三回戦4
お互いにはにかみながら逃げるように風呂場へ。
さっきのやり取りのせいか、何となく顔を見るのが恥ずかしい。向こうもそれは同じようで、お互いになんとなくぎこちないまま平静を装い、黙々と服を脱ぐ。
ただ、お互い全く平静という訳には当然いかない。なんとなくぎこちないという事は、なんとなく意識してしまうという事でもある。
「「……」」
言葉を発する事もなく、互いにただチラチラと時折お互いを確認する――私がそうしているように彼女もそうしているのが視界の隅に映る。多分私も彼女の眼には同じように映っているのだろう。
「……あ」
だが、その移り気な視線を固定するものが、彼女の身体にはあった。思わず声を上げてしまう程のものが。
「え?あ!」
その声に彼女も気付き、私の視線を見て、何に目が行っているのかを理解した。
痣が出来ていた。
右の脇腹の辺りに、それもまだ新しい、とは言え出来たてという程でもないぐらいの痣が。
私もミーアも生傷は絶えない。ほとんど毎日の練習の時のものだ。
だからそれも、きっと練習の過程で出来たものだろうと思っていた。
「えっ、あっ、あの、これは……っ、あの……この前と同じです。その……ベッドから落ちてしまって……」
もし黙っていたら、そのまま練習の時の物で済ませていただろう。
だがその答えは、恐らく事実はそうではないのだという事を、言葉とは反対に伝えていた。
明らかに慌てている。多分、私がこれを見つけることを想定していなかったか、或いは彼女自身でもこれを把握していなかったのだろう。
「ああ、そうでしたの?」
「え、ええ。そうです。お恥ずかしいです……」
嘘が下手だ。
だが、痣を隠す理由とはなんだ?
以前同じようなあざについて尋ねた時も、彼女は同じようにベッドから落ちたと言っていた。
だが、その時と明らかに反応が違う。まるで私に痣を見られては困るというようなものだった。
(まあ、今問い詰めても答えないか……)
隠そうとしているのだ。聞いても答えまい。
――なんとなく嫌な想像が頭に浮かぶが、そう判断するのには材料が少ない。
結局、そのままいつも通りぬるま湯を浴びる事にする。
「はぁ……」
ミーアが隣で長く息をつく。
「こうしていると落ち着きますね」
付け足すような言い方だが、実感がこもっている。
「ええ。そうね」
互いに言葉を交わしながら、どことなくぎこちなさが残っている。
それを抱えたままそれぞれ自分の事を済ませて、いつものように風呂場を後にする。
「それじゃ、今日もありがとうございました」
「はい。こちらこそありがとうございました!」
外に出て互いに一礼。
「じゃ、御機嫌よう。明日もよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
そう言葉を交わしてそれぞれの部屋に戻る。
ミーアの部屋は一階で、私は彼女の部屋に向かう途中で階段を上り三階へ向かう。
特に部屋に決まりはない――表面上は。
ただし実際には暗黙の決まりによって、家柄で階層が決まっているなどと言われている。ミーアのような下級貴族や無領地貴族、或いは騎士や平民出身者は一階、より高い地位にある家の出身者は二階や三階を使えるといった具合だ。
例え建物の都合とは言え、やんごとなき血筋の方々の頭の上に下賤の者の足が来ることなどあってはならない――実際にそういう理由かは知らないが、まことしやかに語られる話だった。
「あら、御機嫌よう」
そしてそのやんごとなきエリアに足を踏み入れた時、唐突に声を掛けられた。
振り向いてみると知らない生徒が数人。リボンタイを見るに学年は同じようだが、誰一人として顔も名前も覚えていない。
「御機嫌よう皆さん」
だが間髪入れずに挨拶を返す。
誰であれ旧知の仲のように振る舞うのがここでのしきたりだ。
「ミス・ハインリッヒ。試合、拝見させて頂きましたわ」
そのうちの一人がそう言った。
「ありがとうございます。光栄ですわ」
「私たち、貴女のあの根も葉もない噂に、密かに心を痛めておりましたの」
と、その代表者の言葉に彼女の周りの生徒たちも同調を示すように頷く。
