三回戦17
「マジかよ……」
思わず漏らした素の声は、幸い試合に夢中で誰にも聞こえなかったようだ。
今の送り襟絞めで決まると思っていた。
決勝で当たるのはカレンだと思っていた。
だが、会長は外した。
それも、相手の足の指を折りにかかる事で、その恐怖心で相手が動揺した隙を突くという戦法で――いや、もしかしたらそこまで考えずに、とりあえず相手の身体を破壊して拘束を弱めようとしたのかもしれないが。
だがなんにしろ、会長は拘束を脱し、今こうして目の前で二人は再度正対している。
「動いたっ!」
会長が前に進む。
それに対しカレンは一歩下がる。
「……」
会長がまた一歩。
カレンは左右に振りながらもやはり下がる。
――気圧されているのか?
だとしても無理はない。誰だって平気で骨を折りに来る相手とやり合いたくはない。
特に彼女は柔道家だ。関節の痛みは素人よりも余程よく知っているだろう。
「……ッ!」
会長が更に前へ。同時にジャブのように左を小刻みに繰り出すと、カレンの反応が一瞬遅れ、拳が鼻先を弾いた。
「ッ!?」
立て続けに二発。
それをガイドラインにするように右の直突が同じく顔面めがけて放たれる。
「ぶふっ!!」
カレンが間合いを誤った――私にはそう思えた。
彼女は前に出て躱そうとして、却って顔面で直突を迎えに行ってしまった。やはり打撃では会長に分がある。
「ぐっううっ!!」
「ッ!!」
だが、止まらない。
一瞬衰えた勢いはすぐに蘇り、突きの為に踏み込んだ会長の足めがけて飛び込んでいる。
距離が近い。さしもの会長でも完全に切ることは出来なかったようで、足から腰へと受ける場所を上げるのが限界だったようだ。
タックルから相四つへ移行――そう思ったのも束の間、カレンは更に密着して、小さな子供が母親に抱きつくように背中に手を回すと、こちらは子供とは到底似ても似つかない怪力で相手を抱え上げる。
「あっ!?」
床から足が離れ、会長が声を上げたのが聞こえた。
「うらああああっ!!」
腹の底に響くような叫び声と共に放たれた、渾身の裏投げ。
タックルはこの布石だったのか。そうとさえ思えるほどに速い業の展開。
「おお……」
だが、私と周囲とがどよめきの声を上げたのはそれが故にではなかった。
「……!」
放り投げたカレンもまた驚いたのだろう。なにしろバックドロップのように背中から落ちると思っていた相手が、両足でしっかりと着地しているのだから。
「はあっ!!」
そしてその着地の直後には、体勢を立て直して首相撲の形に持ち込んだ会長の膝が、カレンの下腹部を抉っていた。
(まるで猫だったな……)
今の裏投げ、会長は空中で半回転して見せた。
どうやったのか腰のホールドを一瞬で緩めてスペースを作ったのだろう。猫が高所から飛び降りるように身をかわし、背中から落ちる投げを足での着地に変更してしっかりと両足で立っていたのだ。
「シャッ!」
二発目の膝がカレンの身体を浮かす。
逃げようにもしっかり首を押さえられてしまっている以上身動きは出来ない。
そしてそれを振りほどく方法を考えられるほどの時間的余裕を、会長が与える筈もない。直ちに打ち込まれた三発目が下腹部に突き刺さるのがここからでも分かる。
「はっ!」
「ぐっ……おおおっ!!」
だが、やはりカレンは只者ではなかった。
四度目の膝を打ち込まれる――いや、正確に言えば腹でそれを止めたのと同時に、その蹴り足を掴みに行こうとしていた。
そしてそれに気づかない会長ではない。
咄嗟に足を引いて――恐らくは――再びの朽木倒しを狙ったであろう剛腕から逃れている。
――なんとなく直感で、会長の次の動きが読めた。
そしてその答え合わせは、その直感が浮かんだ瞬間に行われた。
「うっ!?」
カレンの身体が、支えを失くしたように一瞬浮かんだ。
引き戻された会長の足はしかし、前に出ようとする意思を失った訳ではない。ただ変更したのだ。その行き先と目的を。
「大内刈り!?」
目の前の展開にミーアが驚きの声を上げる。
