エントリー3
「はっ、はっ、はっ……」
エントリーから一週間ほど経つ。
長い金髪をバレッタで纏め、提出の翌日から始めた基礎トレーニングを私は今日も続けていた。
手始めに学園の敷地を一回り走る。一体何にこんな広い敷地が必要なのか、学生寮と教室棟。それにいくつかの付随施設だけなのにも拘らずとんでもない広さだ。
だが、そのお蔭で走り込みのコースには苦労しない。実際、私以外にも出場者と思われる同じような姿の者達が走っているのを何度か見かけたし、現に少し前を真鍮色のシニヨンの生徒が走っている。
同じような姿=体操着に運動靴。
意外だったのだが、彼女らの制服にはいつものブレザー以外にも体操着が存在した。やはり脳筋のお国柄だろうか、貴族であっても体育教育はしっかりと行われている。
そしてもう一つ意外だったのが、今履いているゴム底の靴だ。
この世界にはゴムが普及している。それも高級品ではなく、輸入品ではあるものの庶民でも手が届く代物だ。
ゴム底の靴に加えて柔らかな未舗装の土。お蔭で足を傷める心配は日本にいた頃より少ない。
――もっとも、そんな“俺”にしてみれば恵まれた環境でも、ハンナ嬢にはあまり価値は無かったようだ。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
運動神経は決して悪くない。
むしろ――こうして実際に動いてみると実感するが――筋は良い方だろう。だが記憶を掘り返してみると運動を楽しんでいる様子が全くない。
まあ、日本でもたまにそういう人はいる。スポーツそのものに興味が無い場合とか、スポーツは好きでも体育会系の気風が好かないとか、理由は色々だが。
と言っても、かつてのハンナ嬢のような理由はいないか、いたとしてもごく少数派だろう。
曰く、汗をかいて身体を動かすなどという下賤の行いを貴族がする必要はない――驚いたことに、ハンナ嬢にとっては体を動かすという行為そのものが卑しいものなのだ。
貴族の仕事とは頭脳労働であり、体を使う卑しい行為は貴族に相応しくない。――この脳筋王国においては珍しい気もするが、決してそうではないという事もハンナ嬢の記憶が教えてくれた。
「はっ、はっ、はっ……」
とは言え、“俺”にすればこのポテンシャルを実感するとやはり勿体ないと思ってしまう。
先日図書館で確認した通り、魂は肉体に影響するらしい。即ち、男の格闘家の魂が宿っている以上、ハンナ嬢の肉体はそちらに近づこうと、それまでと体が変わってきているのだろう――勿論性別による限界はあるが。
だがそれ以上に、この体は優秀だ。ハンナ嬢には気の毒だが、私の身体がこれだったのは幸運というより他にない。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ……」
とは言え、幸運だけでもない。
生憎ハンナ嬢、体には恵まれても中身と友達には恵まれていなかった。いや、中身相応といえばその通りだろうが。
その上ハンナ嬢時代には格闘技など少しも齧った事もなかったのだ。となれば頼れるコーチがいる訳でもない。
当然、練習メニューは一人でできるものだけとなる。スパーやミット打ちは不可能だ。
教室棟に隣接する三階建ての体育館では、二階を全選手共用の練習施設として開放しているが、そこで 他の選手やそのコーチやパートナーに頭を下げる訳にもいかない。当然ながら試合に臨むのは彼女らも同じだ。
よしんば受けてくれたとして、態々ライバルになる相手に手の内を曝け出すことになってしまう――これも意外な事なのだが、この世界には現代とほぼ同じような格闘技が伝わっている。他の選手を見ても、皆何かしら見覚えのある格闘技を遣う事は予想できた。という事はつまり、私の技を見てもそれが何なのかあっさり見破られてしまうだろうという事だ。
「はっ、はっ、はっ……」
走り込みの最後。体育館の階段を駆け上がっていく。
息が詰まり、脳に酸素がいかなくなっていく感覚を味わいながらも、それが初日よりも軽くなっている事に気付く。
「はっ、はっ、はぁっっ……」
