三回戦2
試合を終えてから少しして、私は自分の部屋に戻っていた。
「……ふふっ」
久しぶりにいい気分だった。
勝ったことも勿論だがもう一つ。試合中に感じた不思議な、しかし心地いい感情がまだ僅かに残っている。
(あれは何だったのだろう?)
自分でもよく分からない、しかし確かに存在していた感情。
興奮していたのは当然だ。試合中だったのだから。その事自体は以前から、それこそ現代社会でプロになる前から感じている。
だが、今日のように楽しさを覚えたのは初めてだ。
よりはっきりと言えば、楽しさが明確に分かった、つまり、私は今楽しんでいるとあの瞬間自覚できる程に心が躍ったのは初めてだった。
現代にいた頃、試合になるとプレッシャーを感じていた。もっともそれだけではない。実際に始まってしまえば緊張と、同じぐらいの興奮とが感じられたし、プロになるぐらいだから好きでもあったのだ。
けど、感じていたのは今日のそれとは似て非なるものだった。
――もしかしたらこれは、“俺”の頃には無かった感覚なのかもしれない。今の私はハンナ嬢と俺=千曲一直との混合物だ。当然ながらハンナ嬢の記憶が相当量流れ込んでいるし、それが感覚や感情に影響していてもおかしくない。
本来のハンナ嬢の人生では気付くことの無かっただろう、己の中の潜在的感情が目覚め始めているのだろうか。
或いは二人分の人格が混ざり合う事で生まれた感情だろうか。
(だとしたら、どちらでも好都合だが……)
「……まあいいか」
取りあえず分析はこの辺で打ち切る。
これまでも今日ほど強くはないが似たような感覚を覚える事はあった。現役時代もそうだったが、あれが出ている時は調子がいい。
なら良い兆候に変わりはない。今後も続けばいいのだが。
「あら、どちらへ?」
「お湯を浴びてまいりますわ」
立ち上がった時後ろにいたマルタと目が合う。
最初の日から、風呂場のおばさんはいつもちゃんと用意してくれている。汗が冷えてしまう前にいつものぬるま湯に向かおう。
「でしたら、お着替えを……」
「もう、大丈夫ですわ。私一人で」
普段は練習終わりにミーアと一緒に直行してしまうが、今日は私の部屋に戻ってきている。となれば、彼女のお仕事という訳だ。
だが、流石に着替えに手を煩わせるつもりはない。
なんというか、最近思うのは、私が慣れないのは女性に身の回りの世話をされることの妙な恥ずかしさというより、若くて健康な人間が、それまで普通にしていたことを他人に任せる事の妙な申し訳なさのような気がしてきた。
実際、他の生徒と一緒に入浴したり、ミーアと一緒に並んで湯を被るのに関しては最早なんとも思わなくなってきている――慣れって凄い。
「ですが……」
「いつもそうなのですから、お気になさらないで。忙しい思いをさせているのだから、たまにはマルタもゆっくりして」
そう言って自分のタオルとパンツを畳まれた洗濯物の山から引き抜く。
だが、私の言葉はまだ正確に呑み込めていない様だった。
「え?ゆっくり……」
「試合の応援に来てくれた時でも、いつもしてくれているお仕事はしっかりと全て終わらせているでしょう?普段より忙しい思いをしてまで応援に来てもらっているのですから」
試合中もメイドの仕事は山ほどある。
彼女はメイドとしては珍しく試合に応援に来てくれているのだが、私がそれを依頼している訳ではない。毎回彼女が自分の意思で来てくれて、その上その状態でも普段の仕事に全く穴をあけた事が無い。私だってそれは知っている。
「そ、そんなっ、私はメイドとして当然の事をしたまでで……」
さあっと頬に朱がさして、しどろもどろに謙遜するマルタ。
「いいえ。貴女のしてくれている事を当然だなんて思いません。とても感謝しているわ」
偽らざる想いだった。
身の回りの世話をされる事に申し訳なさを感じながらも、彼女のそれが心地よいのも事実だ。
だからこそ自制しなければならない。多分、一度それに甘えたら、それを当然だと思ったら、どこまでも落ちそうな気がする。
――これももしかしたら、ハンナ嬢の記憶との混合で生まれた考えかも知れないが。
「そ、そんな……勿体ない……」
「それじゃ、行ってきますね」
なにやらもじもじしているマルタを尻目に部屋を出る。
「ふぅ……」
扉を閉めたところで小さく溜息を一つ。かなりしっかり本音を言ったが、もう一つひた隠しにしていた本音がその形で外に出た。
この前気付いたのだが、マルタ、私とミーアが一緒に汗を流していたり談笑している時、恍惚とした表情で見ている事がある。
レティシア着替え事件――と私が内心で勝手に呼んでいる一件の事もあり、流石に他の生徒とメイドのように彼女と接するのは僅かに憚られる。
なんというか、その……それまで通りの関係ではいられなくなりそうな気がする。
勘違いかもしれないが、安全策を取るに越したことはない。
(そう考えると面倒だなこの体)
風呂場に向かいながらそんな事を考える。
男としての意識が残ってしまっているが故に男との結婚にはかなり抵抗がある。なんなら婚約を破棄された事を幸運とまで思っているが、だからと言って女同士で……というのにはまだ少しなれというか覚悟がいる。
ただ仲良くしているだけなら流石に慣れたが、それ以上の身体的接触を伴ったりするのはまだどうしても簡単ではない。
「慣れなければいけないのでしょうけど……お?」
ぼやきながら階段を下りたところで、廊下の向こうに見覚えのある人影を認める。
「ミーア?」
一緒にそれぞれの部屋に戻ったミーアだった。
距離があるため彼女の表情などは良く見えなかったが、同じ学年だろう何人かの生徒に囲まれるようにして、倉庫方面に向かって歩いていく。
集まった生徒たちと互いに何か話し、時折他の生徒たちの笑い声を聞きながら、ミーアは曲がり角の向こうに消えていく。
「……」
声をかけようとしてやめた。
今まであまりよく彼女の日常を知らなかったが、彼女には彼女の友達がいるのだ。せっかくの楽しい時間を邪魔しては悪い。
私は踵を返し風呂場に向かった。いっつも付き合ってもらっているのだ。たまには友達との付き合いだって必要だ。
(つづく)
今日はここまで。
続きは明日に。