「どうかお忘れにならないでミス・ハインリッヒ。私たちは貴女を信じ、そして応援しておりますわ。貴女がどのような境遇におられようと、決してその気持ちは揺るぎません」
白々しい――頭の中でハンナ嬢の部分がそう毒づく。
これまでの自分の視点だけでなく、女の視点と貴族の視点が存在するようになるのは、この体の利点かもしれなかった。
「まあ!勿体ないお言葉です!皆様に感謝申し上げますわ!」
とは言え、社交辞令は大切だ。
心からそう思っているようにしっかりと返事をしておく。
大方、私に勝ち筋が見えてきたから鞍替えしようなんて腹だろう。
本当に八百長疑惑が根も葉もない噂だと思っていたのなら、どうして弁護してくれなかったのだ。
どのような境遇にあっても?笑わせるな。大会前、私に声をかけてきた人間がどれだけいる?もしその時にも変わらずお付き合いなどというものがあったのなら、私の記憶にこいつらが残っている筈だ。周りの誰もがいない者として扱っていた時にそうではなかった稀有な例外として。
それから適当に言葉を交わし、歯の浮くようなお世辞を頂いてから部屋に戻った。
今のままなら没落貴族、だかそうでなければ公爵令嬢。随分とまあ、露骨なものだ。
そしてその恥知らず共は、決してそいつらだけでない事はその後すぐに分かった。
夕食の時間、食堂に集まった時にもそれまでとは違う待遇を受ける事となった。
「ミス・ハインリッヒ。昨日の試合は素晴らしかったですわ」
誰か――これまた良く知らない相手だった――にそう言われて、私も社交辞令を返す。
「貴女を応援しておりますわミス・ハインリッヒ。是非我が西棟に栄光をもたらしてくださいね」
これまたよく知らない相手から言われる――こちらにも社交辞令を返しておく。
「次の試合も応援させて頂きますわ。ミス・ハインリッヒ」
ご多分に漏れず――なんかもう疲れてきた。
だがその次に出てきた相手は、少しばかり相手として面白かった。
「流石ミス・ハインリッヒ。愚かな噂に、少しでも友人を疑ってしまった私を、どうか許してください」
そう言って恭しく頭を下げたのはシャーロットだった。
勿論そんな気は毛頭ないなんて事はひしひしと伝わってくる。
周りの風見鶏共を見てとるべき態度を決したのだろう。実力での排除が困難となり、周囲の反応も変わりつつある以上力攻めにするのは賢い判断ではない。
大方、なにか次の手を考えているのだろう。
或いは――そうであって欲しいが――私の排除を諦めてすり寄りに走り、身の保身を図っているのか。
「どうかお気になさらないでミス・ベニントン。私は少しも気にしてはおりませんわ」
取りあえずそうとだけ言っておく。ここで変な態度を取ってそれを口実にされてはたまらない。
「まあ、なんてお優しい……。貴女がお友達でいてくださることが私の一番の幸福ですわ」
よくもまあ……。
結局、そんなやり取りに終始した夕食は、いつにもまして何を食ったのか分からない食事になってしまった。
そんな食堂から逃げるように自室へ。
その道すがら、三階に登る階段の手前で誰かと話していたマルタに出くわした。
「あっ、ハンナ様」
「あらマルタ。どなたかとお話になっていたの?」
どうやら私が気付いた時には相手と別れるタイミングだったらしく、既にその人物は見えなくなっていた。
「ええ。ミーア様のお部屋を担当しているメイドです。お二人が親交を深められた事で、私たちも会う機会が増えましたもので、話してみるととても気の合う人でした」
「そ、そう……」
気の合う。いや、まさかみんなしてそういう趣味の人という訳ではあるまい。
自分の頭に浮かんだその想像を却下して、それを示すように僅かに笑みを浮かべる。
「……それは良かったわね」
流石にそれだけでは――幸いにも――私が何を考えていたのかは分からなかったようだ。
二人で階段を登りながら、彼女はふと思い出したようにその相手から聞いた話を口にした。
「そういえば、彼女から聞いたのですが、ミーア様が冷たい水をよく御所望なさるそうなのです。ハンナ様はご存知でしたか?」
「え?」
唐突に良く分からない話が飛び出してきた。
(つづく)
今日はここまで。
続きは明日に。