パンツを食いこませるようにしっかりと太腿ごと私を持ち上げている。

 「あぐっ!」

 そのまま背中から落ちる。通常の大腰のような動きではなく、相手の肩の外側を回されるようにして落とされたために。

 そのためか、息こそ一瞬止まるが背中から落とされた割にダメージは少ない。上から落ちるのに対して位置エネルギーが少ないためだろうか。


 まあいい。そんな事は重要ではない。

 今重要なのは、目の前に迫る危険だ。

 つまり、息が戻るより前にマウントを取りに来た奴だ。


 「……くっ!」

 反射的に腕を引く。

 腕ひしぎ――蘇らせる必要がある程古い記憶でもない。

 だが、それに対する奴の答えは腕ひしぎでも、それ以外の関節技でもなく、ただ一発のパンチだった。


 「ぶふっ!?」

 やはり寝技は苦手だ。

 対応しようと集中すれば、普段ならすぐ思いつく行動が意識から抜けてしまう。

 マウントパンチという、当たり前の行動を。


 「ぐっ!がっ!!」

 慌てて防御姿勢をとるが、それをすり抜けるように奴の拳が振り下ろされる。

 顔面を守ろうとすれば横から。そちらに少しでも意識が行くと今度は正面に。奴は攻撃の軌道を自在に操って、確実にこちらの顔面を腫れあがらせ、目を叩き潰しに来る。

 「ぐうっ!!」

 そうして滲んでしまった右目は、全体にモザイクがかかり、捕捉を左目に一任する事になる。

 この距離でこのスピード。当然ながらそれで対応しきれるものではない。


 「うっ、ぐうっ!」

 雨のように降り続く拳が次々と着弾する。

 奴の拳は測ったように正確にこちらの防御をすり抜けて、頭であればどこでも殴りに来るし、それが決して専門外の猿真似ではない。


 (こいつ……殴り慣れていやがる)

 パンチそのもの、というのも勿論だが、こうしてマウント状態からタコ殴りにすることに、だ。

 振り下ろされるそれは躊躇が無く正確で、速く、そして決して手打ちではない。


 「この……っ」

 顔を守ろうとした腕の隙間をすり抜けて正確にこめかみを殴りに来る。

 ――成程、柔術だ。“私”ではなく、“俺”が知っている柔術。もっと言えば“俺”がプロになった後で思い知った柔術。

 タックルと寝技だけではない、相手を倒し、一度倒せば確実に起き上らせない格闘術としての柔術だった。


 「この……ぐっ!」

 更に一発。

 マウントポジションはお手本みたいに完璧だ。逃げようにも逃げられない。

 そしてそこから放たれる正確無比なパンチ。マウントパンチを打つ機械と言っても過言ではない精度とスピード。


 (大したものだよ、まったく)

 だが、不思議とそれを真正面から見据える事が出来た。

 勿論ダメージはある。

 右目は滲んでしまってぼやっとしか見えない。

 だがそれでも、例の感覚を味わっている時の例に漏れず、頭のどこかに闘志を湧き立たせる自分が次の手を考えている。

 不思議なもので、こういう時の思考というのはある意味自分の意識とは別に行われている。現に、痛いとか恐ろしいとかそういう部分と平行して次の手を打つチャンスを狙っている、現状を楽しんでいる自分がいる。


 (さて、来いよ。もっと、もっと!)

 その自分がパンチを迎えている。

 もっとも丁度いいパンチを今か今かと待っている。

 「うッ!」

 まだだ。

 「……ぐっ!!」

 まだだ。


 「……ッ!」

 よし、来た。

 絶好のストレートだ。


 「シャッ!」

 真っ直ぐ振り下ろされた――というより発射されたと言った方が近いような奴の右ストレート。

 それにカウンターを放つように左腕を伸ばし、僅か一瞬だけ腕同士が交錯する。

 私の左は空を切った。奴の顔には到底届かず、中途半端な空間を打った。

 奴の右も空を切った。顔を狙うはずだったその拳は私の左に干渉されて僅かに軌道を逸らし、顔のすぐ横に落下した。


 (ここだっ!)

 一気に左手を引く。奴が右を引くのよりも速く。

 「ッ!!」

 「……さぁ、捕まえた」

 奴の右腕が一直線の棒になった。

(つづく)

今日はここまで

続きは明日に。

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