会長はしっかりとカレンの足を刈り取って、相手を仰向けに転がす。
そこは餅は餅屋で、カレンもしっかりと後ろ受け身を取るが、そのまま手をつかずに後ろへでんぐり返しするように転がって距離を開ける。
その屈んだ顔面へ、容赦のない蹴りが襲い掛かる。
「はぁっ!!」
躱すことなど出来はしない。受け止めただけでも賞賛に値するだろう。
だが、なんとかそれをこなして蹴り足を払っても、もう一度組みにいった時には蹴り足が戻っていて、カレンの手が触れる瞬間には自護体を取っている。
「けぇっ!」
だが今のカレンにはお構いなしだ。
先程よりも速い、最早ローキックと呼んだ方がいいような勢いで会長の足を払いに――というか蹴り飛ばしに行き、同時に上半身は会長の左袖と左腕をしっかりつかんで、体内に取り込むような勢いで前に崩している。
「山嵐ッ!」
こちらが声を発した瞬間、それに反応したかのようにその動きは止まった。
会長の手が、しっかりとカレンの背中側の帯を掴んでいたのに気付く。
山嵐敗れたり。
間髪入れずに払いに来ていた足を外した会長の蹴りが、カレンの軸足のひざ裏を正確に射抜いた。
「ッ!?」
膝かっくんのような状況だった――勿論、そんな間抜けな様子ではないが。
一瞬膝が折れ、高さが下がったカレンの顔面を会長のフック気味に放った左が抉っていく。
続いて鏡写しのような右。更に脳天をかち割る様な肘と、一瞬のうちに三発叩き込むと、仕上げとばかりに先の攻撃で血飛沫を吹いている顔面に膝を放つ。
「おおおっ!!」
その瞬間の動きは、多分今後の人生において誰に説明しても分かってもらえないだろう。
カレンは飛んだのだ。
原理としてはなんとなく分かる。放たれた膝蹴りが鼻を砕く寸前に腕で防ぎ、その蹴りの勢いを使って後ろに飛び下がった。
理屈はそうだ。だが、それだけで膝をついた人間が立ち上がって、それもすぐ相四つに持ち込めるなどという事があるだろうか?
それは或いは、彼女の執念がなした技かも知れなかった。
そしてその執念は、強烈な足払いに乗せられて放たれ――それを上回った執念によって躱された。
「え……?」
一体何が起きたのか。
恐らくその瞬間分からなかったのは私だけではない筈だった。
カレンは間違いなく会長の足を払いにいった。
彼女の右足が、会長の左足を外から弾き飛ばしにいっていた。
だが実際に起きた現実と、その頭の中の事実が合致しない。
会長は悠然と立っていて、反対に払いにいったカレンが会長に側面を晒していた。
そしてそのまま、横向きになったカレンの足を後ろから蹴って払う会長。自分に近い肩と腕を掴んで、同時に後ろに引き倒している。
そして――。
「はぁっ!!」
会長の足が、カレンの首を踏み抜いた。
「なっ……」
びくん、とカレンの身体が一度だけ大きく痙攣して、そして動かなくなった。
残心を示す会長。
ぴくりとも動かないカレン。
審判が駆け寄り、そして――ゴングと共に二人を光が包み込んだ。
この光がある以上、試合中に受けたどのようなダメージでも試合開始前と同様に回復する。例え死亡するような重症であっても、だ。
だからこそ気兼ねなく戦えるのだ。
だが、だがそれにしても――。
「野郎……」
思わず声が漏れる。誰かに聞こえているかどうかなど、最早大した問題ではない。
背中に冷たいものが走っていく。
と、同時に思い出す。日本拳法は世界でも珍しい倒れた相手への踏みつけをルールで認めている格闘技であるという。
しかし当然、そんな事を言っても試合で本気で相手を踏み抜く者はまずいない。当然だ。そんな事をしていては試合の度に死人が出る。だから大体の場合寸止めにするそうだ。
だが、やつは違う。
会長はあの瞬間躊躇しなかった。
そしてあのカレンの反応。
恐らく、そう、かなり高い確率での恐らく。
会長は今、躊躇なく相手を殺した。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に。