走り込みを終えて共用練習所へ。丁度練習を終えたのだろう、パートナーと談笑しながら出てきた別の選手とすれ違う。
背は高いが、ただ上背があるだけではなくパーツが総じて大きい。
燃えるような赤毛は私より頭一つ上にある。どんな技を使うかは分からないが、ぶつかれば中々に強敵になるだろう。
「……やれることをやるより、他にありませんわ」
ゆっくりと息を整えながら誰にも聞こえないように呟いて、私はストレッチを始めた。
このところ毎日そうであるように、日が山の向こうに消え、それを追いかけるように西から迫る夜空が上空の大体を占めた頃、私は寮の浴場に足を運んでいた。
この世界にも日本と同様に入浴の習慣があり、学園にもちょっとしたプールのような広さの浴場が設けられている。
「ふぅ……」
その浴場の片隅。久しぶりの心地いい疲労感を感じながら、たらいに汲んだぬるま湯を被る。
そう、ぬるま湯だ。入浴時間になっていない今は、洗い場でこれを被るので我慢である。
無数にいる用務員さん――ここでの言い方をすれば下男と下女のうち、風呂掃除を担当する人に話がつけられたのはまたとない幸運だった。
「私らみたいな事をなさいますねぇ」
そのおばさんはそう言って笑っていたが、使っていない古いバケツ――これは校庭担当のおじさんの所から拝借した――を渡すとそこに前日の残り湯を貯めておいてくれる。
「いつもありがとうございます」
毎回礼を言って受け取ると、おばさんは人のよさそうな笑顔を浮かべて言った。
「いえいえ。尊いお生まれの方でこのような事をなさるのは、私が知る限りは貴女ともう御一方だけですよ」
まだ見ぬぬるま湯仲間がいるらしい。
「あら、そうでしたの?」
「ええ。平民や騎士のご出身の方にはいらっしゃいますが……っと、これはどうぞご内密に」
そこで慌てたように話しを打ちきり、悪戯のように笑った。
ともあれ、バケツ一杯を被って汗を流して部屋へ。続きは風呂の時間に――と言ってももうすぐだが。
「戻りましたわ」
「お帰りなさいませ」
返事と共に扉が開く。
このやり取りにもようやく慣れた。
扉の向こう=私の部屋。なのに声がする。
「お疲れ様でした」
その声の主は恭しく頭を下げて私を迎えた。
黒いお仕着せの上から白のエプロン。短く切りそろえられた真鍮色の頭の上にはエプロンと同色のフリルの付いたカチューシャ。
メイドだ。まごう事なきメイドがそこにいた。
勿論時空が歪んで現代のそういうお店に繋がった訳ではない。彼女=マルタは本物のメイド。この学園にいる間は私の専属となるメイドだ。
ここカシアス女学園では、生徒一人につき一人、専属のメイドがつく。
貴族の子女が生徒の大半を占めるこの学校において、メイドは必須なのだそうだ。
その専属メイドが青白い、怯えたような表情で私に跪いた。
「あの、ハンナ様……」
「あら、どうかなさって?」
ハンナ嬢の記憶によれば彼女は三代目専属メイド。ちなみに通常滅多な事が無い限り卒業まで同じメイドが担当する。
「お言いつけの、大会用コスチュームなのですが……」
歳の頃は同じなのに、この畏まりよう。
いや、畏まるだけではない。その声は震えてさえいる。眼鏡の奥の目が哀れな程に怯えを浮かべている。
――記憶はある。三代目が必要になり、その三代目が震えているのが納得できる記憶が。
「や、あ……」
思わず言葉に詰まる。
その僅かに漏れた音だけが、静まった部屋に一瞬だけ響く。
「……頭を上げて頂戴」
小さく咳払いして告げる。危うくのど元まで上がってきた一般庶民の部分を何とか飲み込み、努めて平静な声を演じる。
――実際には引いている。こんな事をした彼女にではなく、させるほどの振る舞いをしていたハンナ嬢の記憶に。
「どうかなさったの?」
静かに、何でもないように。
だがその事が却って萎縮させてしまったのか、おずおずと床からこちらに向いた顔は不安げに青ざめており、犬のそれを彷彿とさせる丸くぱっちりした目は先程まで向いていた方向=床に固定されているように伏せられている。
「あ、あの……実は……」
まるで自身の死刑判決を読み上げるかのごとき震えた声がその青ざめた顔から発せられる。
(つづく)
今日はここまで。
続きは明日に